署名:『我が子に教えたい日本の戦争犯罪・東京裁判 』: 日本はどんな悪い事をしたのか。 ・・・¥500
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内容紹介:
第1章、村山談話
村山談話は、アジア侵略と植民地支配を謝罪反省している。しかし、東京裁判の侵略有罪判決は、欧米植民地侵略であって、アジア侵略有罪判決は無い。そして、東京裁判には植民地支配有罪判決は無い。
それなのに日本の総理大臣が、「戦後50周年談話」として有罪判決が存在しない日本の戦争の罪を、事実であるかのように日本国民、そして世界に公表したのが村山談話である。
しかし、この村山談話の歴史改竄は、講和条約11条の裁判判決受諾規定に違反しており、憲法の条約誠実遵守義務にも違反している。
このような歴史の捏造を日本の総理大臣が行い、その村山談話を日本政府が20年以上も踏襲して来たのであるが、何故このような条約無視・憲法無視という不法談話を、日本人が見逃して来てしまったのか。
それは、敗戦後のGHQの洗脳と、その後の特定日本人によるプロパガンダによって、日本全体が半世紀も誤った歴史認識を信じ込んでしまって来たと云う事である。
過去の戦争で、日本はどんな悪い事をしたのか。それを確定したのが東京裁判と戦犯裁判であったにも関わらず、大半の日本人は、それらの裁判が、国際法上合法だったのか非合法だったのかを知らず、どのような裁判が行われ、判決は有罪だったのか無罪だったのかも知らぬまま、ただ『日本は悪い事をしたのだ。』とだけ思い込まされてきた。
・・・これからの日本を担う子供達に、過去の日本の戦争とは何だったのか。日本はどんな悪い事をしたのかを、教えたい。
第2章、東京裁判
侵略国家とされた枢軸国の降伏条件は、無条件降伏だった。しかし、枢軸国で日本だけが、アメリカからポツダム条件を提示され、有条件降伏している。このポツダム条件降伏は、不戦条約が放棄していない自衛戦争の降伏条件であって、侵略戦争の無条件降伏では無かった。
降伏直後は、アメリカの報復感情から、降伏条件違反の東京裁判が強行され、6人のA級戦犯と1人のB級戦犯(松井大将)が絞首刑になったが、全て冤罪であった。
A級・侵略犯罪を起訴した東京裁判の大前提として、事後法違反以前に、ポツダム降伏条件に違反した不法裁判であった事を日本人は知らない。そして・・・
1, 満洲事変以後の中国侵略・訴因27は、過去に確定済みの条約を否定して、日本領土を盗取する目的で起訴した誣告であった。
2, 支那事変以後の中国侵略・訴因28は、中国が日本を先制侵略して開戦した為に、松井大将は中国侵略も侵略共同謀議も無罪になった。反発した中国は南京大虐殺を捏造して、A級侵略無罪の松井大将を虐殺証言だけでB級不作為責任戦犯として絞首刑にした。しかし、虐殺証言は偽証だったので、実行犯は1件も起訴出ず、南京虐殺事件は誣告であった。
3, 松井大将は、中国の先制攻撃で開戦した上海戦に引き続く南京攻略戦までも侵略無罪になり、中国侵略・訴因28自体が削除され、支那事変以後の中国侵略で有罪になった者はいない。これは、真珠湾に先制攻撃した日本に応戦したアメリカが継続戦争中に侵略に変わらないのと同様に、支那事変以後終戦までの中国侵略訴因28が消滅したのである。
4, アメリカ侵略・訴因29については、アメリカによる先制経済封鎖によって追い込まれた日本が、敵基地先制攻撃によって開戦したものである。宣戦布告無しの開戦はアメリカ駆逐艦の砲撃によるもの。アメリカは侵略国と同盟している為、日本のアメリカ侵略は誣告である。
5, イギリス侵略・訴因31については、イギリスは、ソ連と共にイランに中立侵犯した侵略国家であり、不戦条約違反国家との戦争は、敵基地先制攻撃を含めて、不戦条約違反ではないので誣告である。
6, オランダ侵略・訴因32については、オランダは、オーストラリアと共にポルトガルに中立侵犯した侵略国家であり、不戦条約違反国家との戦争は、敵基地先制攻撃を含めて、不戦条約違反ではないので誣告である。
7, フランス侵略・訴因33については、日仏の協定に基づく合法進駐を侵略起訴している誣告である。
8, ソ連侵略・訴因35・36については、日本固有の領土を盗取する目的で、単なる国境紛争を侵略起訴している誣告である。
アメリカは、日本を叩き潰した戦後になり、共産主義と最前線で戦う事になって漸く日本を理解出来るようになり、その反省から、サンフランシスコ講和条約では日本を侵略国家扱いせず、名目上は対等の国家として講和会議に招請した。
枢軸国の中で、自衛戦争の講和形式だったのは、日本だけである。
第3章、戦犯裁判
従来の戦争では、停戦後に一部で報復が行われる事はあったとしても、倍賞問題に移行して、敗戦国民を戦犯裁判によってリンチするという国際慣習は無かった。
しかし、アメリカが『侵略戦争という国家犯罪を犯した国の国民は、戦勝国に引き渡し、戦犯裁判を実施する。』という方針だった為、ポツダム降伏条件受諾後、アジア各地50箇所以上で、米英蘭仏比中ソの7カ国による戦犯裁判が行われる事になった。
日本は侵略国家では無かったが、ポツダム降伏条件提示の留保として、B級戦犯裁判の実施が規定されていた為、戦犯裁判実施自体は不法では無かった。しかし、起訴された戦争犯罪の大半は、誣告冤罪であり、裁判という名目で行われたC級人道犯罪であった。
本章に戦犯裁判起訴理由概要表・全編を掲載する予定であったが、概要表は文字数だけで100万字を超える文書であり、資料的価値維持による随時更新対応の為、以下7冊の各国B級戦犯裁判に分冊する事とした。
3-5、アメリカ管轄戦犯裁判・5法廷458件1409名
3-6、フィリピン管轄戦犯裁判・1法廷70件151名
3-7、イギリス管轄戦犯裁判・11法廷309件953名
3-8、オーストラリア管轄戦犯裁判8法廷・302件910名
3-9、オランダ管轄戦犯裁判・12法廷448件1100名
3-10、フランス管轄戦犯裁判・1法廷41件195名
3-11、中国管轄戦犯裁判・10法廷604件919名
以上、合計5645名に加えて、
3-12、中共管轄人民裁判
3-13、ソ連管轄粛正・・・において、4,000名以上が虐殺されているが、これらについては現状、情報量が少ない為、中国裁判に附録する。
31、日本に対するA級侵略罪の訴追はポツダム降伏条件違反
日本のC級・人道犯罪を訴追しようとしても、カイロ宣言で非難した「朝鮮の奴隷状態」は存在せず、「中国・アジアにおける残虐行為」の規模・対象はB級・通例戦争犯罪が限度で、C級・人道犯罪が適用出来なかった。そこで、原爆投下や東京大空襲という明白な人道犯罪を行なっていたアメリカとしては、日本をC級・人道犯罪で起訴出来ないのなら、懲役刑限度のA級・侵略犯罪を重大犯罪であったかのように見せ掛けて有罪・死刑にする必要があった。そのためにGHQの強権を使って、広範囲に共同謀議者を起訴し、併合罪としてB級通例戦争犯罪の虐殺不作為責任事件を起訴有罪にして、侵略犯罪者を処刑したのが東京裁判であった。
アメリカは、ポツダム宣言第六項「吾等ハ無責任ナル軍国主義カ世界ヨリ駆逐セラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序カ生シ得サルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ツルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレサルヘカラス」を拡大解釈して、陸戦法規に違反する憲法改正、公職追放、WGIPなどを行なっているが、最も重大なポツダム降伏条件違反は、東京裁判の強行であった。
ポツダム宣言第十項は、「吾等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ又ハ国民トシテ滅亡セシメントスルノ意図ヲ有スルモノニ非サルモ吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰加ヘラルヘシ日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スヘシ言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルヘシ」と、戦犯処罰を明記している。
この「一切の戦争犯罪人」とは、1943年12月に連合国戦争犯罪委員会が世界に公表した処罰予定32項目(1944年5月追加・無差別集団逮捕)のB級通例戦争犯罪人の事であり、A級侵略犯罪人やC級人道犯罪人は含まれていなかった。同宣言第五項が「吾等ノ条件ハ左ノ如シ 吾等ハ右条件ヨリ離脱スルコトナカルヘシ右ニ代ル条件存在セス」と明記していることから、アメリカが侵略犯罪を裁く東京裁判を強行したのは、明白なポツダム降伏条件違反であった。
32、ニュルンベルグ裁判と東京裁判の訴因の違い。
ドイツの侵略犯罪などを裁くニュルンベルグ裁判条例を協議した米英仏ソのうち、フランスは国際慣習通り戦争自体は違法では無いと主張し、侵略戦争を行なっていたソ連も之に賛同したが、ドイツに限るという条件で侵略犯罪の適用を認めたため、米英のカサブランカ宣言通り、ドイツによる戦争全てを侵略行為とすることとなった。ニュルンベルグ裁判の国際軍事裁判所条例は、4カ国ロンドン協定の付属書として公表され、侵略戦争犯罪自体は、有期刑が限度の軽罪という共通認識が有り、主要訴追対象はあくまでも人道犯罪であった。
4カ国協議の結果、ニュルンベルグ裁判の訴因は「侵略戦争共同謀議」・「平和に対する罪」・「人道に対する罪」・「通例戦争犯罪」の4件に限定された。「平和に対する罪」とは侵略戦争犯罪のことであるが、何故「侵略戦争共同謀議」が別件で定められたかというと、ナチス、ゲシュタポ、親衛隊、保安隊などを謀議団体として、「平和に対する罪」で直接起訴出来ない者らを、「共同謀議」名目で広範囲に逮捕・捜査・起訴して、多数の有罪判決を下す目的で定められた。しかし、ドイツに対する主罪はC級・人道犯罪で、この罪状により多数の証拠で極刑に出来たため、A級・侵略罪や共謀罪は重視されなかった。
一方、東京裁判の当初訴因は、「A級・平和に対する罪」「B級・通例戦争犯罪」「共同謀議」など55件で、宣戦布告前の真珠湾攻撃を殺人罪として起訴する国際法慣習無視や、些細なB級通例戦争犯罪を東京裁判で起訴するなど、判決時に10件の訴因にまとめられたが、ニュルンベルグ裁判のような明確な方針によって起訴されたものではなかった。また、カイロ宣言で公表されていた「朝鮮の奴隷状態」や、特に「中国各地の大虐殺」は、戦中にイギリス情報局から「単なるプロパガンダ」という報告が有り、極刑判決に必要なC級・人道犯罪は1件も起訴されなかった。
日本に対する軍事裁判で、重大戦争犯罪の処刑者を多く出したかったアメリカとしては、ドイツの場合は多数のC級・人道犯罪の証拠があったので、侵略罪に拘らずとも多数の死刑判決を下せたが、C級・人道犯罪を起訴出来なかった日本の場合は、A級・侵略罪だけでなく、共同謀議を広範に評価しほぼ無関係の者まで起訴した。また、侵略や共同謀議罪だけでは極刑に出来ないために、A級・侵略罪にB級・通例戦争犯罪の不作為責任を併合罪として起訴し、極刑を下さなければならなかった。このB級・通例戦争犯罪は、部下による犯罪行為を抑止出来なかったという不作為責任を負わせたもので、部下による犯罪行為の証明や、部下の犯罪行為を知り得たか否かの証明もなしに極刑にするという不当なものであった。
東京裁判の判決は、判決文として成立し得たかを疑うような文章で、不合理な連合軍主張を書き連ねているだけの判決であった。
33、東京裁判において人道犯罪の適用はなかった。
ドイツ裁判では、多数の人道犯罪が起訴され、有罪になっているので、東京裁判でも人道犯罪が有罪になったと世界が思い込んでしまっているが、東京裁判において人道犯罪は1件も起訴されなかった。
東京裁判の国際検察団はGHQの意向を受けて、日本による人道犯罪を起訴したかった。そこで、カイロ宣言において言及されていた朝鮮の奴隷状況について、男性に対する強制労働や、ドイツが行なっていたような異民族女性に対する強制売淫を起訴しようと、アジア各地で捜査されたB級戦犯裁判資料や尋問記録を集めて、C級人道犯罪に該当するかを捜査検討したが、結局起訴出来なかった。また、中国やアジア各地で行なわれた市民大量虐殺を起訴しようとしたが、B級通例戦争犯罪による起訴が限度で、C級人道犯罪では起訴出来なかった。
その結果、東京裁判において、C級人道犯罪は1件も起訴出来なかったのである。
「ドイツは、戦争犯罪を反省し謝罪賠償しているが、日本は戦争犯罪に対する反省が薄く、謝罪賠償が不充分」という主張が、ドイツ地方紙に掲載されたこともある。
しかし、ドイツは、1950年11月8日・西ドイツ連邦議会メルカッツの独兵名誉回復演説、1952年9月17日・西ドイツ連邦議会メルカッツ・メルテン・エーヴァースの戦犯裁判批判演説、1952年12月3日・アデナウアー首相の国防軍名誉回復演説などが、何度も繰り返され、1997年ドイツ国内で開催された「絶滅戦争・国防軍の犯罪1941〜1944」パネル展に反発し、「ドイツ国防軍従事者へのあらゆる非難に、断固として反対する決議」がドイツ連邦議会で採択されている。
これは1965年、アルントのナチ犯罪と戦争犯罪分離演説路線が示した通り、ドイツが認めているのは、ナチ犯罪としてのC級人道犯罪だけで、国防軍によるA級侵略犯罪とB級通例戦争犯罪はドイツ連邦議会が否定しているのである。
「ドイツと比べ戦争犯罪を否定する日本」という誤認識基づく日本批判があるが、日本に適用されたのは、ドイツの連邦議会が否定しているのと同じ、A級侵略犯罪とB級通例戦争犯罪だけであって、ドイツが認めているC級人道犯罪は、日本には適用されなかった。ドイツを見習って、日本が「大日本帝国陸海軍従事者へのあらゆる非難に、断固として反対する決議」を衆参両院で可決してA級、B級犯罪適用を否定したら、C級人道犯罪国家のドイツは、「道徳的に劣位にある日本」を批判する事が出来なくなる。
国家無条件降伏したドイツには旧来の講和が認められなかったので、日本と違って講和成立で発効する大赦条項の適用には疑義があるが、批判を無視して戦犯の特赦を強行したり、90年代でも戦犯の懲役刑継続していたりなど、戦犯に対する認識が不充分である。
34、東京裁判起訴前後で、侵略定義は変更された。
アメリカは、ポツダム宣言提示によって、日本に対する侵略国定義を一時的に撤回したが、東京裁判開廷時には、無条件降伏した枢軸国と同様に日本の戦争全てを侵略戦争と見做して、米英蘭仏中ソの外、タイ、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、比島・インド(計画のみ)に対する戦争も侵略として起訴した。
タイ侵略について、軍事裁判で起訴する以上、検察は有罪の確信があって起訴したと思われがちだが、日本の同盟国だったタイとの戦争行為は、マレーへの進攻準備で偶発的に起きた戦闘であって侵略では無いことは明らかであった。従って、タイ侵略については、好意的に判断して東京裁判の正当性を示すために、無罪判決予定で起訴したとも思われる。
比島・インド侵略については、日本の戦争目的のアジア解放を否定するために、アジアの一部であるフィリピンとインドの裁判官を東京裁判に招致して、彼等の被植民地国に対する侵略を起訴したに過ぎない。しかし、比島・インドは米英の植民地であって、1943年に日本が比政府を承認したが、アメリカは「傀儡」と批判し独立を認めなかった。従って、欧米植民地の比島・インドに主権はなく、被侵略国には当たらない。これらに対する日本の進攻は、米英に対する侵略として起訴済みで、判決には含まれなかった。
また、.オーストラリア、ニュージーランド、カナダは、イギリスに従い参戦しているため、日本との戦争を被侵略戦争として起訴したが、東京裁判開廷後に、先制攻撃を侵略とする方針に変更され、自国本土が侵略されていない段階で対日戦争に参加している.オーストラリア・ニュージーランド・カナダ侵略は判決されなかった。オーストラリア本土は、100回程度日本軍に攻撃されているので、侵略有罪は不可能では無かったが、オーストラリアは、対日戦争のためオランダと共に中立国だったポルトガル領チモールに先制進攻している。この中立侵犯について、日本では一切触れられないが、第1次大戦後の国際会議で中立国に対する進攻を侵略と見做す国際合意が成立しているので、オーストラリア侵略判決を残す事を避けたのかもしれない。
フランス侵略については、ヴィシー政権との合意による北部仏印進駐時の偶発的戦闘期から侵略起訴されたが、判決では侵略始期を曖昧のまま南部仏印先制攻撃を以てフランス侵略有罪判決が下された。
中国侵略については、緒戦の上海・南京戦を日本による侵略として起訴したが、起訴後に先制攻撃有罪への方針変更から、証拠によって中国側の侵略により開戦したことが明らかになり、重要裁判をオーストラリア侵略などのように判決無しでは済ませられず、日本による侵略については無罪判決が下された。日本では、「中国による先制攻撃は自衛目的であったため、日本による侵略が無罪になっても、中国による侵略戦争には当たらない。」という主張がある。しかし、中国は上海停戦協定に違反して、非武装地帯を侵犯して日本の共同租界に侵攻しているため、第1次大戦の中立侵犯不法の先例から、不戦条約の自衛戦争主張は認められない。日本による上海・南京侵略無罪判決の代償として冤罪の南京虐殺事件が捏造された。
<参考>
戦争違法化の変遷
・第1次世界大戦まで・・・先制攻撃を含む全ての戦争は合法
・第1次世界大戦後・・・中立国への進攻は自衛名目に関わらず違法な侵略戦争
・1928不戦条約・・・自衛戦争以外の戦争を放棄、違反国は不戦条約の利益が得られない。
・1943カサブランカ宣言・・・枢軸国による戦争は全て侵略戦争
・1945ニュルンベルグ裁判・・・枢軸国・ドイツによる戦争は全て侵略戦争
・1945ポツダム宣言提示・・・日本の戦争は不正ではない通常戦争
・1946東京裁判起訴段階・・・枢軸国日本による戦争は全て侵略戦争
・1946東京裁判開廷後・・・国家無条件降伏していない日本は、侵略枢軸国定義から除外され、先制攻撃を侵略戦争とする定義に変更された。
日本の先制攻撃であった対欧米戦争については、74年の国連決議と同様、先制武力攻撃である戦争惹起行為を違法な侵略戦争として起訴継続された。
・1948東京裁判判決後・・・不戦条約の先制自衛攻撃容認が自動復活、自衛名目の戦争惹起行為である敵基地先制攻撃正当論は不戦条約上合法な戦争。
・1974国連侵略決議・・・・東京裁判判決に合わせて、先制攻撃は「一応違法な侵略戦争」とされるが、第1次大戦後の侵略定義・「条約の神聖を冒した戦争」定義は無視。
・2010国際司法裁判所侵略定義・・・国連決議と同様に、戦争惹起行為を侵略と定義しただけの無意味な定義。
日本に於ける侵略定義は、1946東京裁判当初起訴段階、即ち「日本による戦争は全て侵略戦争」で固定化されてしまっている。この思考停止に、村山談話の戦犯裁判判決歪曲捏造が加わって、東京裁判判決無視の講和条約違反、違憲村山談話が踏襲されてきた。
35、東京裁判の侵略判決
35-1、侵略戦争とは何か。
不戦条約は、先制進攻が行なわれても、当事国が自衛を主張すれば自衛戦争と認めるザル条約であったが、第1次大戦後の国際合意で「国際道義に反する条約違反の戦争が平和に対する罪」とする国際合意が成立していたと見做され、たとえ自衛目的であっても、中立条約違反の先制進攻を違法な侵略戦争とするのは、不戦条約に整合している。
中立侵犯の先制進攻を侵略戦争とする国際合意があるのに、東京裁判でこの侵略定義が無視されたのは、第2次大戦中の対独戦争のため中立国イランにイギリス・ソ連が先制進攻し、対日戦争のために中立国ポルトガル領チモールにオランダ・オーストラリアが先制進攻していた為である。また、対日戦争において中国は、上海停戦協定に違反し非武装地帯に先制進攻し、この侵略行為についてアメリカは「日本による侵略戦争」とプロパガンダして、イギリス・オランダ・中国と共に準戦争行為の先制対日経済封鎖を行っていた。そして、ソ連が中立条約違反の満州・日本侵略戦争を行なっていたからである。従って、全ての連合国は侵略戦争の共同正犯であったため、不戦条約前文の「本条約ノ供与スル利益ヲ拒否セラルベキモノナルコト」により、日本に対し自衛戦争を惹起したり、平和的手段を求めることが出来ない。この連合国による侵略行為隠蔽のため、東京裁判では単に先制攻撃を侵略戦争として日本を裁いたのである。また、戦後の国連侵略決議においても、戦争惹起を侵略戦争と定義し、中立違反は無視されたままである。
35-2、東京裁判における満州侵略
日本人の多くが、「満州侵略は、日本による明らかな侵略だった。」と思い込んでいるため、満州侵略有罪判決をそのまま受け容れてしまっている。
しかし、太平洋戦争を裁く東京裁判において、戦前に国際法上終結している別の戦争が、何故裁かれたのかを疑問視することなく、戦勝国の言うがまま満州侵略について日本を批判するのは、日本の立場で歴史を認識することが出来ないからである。
東京裁判においては、1928年から1945年までの間の中国侵略が起訴されている。具体的な審理過程において、張作霖爆殺事件・柳条湖事件以降の満州事変、並びに第2次上海事変から首都南京攻略戦まで、そして、その後の日中戦争の3期間について侵略戦争犯罪人を起訴し、審理されている。
張作霖爆殺事件は、単に謀殺事件であって、戦争行為には当たらない。また柳条湖事件以降の満州事変は、リットン報告も認めている通り、張軍閥による条約違反、対日テロに対応する自衛主張が可能であり、そもそもこの満州事変は、日中間の停戦協定で国際法上終結し、日中の国交は回復していた。それが何故侵略起訴されたかと言えば、ローズヴェルトによるカイロ宣言正当化のため、並びに第2次上海事変以降の中国侵略が無罪になった場合でも、満州事変から継続する侵略行為全体として侵略判決を誘導するためである。
日本では河本大佐による張作霖謀殺説が定説になっているが、東京裁判でパル判事が指摘している通り、ソ連と衝突していた張作霖の抹殺はソ連にとって最有益で有り、未だ日本を利用する意思があった張作霖を謀殺した結果、張学良の反日行動を招いただけで、日本のメリットは少なかった。
実質的な満州侵略戦争は、1931年9月の鉄道爆破の柳条湖事件により開始され、1933年5月の塘沽停戦協定により終結した。この塘沽協定が「講和条約としては不充分だった。」という主張があるが、国際条約を尊重遵守しないのは中国の伝統であり、中国による戦争終結否定並びにこれに同調する日本人の主張は、日本を侵略国家にしておきたい願望に過ぎない。
満州事変は、リットン報告でも日本による侵略行為と断定されず、特殊権益の存在が認められ、連盟の制裁対象にもならなかった。日本による満州進攻は、張軍閥の対日条約違反や抗日テロに対抗するもので、日本の安全保障上、自衛戦争であった。当時張学良軍閥は、弟の張学思は共産党員であり、後に学良も西安事件を経て入党していることから、1932年4月日本に宣戦布告した中共に近い親共軍閥であったといえる。この満州進攻は、日本の自衛戦争であり、「先制進攻を留保容認し、自衛戦争の決定権は当事国にある」という不戦条約に違反していない。
日本の自衛戦争であり、且つ二国間条約で終結している満州事変が、何故東京裁判で起訴されたのか。それは不法不当のカイロ宣言を正当化するためである。
カイロ宣言は「満洲、台湾及澎湖島ノ如キ日本国カ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民国ニ返還スルコトニ在リ」としている。
台湾及び澎湖島は、日清戦争の講和条約において清国から日本に割譲された地域であって、条約により確定した領土を盗取とは言わない。また満州は、日露戦争の講和条約において、ロシアの利権であった鉄道と付属地のうち日本軍挺身隊が進出した南満州領域までの管轄権を得たものであって、南満州領土自体は清国に返還しているので、管轄権の割譲は清国も同意しており盗取には当たらない。
満州事変当時は、漢民族・奉天軍閥が既に清国・満民族から盗取支配していた領域であって、日本が清国人から盗取した事実は無い。
当時の満州は、、清復辟派の宗社党や蒙古、各軍閥の外、コミンテルンも絡む混乱状態を、日本軍がようやく治安維持している状況であった、また、元清国皇帝溥儀は、退位条件の紫禁城居住や年金給付・陵墓保護の約束を中華民国に反故にされ、いつ暗殺されてもおかしくない状況にあった。満州事変により、日本は当時満州を盗取していた張軍閥を排除して清国人の国家・満州国の独立支援をしたともいえるが、少なくとも「清国人より盗取」には当たらない。カイロ宣言は、「満民族の領土満州を漢民族に返還する」としているが、「清国人から盗取した。」と日本を批判しながら、清国皇帝溥儀が復辟していた清国人の国家・満州を、漢民族の中華民国に盗取させる宣言に過ぎない。
大西洋憲章と共に、カイロ宣言でも「同盟国ハ自国ノ為ニ何等ノ利得ヲモ欲求スルモノニ非ス又領土拡張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ス 右同盟国ノ目的ハ日本国ヨリ千九百十四年ノ第一次世界戦争ノ開始以後ニ於テ日本国カ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ剥奪スルコト」と、連合国の領土不拡大が宣言されていた。
しかし、アメリカは、太平洋戦争において日本が占領した領域だけで無く、第1次大戦後の講和で日本が得た太平洋の委任統治領まで奪取と非難宣言し、加えて日清戦争の講和で画定された台湾及び澎湖島を、清国人から盗取したと日本を非難しながら、日本と中華民国間の戦争終結を無視して、清国人の国家とその領土満州を中華民国に与える旨宣言したのである。
作戦の過程でアメリカが日本領に進攻することは有り得ても、事前に日本領剥奪を宣言している以上、アメリカの領土不拡大宣言は虚偽である。また、中国領土拡張は、中国に日本と単独講和させないためのアメリカによる贈賄である。日本の大東亜戦争主張は、日本が敗戦したため日本人まで否定しているが、欧米にとっては人種間戦争と位置付けられることは非常に問題があった。その為、黄色人種の中国を連合国に引き留めておくために軍事経済支援して、日本との単独講和を妨害したのだが、それだけでは欧米からも侵略され続けてきた中国を満足させられない為、過去の条約で終結した戦争の結果画定した「満州・台湾・澎湖島」を「中華民国に与える。」と約して、日本が進攻した東南アジア諸国の独立運動までも華僑に妨害させたのである。
そこに何の正義も無かった。「清国人から日本が奪った満州」というのは「日本が支援して再興した清国人国家満州」であり、その満州を漢民族の中華民国に与えたのである。そしてこの不法性は、ソ連が満州に侵攻し、中共が満州を奪っても、アメリカは関与しなかったことからも明らかである。
当然ながら、日本が単純な善意で満州を建国した訳では無い。しかし、張軍閥による対日条約無視や反日政策、頻発するテロ、そして易幟だけで無くその後の赤化を考えた時、満州に親日国家を建国支援することは、日本の安全保障に重大な意義があった。
満州を中国侵略と主張するのは、中国によるチベット・ウイグル・内モンゴル侵略批判に対し内政問題と正当化する中国の主張と同じである。
日中間協定で終結済みの満州事変を、10年以上後の大平洋戦争裁判で侵略罪を強要するのは、スチムソンの「強制された講和は無効」以上に不法であり、多国間の過去の戦争終結の領土条約全てに無効主張が可能になり、大西洋憲章や領土拡張を否定したカイロ宣言前段にも違反している。
戦後、中華民国に与えられた満州では、満州民族・文化は消滅しつつある。
過去の国際条約で画定済みの領土を奪還できるというカイロ宣言を知ったスターリンは、日露戦争の結果も反故に出来ると考え、テヘラン会談で対日参戦を表明し、千島をソ連固有領土とローズヴェルトに主張して(随行員証言)、日本固有領土を盗取するヤルタ密談に繋がるのである。
ソ連による中立国満州侵略と満州日本人老幼婦女子虐殺20万人は、スターリンとローズヴェルトの合作である。
35-3、東京裁判における中国侵略無罪判決
支那事変緒戦の上海戦から南京攻略戦を指揮した松井大将は、中国侵略罪と侵略共同謀議罪で起訴されたが、どちらも無罪になっている。これは、松井大将の指揮した戦争が中国側による対日先制侵略への応戦・自衛戦争と認められたからである。また、他の中国侵略有罪犯・板垣・土肥原・広田らとの共同謀議も無罪になっていることから、他の中国侵略とは完全分離され、上海防衛・南京攻略戦争が独立して侵略無罪が認定されたことになる。この中国侵略無罪は、筆者個人の歴史認識ではなく東京裁判判決文に明記された史実である。
東京裁判で日本が侵略無罪となった上海事変勃発直後、南京攻略戦戦前の1937/10/5に、ローズヴェルトはシカゴで、世界でおこなわれつつある侵略行為を非難し隔離演説を行った。
「世界の九割の人々の平和と自由、そして安全が、すべての国際的な秩序と法を破壊しようとしている残り一割の人々によって脅かされようとしている。(…)不幸にも世界に無秩序という疫病が広がっているようである。身体を蝕む疫病が広がりだした場合、共同体は、疫病の流行から共同体の健康を守るために病人を隔離することを認めている」・・・上海事変によって、日本の平和と自由そして安全を脅かしていたのは、中国とドイツであった。
「宣戦の布告も警告も、また正当な理由もなく婦女子をふくむ一般市民が、空中からの爆弾によって仮借なく殺戮されている戦慄すべき状態が現出している。このような好戦的傾向が漸次他国に蔓延するおそれがある。彼ら平和を愛好する国民の共同行動によって隔離されるべきである」「世界的無法状態という疫病が広がりつつある」・・・「宣戦の布告も警告も、また正当な理由もなく婦女子をふくむ一般上海市民が、空中からの爆弾によって仮借なく殺戮されている戦慄すべき状態」を現出させていたのは中国軍であった。
上海・南京侵略無罪判決で明らかなように、上海事変は、ドイツと共謀した中国によって1932年5月5日に始められた上海停戦協定違反の日本侵略戦争であった。米政府の日本非難見解とは異なり、当時から欧米各紙は、中国の侵略行為と日本の抑制的対応を好意的に報じていたので、東京裁判検察も上海侵略無罪も想定していただろうが、南京侵略まで無罪になるのは予想外だったようで、侵略無罪の代わりに無理矢理虐殺不作為責任事件を捏造して、松井大将を絞首刑にしている。
上海事変中から欧米各国は、中国がドイツ軍事顧問団の指導と軍事支援を受け、協定違反の数万のトーチカ群などのゼークトラインを構築し、大軍による対日先制攻撃を仕掛けており、毒ガス兵器も使用していたことを確認していたので、東京裁判判決を待つまでもなく、当時世界的無法状態を広げていたのは中国・ドイツであった。ローズヴェルトの隔離演説の対象が日独だったという主張があるが、ローズヴェルトは中国利権獲得目的で中独間の同盟関係離反を謀っていただけで、隔離演説の対象はあくまでも防衛戦争を行っていた日本であった。東京裁判・中国上海南京侵略無罪判決で明らかなように、隔離演説後にローズヴェルトは、日本に対し侵略戦争を仕掛けていた中国を軍事経済支援し、英国・オランダと共謀して日本に対して戦争行為に準じる先制経済封鎖を実行したのである。
ポツダム降伏条件に違反する東京裁判実施を要求した中国としては、法廷が日本による戦争全てを違法とする侵略定義を変更し、上海事変について日本の侵略無罪判決を下すのは想定外だった。その上、上海戦の継続戦争として南京戦まで侵略無罪になったことは容認出来なかった。そこで同時に起訴されていた南京虐殺事件訴因「南京攻撃による中華民国の一般人及び非武装軍隊の殺害」による有罪処刑を求めた。
検察も、南京侵略だけでは死刑に出来ない事を承知していたので、「俘虜及び一般人の殺害」訴因で、南京を含め6件の中国内B級通例戦争犯罪事件を起訴していた。南京大虐殺が事実であれば、C級・人道犯罪「戦前又ハ戦時中為サレタル殺人、殲滅、奴隷的虐使、追放、其ノ他ノ非人道的行為、若ハ犯行地ノ国内法違反タルト否トヲ問ハズ、本裁判所ノ管轄ニ属スル犯罪ノ遂行トシテ又ハ之ニ関連シテ為サレタル政治的又ハ人種的理由ニ基ク迫害行為。」で起訴出来たはずであるが、ドイツに適用されたC級・人道犯罪のような組織的かつ大量殺害の証拠は無かったため、C級・人道犯罪では起訴されなかった。
上海・南京侵略が無罪になった松井大将を、B級・通例戦争犯罪「南京攻撃による中華民国の一般人及び非武装軍隊の殺害」の発令者として起訴しようとしたが、大将が発令した複数の軍紀遵守命令の外は、戦争法規違反である殺害遂行命令・援護・許可などの証拠は1件も見付からなかった。そこで検察は「条約遵守の責任無視による戦争法規違反」、即ち部下による戦争犯罪を抑止出来なかった不作為責任によって処刑しようとした。しかし、東京裁判南京法廷の証言は伝聞・噂話程度で、多数の虐殺証言や百人斬り事件までも捜査したが、部下による戦争法規違反事件を特定し起訴することが出来なかった。
そこで検察は、南京における戦争法規違反を1件も特定・起訴出来ないまま、部下による犯罪の不作為責任のみで大将を起訴し、有罪判決により大将は絞首刑にしてしまった。
同じく広田弘毅の処刑理由も南京虐殺の不作為責任だけであったが、文官の広田には二等兵への命令権もなかったので、不作為責任自体が存在しなかったが、処刑してしまえば南京虐殺の鉄の証拠となり、明らかな冤罪大虐殺事件で大将と大臣が処刑された事になったのである。
本項の、東京裁判中国上海・南京侵略無罪判決事件は、日本人の誰もが知るべき重大な事件である。
大半の日本人は、「日本は中国を侵略し、虐殺事件を起こした。」と思い込んでいるが、松井大将を裁いた東京裁判は、中国による上海侵略応戦後に首都南京を攻略していても、上海と共に南京侵略も無罪判決を下している。命令無しの個人犯罪で20万人以上の中国人を殺害するという軍隊の常識からは考えられない虐殺不作為責任で、松井大将は絞首刑になっているため、「東京裁判の判決があるのだから、南京虐殺を否定するな。」という主張も理解出来ないことでは無い。しかし「虐殺有罪」を主張するなら、同じ法廷で判決された「中国侵略無罪」を同時に主張していなければ矛盾する。中国による「日本は中国を侵略し、南京虐殺を行なった。」と、両方主張するのは欲張り過ぎである。
中国軍民による日本人虐殺事件であった通州事件については、インターネットでは知られてきたが、松井大将が侵略無罪になった上海事変は、ドイツ軍事顧問団の作戦指導により中国軍が通州事件より大規模なテロ攻撃を仕掛けてきたもので、後の東京裁判の侵略無罪判決で明らかなように、もし日本軍が自衛戦争に出なければ、数万の居留民や中国民間人の多くが中国軍により通州のように虐殺されていた事だろう。この自衛戦争について、アメリカは「無法な侵略戦争」とプロパガンダして、イギリス、オランダ、中国と共に日本を準戦争行為の経済封鎖をして、一方中国に対しては経済・軍事支援して、日中間の講和を妨害したのである。
日本人の多くは、日本が無謀な侵略戦争を始めたと思い込んでいるが、日中戦争は中国の日本侵略によって開始され、アメリカ自身が準戦争行為と認める対日経済封鎖によって、日本を戦争に引きずり込んだのである。・・・日本が侵略戦争を開始したのではなかった。
35-4、東京裁判における日中継続戦争侵略有罪判決
東京裁判において南京攻略戦後の日中継続戦争は、新規の中国に対する戦争惹起として扱われ、侵略有罪の判決が下された。しかし、南京戦後は、日中共に講和を望んでおり、米英が中国を軍事支援しなければ、日中講和は成立していた。
日本に対して平和に対する罪を犯したのは、米英蘭の連合国である。
支那事変開戦直後に、ローズヴェルトは日本の侵略行為と国際宣伝し、連合国共同で対日経済封鎖すると共に、中国に対し経済・軍事援助を行い、日中講和を妨害した。しかし、前項の通り、日中戦争はドイツの協力を得た中国の対日先制侵略で開戦している。アメリカの日本侵略戦争批判が反日プロパガンダであった事は、東京裁判の上海・南京に対する侵略日本無罪判決により明らかである。
南京攻略後の継続戦争について、日本による中国侵略と認定されたが、これは中国のメンツを尊重して、東京裁判起訴時の侵略定義「枢軸国による戦争は全て侵略」定義を復活させただけである。
東京裁判では、中国の先制侵略に応戦した上海戦が、日本の侵略戦争を否定されているが、継続する南京攻略戦についても日本の侵略戦争は無罪判決が下されている。であるなら南京戦後の日中継続戦争を日本の侵略戦争と認定した根拠は全く不明である。この判例に従えば、ハワイを侵略された米国が自衛応戦する事は侵略無罪であるが、太平洋の日本委任統治領並びに日本領土に侵攻した行為は侵略有罪と見做すことも可能である。
35-5、東京裁判にアジア侵略有罪判決は無い。
国連は未だに日本を敵国条項の対象にしている。何故なら、日本が欧米侵略有罪の東京裁判判決をアジア侵略に歪曲捏造して、侵略有罪判決対象ではないアジアに謝罪し、アジアに賠償を含む経済・技術支援をする一方、欧米のアジア植民地に対する日本の侵略によってアジア諸国の独立を招き、その結果莫大な植民地利権を失った欧米に対する謝罪反省をしていないからである。
アジアを侵略し植民地支配していた欧米としては、日本が東京裁判の欧米侵略有罪判決をアジア侵略有罪だったかのように謝罪反省してくれるのは、日本の戦争目的であった「アジア解放」を、日本人が否定してくれる事になるので、都合が良かった。
しかし、謝罪という以上、裁判で有罪が確定した罪を謝るべきであるにも関わらず、村山総理は、欧米植民地即ち欧米に対する侵略有罪確定判決を無視し、アジア諸国侵略有罪であったかのような謝罪談話を公表したのである。これは、国際法上合法であった朝鮮併合を、日本による侵略と植民地支配の先駆けであったかのように、日本だけで無く国際社会に誤認させる目的で、東京裁判においてアジア侵略と植民地支配有罪判決があったかのように捏造したのである。
村山談話は、日本によるアジア諸国侵略を謝罪反省しているが、当時アジアの独立国はタイだけで、他の全てのアジア地域は欧米に侵略された植民地であった。即ち日本が進攻したアジア領域は、アメリカ・イギリス・オランダ・フランスの主権下にあった。従って、当然に東京裁判の侵略有罪判決は、欧米に対する侵略有罪判決であって、アジア侵略有罪判決はない。この事実は、判決概要だけを見ても誰にでも簡単に理解・確認出来る。然るに、総理ともあろう者が公然と欧米侵略有罪判決をアジア侵略有罪に歪曲捏造し、この村山談話をマスコミや世論が支持し、政府までが踏襲する結果となった。
村山談話はアジア侵略と共に、植民地支配を謝罪反省している。しかし、アジアを植民地支配していた欧米が管轄した各地の戦犯裁判において、植民地支配有罪判決がある筈は無い。
日本による植民地支配を謝罪しているのだが、アジア各地で行なわれた戦犯裁判法廷では、多数の独立派現地民と共に植民地独立運動に関わった日本人が有罪処刑され、また多数の日本兵が無裁判拷問処刑されている。つまり、植民地支配が罪とされたのではなく、植民地独立支援が罪とされているのに、村山総理が植民地支配を謝罪反省しているのは、どのような罪を根拠にしているのだろうか。
東京裁判判決は、サンフランシスコ講和条約11条で受諾義務が規定され、憲法98条2項には条約誠実遵守義務が規定されている。この部分について、「講和条約で国際復帰している日本は、東京裁判判決を受諾しているので村山談話を否定できない。」と主張する方がいる。しかし、村山談話こそが東京裁判判決を歪曲捏造して、憲法の条約誠実遵守義務に違反し憲法99条の憲法尊重擁護義務に違反しているため、憲法98条1項に基づき失効されるべき談話である。
村山談話は、当時敗訴続きの朝鮮人売春婦賠償事件の代わりに、村山総理と彼に近い弁護士等が共謀して、女性基金を創設し日本国民から浄財を集める動機付けのために、朝鮮併合をアジア侵略の植民地支配として誤認させる目的で、東京裁判判決にない「アジア諸国侵略と植民地支配の謝罪反省談話」を公表したのである。この事実は、女性基金の村山理事長あいさつで「村山談話公表の同日、全国紙に女性基金創設が発表された」と述べられているように、関連付けようとする意図は明らかであった。
アジア各地における加害行為は、アジア各地のB級通例戦争犯罪法廷で裁かれており、重大侵略戦争犯罪人を裁いた東京裁判とは直接的関係が無い。
35-6、東京裁判におけるソ連・蒙古侵略
? 1938年7月、ソ連軍による非武装地帯への侵攻で始まった張鼓峰事件は、同年8月の停戦協定により終結した。また、1939年5月、ノモンハンでソ連・蒙古軍の侵攻により軍事衝突が開始され同年9月に停戦した国境問題については、1941年10月、総合議定書調印により最終解決した。これらの事件は、いずれも短期間で終結した局所国境紛争であって、侵略の定義には該当しない単なる軍事衝突に過ぎなかった。そしていずれも停戦協定が成立した上に、1941年4月には日ソ間で中立条約が締結され、国交も完全回復していた。
それが何故東京裁判において侵略起訴されたかというと、米ソが共謀して行なった国際法違反のソ連による満州・日本侵略戦争について、単なる国境紛争を日本によるソ連侵略有罪にすることによってすり替え、その代償として日本固有領土の樺太千島をソ連に盗取させるためである。
カイロ宣言公表によって、「対日戦争に参加すれば、過去に国際条約で画定された領土や日本の領土まで盗取出来る」と知ったスターリンは、テヘラン会談で対日戦争参戦を表明し、ヤルタ密談で、参戦と引き替えに、日露戦争後のポーツマス条約で割譲された樺太だけでなく、明治初期の千島樺太交換条約で平和的に日本固有の領土化した千島列島まで盗取する承認を、アメリカから取り付けた。?
スターリンは、連合国から日ソ中立条約破棄の参戦要請を得ようとしたが、トルーマンは、「連合国が署名したモスクワ宣言(1943年)や国連憲章103条・106条などを根拠に、ソ連の参戦は平和と安全を維持する目的で国際社会に代わって共同行動をとるために他の大国と協力するものであり、国連憲章103条に従えば憲章の義務が国際法と抵触する場合には憲章の義務が優先するという見解を示した。」という。
しかし、トルーマンが「連合軍の掟が、国際法に優先する。」と主張したからといって、中立条約の侵犯は、国際法慣習に違反する侵略行為で有り、不戦条約に違反していた。
? トルーマンが戦勝を前提に「国連憲章103条の義務が優先する」と主張しても、敗戦すれば無効になる連合軍内の掟は、国際法に優先しないのは明らかであり、優先主張時点でソ連との侵略共同謀議が成立する。
35-7、村山談話の許し難い歪曲捏造
村山総理は、欧米植民地侵略をアジア侵略に歪曲し、植民地支配という存在しなかった罪を謝罪反省する村山談話を、世界に公表した。
しかし、植民地を保有していた国々が管轄した裁判において、植民地支配有罪判決がある筈が無い。
日本がアジアの欧米植民地を占領したからといって、日本の植民地になるわけではない。例えば日本が占領したオランダ植民地・インドネシアは、陸軍軍政地域は独立支援地域、過疎地の海軍軍政地域は日本の支配予定地域であったが、現実には地域事情や軍政各部門の対応は異なり、支配方針は不確定であった。この事情はアジアの英・仏植民地も同様で、アメリカからの独立が決まっていたフィリピンでさえどのように独立が認められるのか、植民地支配が続くのかは不確実であった。
アジアの欧米植民地は、日本によるアジア解放を信じる現地民と欧米の支配を望む現地民、華僑らにより混沌としていたが、日本の占領域ではアジア独立の気運が高まっていった。
日本敗戦後欧米は、独立派現地民を戦時反逆の重罪犯として逮捕処刑していたが、欧米の植民地独立運動弾圧は非常に苛烈なもので、独立運動殲滅のためには過度な拷問も行なわれ、証拠無しの自供だけで逮捕拷問が繰り返された。そのような状況下で、植民地独立を支援協力していた日本人も次々逮捕処刑されていった。アジア各地で、降伏後抑留所から脱走し独立軍に参戦した日本兵の多くは、軍事教練、独立教育など独立支援者だった方が多い。
日本人の独立支援者が逮捕されれば、戦時反逆の重罪として無裁判で即決拷問処刑され、敗戦後の戦犯裁判においても、反逆・休戦協定違反のB級戦犯として処刑されていったのであり、東京裁判だけでなくアジアの50箇所以上で行なわれた戦犯裁判においても、植民地支配の罪で有罪になった日本人は一人もいなかった。
植民地独立支援の罪で多数が処刑されていたというのに、日本の総理大臣が起訴されていない植民地支配の罪を世界に謝罪し、これを訂正しようとする日本人が居なかった日本という国は、異常な国家である。
戦中に亜細亜大学のインドネシア語科の学生が海軍に徴用され、花機関員として日本の支配予定だった海軍軍政地域に送られた。機関長が後にインドネシア独立戦争に従軍して戦死した方だったこともあり、敗戦後復員船を収容所で待っている時、元機関員三人が話し合い、収容所を脱走してオランダ軍を攻撃した。
軍事教練は短期間で、経験も少ない学生出身だったので、すぐ逮捕され三人共戦犯として銃殺処刑された
銃殺判決後拘留中の花機関員・金井清さんの遺書
「国敗れて愛国の情益々深し。同志畑田、池田兄等と語らひ亜細亜民族の一員たる新興印度ネシヤ国家の独立運動に挺身すべき事に決す。ああ然し其壮図も空しく敗れ現在に至る。
昭和22年3月28日空に一点の雲なき日本晴の朝、異国人に囲まれて軍事法廷にて休戦条約違反敵対行為により死刑の宣告を受く。自分の信念に基き行動したる事に依り死刑なりとも何ら悔ゆる事なし。むしろ信念通り行動し得た喜びを心の内に感じ非常に愉快なり。たとへ此の身は南溟の白露と散ずるとも、魂は永遠不変に貫き生きる事を確信す。・・・御両親様始め皆々様よ。たとへこの身はセレベスの土と化せんとも短き二十三才の一生を顧みて非常に幸福なり。私は其幸福感に包まれて祖国の弥栄と皆々様の御幸福を祈りつつ暁の白露と散ず。これぞ大和男子の本懐なり。」
復員船を待つ収容所に抑留されていたので戦犯逮捕の可能性は低く、脱走してまで独立運動に挺身する理由はあったのだろうかと思う。しかし、そのまま復員船を待てば、家族の下に帰り幸せな人生を送れたかもしれないものを、3人だけで成功の見込みがない独立戦争を敢行したのである。これは、例えば、チベット密教を学ぶ学生が、焼身自殺が続くチベットの人々を解放するために、拾った木切れで解放軍と戦おうとするようなもので、現代日本人の感覚では無謀としか言い様がない。
しかし、村山談話を踏襲してきた方々は、この若者達に向かって、愚かと非難し「日本は植民地支配を謝罪反省している。」と言えるのだろうか。
36、余論
36-1、ポツダム宣言違反の東京裁判と国際法違反の裁判判決、その検証を否定する講和条約11条。
前述の通り、侵略犯罪を裁く東京裁判の強行は、ポツダム降伏条件に違反していた。また裁判における「戦争惹起を侵略とする定義」は国際法に反していた。
村山談話踏襲派は、「講和条約によって国際復帰した日本は、同11条の判決受諾規定により有罪判決を否定できない。」と主張する。しかし前述の通り、村山談話は判決を捏造している。
まず「講和条約11条は、『判決』を『裁判』に誤訳している。有罪判決を受諾しているだけで、裁判全体を受諾しているのでは無い。」という主張がある。
しかし、連合国側としては「正義の鉄槌」の意味で「判決」と表現していても、裁判全体を受諾させようとした意図は変わらない。日本側も、「判決を受諾しているだけ。」と判決に拘って解釈しているようでは、無罪は兎も角、中国B級戦犯裁判のように、賄賂要求目的で無実の日本人を逮捕させ、長期拷問後不起訴にして判決が無い裁判など、不法不当な裁判に対する検証を放棄していることになる。
また「講和条約11条は、講和条約成立で自動発効するアムネスティ・大赦条項による刑の執行停止を制限する条項。」という解釈が通説になっている。しかし、「講和条約が成立すれば、大赦条項の自動発効により戦犯裁判が無効になる。」という国際法慣習は無い。例えば第1次大戦後のヴェルサイユ条約において、ドイツ皇帝に対する対平和罪とドイツ軍人対する戦犯引き渡し訴追が定められているが、条約成立後に、亡命先のオランダが皇帝引き渡しを拒否したため訴追は履行されず、同じくドイツ軍人は、ドイツが引き渡しを拒否してライプチヒ大審院でドイツ側により戦犯裁判が行なわれたように、サンフランシスコ講和条約に戦犯裁判判決受諾規定があろうと無かろうと、戦犯処罰には関係が無い。
実際に、戦犯赦免が実行された当時、重大戦争犯罪人の処刑は既に執行されており、懲役刑の戦犯赦免に対して連合国から大きな反発は無かったように、連合国にも強い拘りは無かった。
講和条約11条に戦犯判決受諾義務が規定された理由は、東京裁判がポツダム条件に違反する不法裁判であり、各地で行なわれた戦犯裁判が裁判を装った人道犯罪であったことを、日本に検証・抗議させない目的で規定されたのである。
<参考>
第十一条 日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。これらの拘禁されている物を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる権限は、各事件について刑を課した一又は二以上の政府の決定及び日本国の勧告に基く場合の外、行使することができない。極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者については、この権限は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基く場合の外、行使することができない。
36-2、講和条約に基づく領土問題解決
?日本の領域を定めたのは講和条約であるが、日本と韓国・中国・ロシア間には、現在も領土紛争がある。
これらの各国は、講和条約の批准国では無いため、第25条により、「第21条の規定を留保して、無権利国にいかなる権利、権原又は利益も与えるものではなく、日本のいかなる権利、権原又は利益も、減損され、又は害されるものとみなしてはならない。」とされている。
講和条約上の無権利国が、日本の権利を侵害しているのであるが、権利国間の紛争解決手段について第22条に、国際司法裁判所の管轄権受諾規定がある。
まず、南シナ海問題について、ベトナム・フィリピン・インドネシアなどの権利国が、国際司法裁判所に無権利国・中国との紛争処理を求めた場合、中国は管轄権を受諾していないが、受諾しなければ、第25条「(無権利国に)いかなる権利、権原又は利益も与えるものではない。」によって反論の機会を失う。
また、竹島・尖閣諸島問題も、証拠により無権利国の韓国・中華民国・中国の領有主張は認められないであろうし、当時事実上日本の領土範囲を決定したアメリカは国際司法裁判所の管轄権を受諾しているので、アメリカの出廷証言を求めることが可能である。
そして、無権利国・ロシアとの北方領土問題につても、ヤルタ密談の当事国であったアメリカに日本固有の領土・千島列島放棄決定の経緯証言・説明を求める事が可能である。尚、千島・樺太放棄などについて「放棄条項は絶対」という主張があるが、南極の権原放棄や沖縄等の信託統治領も後に返還されている通り、放棄は「絶対」では無い。
<参考>
竹島問題:第二条(a)「日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び欝陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。」
尖閣諸島問題:(b)「日本国は、台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。」
北方領土問題:(c)「日本国は、千島列島並びに日本国が千九百五年九月五日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。」
その他:(d)「日本国は、国際連盟の委任統治制度に関連するすべての権利、権原及び請求権を放棄し、且つ、以前に日本国の委任統治の下にあつた太平洋の諸島に信託統治制度を及ぼす千九百四十七年四月二日の国際連合安全保障理事会の行動を受諾する。」
その他:(e)「日本国は、日本国民の活動に由来するか又は他に由来するかを問わず、南極地域のいずれの部分に対する権利若しくは権原又はいずれの部分に関する利益についても、すべての請求権を放棄する。」
南シナ海問題:(f)「日本国は、新南群島及び西沙群島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。」
その他:第三条「日本国は、北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島、西之島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。」
第二十一条 この条約の第二十五条の規定にかかわらず、中国は、第十条及び第十四条(a)2の利益を受ける権利を有し、朝鮮は、この条約の第二条、第四条、第九条及び第十二条の利益を受ける権利を有する。
第六章紛争の解決
第二十二条「この条約のいずれかの当事国が特別請求権裁判所への付託又は他の合意された方法で解決されない条約の解釈又は実施に関する紛争が生じたと認めるときは、紛争は、いずれかの紛争当事国の要請により、国際司法裁判所に決定のため付託しなければならない。日本国及びまだ国際司法裁判所規程の当事国でない連合国は、それぞれがこの条約を批准する時に、且つ、千九百四十六年十月十五日の国際連合安全保障理事会の決議に従つて、この条に掲げた性質をもつすべての紛争に関して一般的に同裁判所の管轄権を特別の合意なしに受諾する一般的宣言書を同裁判所書記に寄託するものとする。」
第二十五条「・・・各場合に当該国がこの条約に署名し且つこれを批准したことを条件とする。第二十一条の規定を留保して、この条約は、ここに定義された連合国の一国でないいずれの国に対しても、いかなる権利、権原又は利益も与えるものではない。また、日本国のいかなる権利、権原又は利益も、この条約のいかなる規定によつても前記のとおり定義された連合国の一国でない国のために減損され、又は害されるものとみなしてはならない。」
36-3、講和条約における集団的自衛権の承認
侵略国を裁く東京裁判は、アメリカ本国の指示とマッカーサーの復讐心により、ポツダム降伏条件に違反して強行された。また、侵略国日本が、二度と対米戦争が行えないように憲法9条を強制したアメリカだったが、最前線で共産主義と対峙する事になったマッカーサーは日本を理解するに従い、東条が主張した「日本が共産主義の防波堤だった。」という事実を認めざるを得なくなった。またアメリカ自身も、日本がシベリヤ出兵以来、共産主義との最前線で戦ってきた事に思い至り侵略国扱いが中止され、枢軸国の中でただ一国、講和会議参加を要請され、従来の戦争終結形式の講和条約が締結された。
このアメリカの反省は、講和条約第五条(c)「連合国としては、日本国が主権国として国際連合憲章第五十一条に掲げる個別的又は集団的自衛の固有の権利を有すること及び日本国が集団的安全保障取極を自発的に締結することができることを承認する。」に見られる。これは、日本に対して個別的又は集団的自衛権を承認し、集団的安全保障条約の締結を承認した上に、講和条約署名と同時に日米安全保障条約を締結している事から、国連加盟国と同等の権利を認めたもので、憲法9条の交戦権放棄を空文化させるものである。
日本の権利を否定する時に度々持ち出される講和条約だが、集団的自衛権を否定する憲法学者達は、日本の自衛権を承認するこの講和条約条文を知らないのだろうか。
講和条約並びに日米安保成立時点で、集団的自衛権不保持の政府解釈ではなく憲法改正がなされなければならなかった。
36-4、日本の核復仇権
? 日本の一部に核保有論があるが、アメリカにも、日本の核保有容認論がある。しかし、アメリカが日本の核保有を許すことは無い。
国連憲章第53条と第107条において、旧敵国に対する国連安保理事会による戦争制限の適用を除外し、敵国の侵略政策の再現に備える地域的取極について、国連が敵国による新たな侵略を防止する責任を負うときまで例外とされている。また、大戦後の停戦・降伏・軍事裁判・占領・委任統治・固有領土分割・抑留強制労働などの戦後措置を容認している。但し、旧敵国の日本については、国連憲章制定後にポツダム宣言が提示され侵略国定義は撤回されており、不法な侵略国家では無く対等の交戦国と見做された日本に対する侵略政策再現や新たな侵略防止という敵国条項の適用には疑義がある。また、戦後措置に関しては、保障占領終了、委任統治や領土分割の返還、抑留労働については謝罪対象となるなど、永続的・絶対的なものではなかった。
但し、日本政府は、日本を敵国条項の対象国と認めており、戦中に憲章署名国だったいずれかの国が、日本に対して侵略政策の再現と判断して行なう戦争惹起については、容認していることになる。
この場合の他国からの先制攻撃に対して、「日本は侵略国だった」という固定観念のある日本が対応することは難しい。このような侵略を抑止するには、まず反日バイアスを排除した上で、戦時復仇を理解しておく必要がある。
戦時復仇とは、相手国の国際違法行為に対して,外交交渉その他の平和的手段で救済を求めても解決が得られない場合に認められる自力救済行為。すなわち,相手国の違法行為の中止や,その救済を求めるために必要かつ相当な限度で,被害国は本来ならば国際法に違反する手段を用いることが許されるというものである。(5巻小項目・復仇・P662)
現在のアメリカ世論には、「侵略戦争を始めた日本が降伏を拒否したので、核兵器使用以外の降伏受諾要求手段が無かった。」「核兵器使用により日本の残虐行為を制止するのは、適正な防衛手段だった。」「米兵だけでなく日本人の生命をも救う攻撃だった。」などの正当化論がある。70万人以上の死傷者を出したと言われる原爆や空襲は、明らかな人道犯罪であったが、本稿で述べている通り、日本人自身が「侵略国だった日本は、国家無条件降伏した。」と思い込んでいる限り、アメリカが人道犯罪を反省することはない。
敵国条項対象国である日本は、アメリカや他の核兵器保有国から3発目の核攻撃を抑止するために、核兵器使用による復仇権がある事を理解しておく必要がある。国際法上、2発以上の合法的核攻撃権があり、核反撃されない権利を有する国は日本だけである。また復仇の対象は、東京裁判において審理された共同謀議を先例にすれば、日本を核攻撃したアメリカに限定する必要は無く、日本に対する核攻撃放棄を保障しない全ての国に対して、核復仇権行使を宣言することが可能である。
この復仇権行使宣言は、日本が核保有していないが故に可能な核恫喝であり、国連憲章の敵国条項廃棄に有効な手段となる。
日本による侵略政策の再現と見做される可能性が高いのは、領土問題である。竹島について、韓国・北朝鮮は、大戦中の署名国の敵国・日本という条件外なので、敵国条項による戦争制限の除外はない。また、尖閣については中共も条件外であるが、領海侵犯を続けて日本を挑発しているのは、日本の憲法を知る中共が日本に紛争地帯である事を認めさせ、武力行使を放棄させるためである。それでも、日米安保が有る限り、中共にとって尖閣侵略に絶対の自信があるわけではない。危険になるのは、中共が台湾を支配下に収めた時である。戦中に署名国だった中華民国には、敵国条項を行使する権利があるため、中共は自国都合で憲章の敵国条項を利用し、尖閣だけでなく本土まで侵略する場合も、これに対する抑止力が日本にはない。北方領土については、尖閣ほどの危険性は低いが、ソ連による不可侵条約破棄による満州進攻が、明白な侵略戦争だったことを主張しておく必要がある。
日本が復仇権行使を宣言して、大戦中の本土空襲並びに艦砲射撃を原爆以上の人道犯罪とし、アメリカによる経済封鎖を「戦争惹起の侵略行為だった。」と非難し、核兵器による復仇を行う旨宣言しておけば、建前上、アメリカには対抗手段が無い。
このように危険な日本の核保有を、アメリカが認められる筈が無く、その難易度はアメリカ憲法に「対日戦争放棄条項」定めるほどに、非常識且つ有り得ないことである。
36-5、原爆開発していても、日本は先制使用しなかった。
アメリカは、真珠湾攻撃の報復として、1942/4/18にB25・16機のドゥリットル爆撃隊による日本本土空襲を行なった。爆撃後に中国基地へ退避中に不時着した2機の搭乗員のうち8名が日本軍の捕虜になった。
日本軍の真珠湾攻撃は軍事目標であったため、民間人の死傷は少なかったが、米軍はドゥリトル空襲においては精密爆撃の意思がなく、民家261棟が焼失し1200余世帯が焼け出され、民間人約500名が死傷した。この無差別爆撃によって戦犯起訴された8名の捕虜には、全員死刑判決が下された。
この死刑執行に反対していた東条は、天皇陛下の恩赦を得て、銃殺を無差別爆撃を実行した機長2名と国民学校を銃撃した銃手1名に留めた。
東条の反対理由は、アメリカで抑留されている日系人に対する報復を憂慮したためである。
従って、日系人が抑留されている限り、日本が原爆を保有していてもアメリカ民間人に投下することは無かったと言えよう。
然るに日本では、「日本が先に核兵器開発していれば、必ず先制使用していた。」と主張する方が多い。しかしこれは、史実に反する。
核保有については、使用よりもアメリカによる国家無条件降伏要求の撤回が限度であったろう。
36-6、オバマの広島訪問に対応する日本元首の慰霊訪問先はオレゴン州ブライ
オバマ大統領の広島訪問に対する返礼として、安倍総理は真珠湾を慰霊訪問した。アメリカからも一定の評価を得た慰霊について否定するのでは無いが、原爆被災地への慰霊に対する返礼の建前として相応しいのは、風船爆弾被災地である。
民間人に対する故意爆撃であった原爆投下と、未必の故意状態の風船爆弾の被害は比較にならないが、風船爆弾の結果としては、ピクニック中の民間人6名の爆死の無差別殺人である。
従って、原爆被災地慰霊に対する返礼訪問として相応しいのは、風船爆弾攻撃被災地のオレゴン州ブライである。
真珠湾慰霊の返礼があるとしたら、真珠湾攻撃の報復として行なわれたドゥリトル空襲の被災地、中でも国民学校の生徒を追い回して銃殺した東京葛飾区への慰霊訪問だろう。
36-7、1974年の国連総会決議3314侵略定義は、侵略を定義していない。
日本では、1974年の国連総会決議3314を「侵略定義」と考えられている。しかし、この決議は、戦争惹起行為、所謂先制攻撃の定義であって、侵略行為を定義したものではない。
この侵略定義第2条では、国家による他国への最初の武力行使を、侵略行為の一応の証拠としている。しかし、先ずこの国家定義では、例えば国家ではないイスラム国関連の武力行使は、侵略行為の対象にならないことになる。非加盟国を含めている憲章にこのような矛盾はないのに、侵略決議のみ国家限定にした理由が不明である。また、決議第5条で「いかなる性質の事由も侵略を正当化するものではない。」としているが、これでは、自衛目的の先制攻撃をも一応侵略と定め「正当化できない」としている事になる。しかし、戦争惹起を不法な侵略とする国際法慣習は存在しなかった。これは、1928年不戦条約における「自衛目的の先制攻撃容認」の留保に反し、「不戦条約に違反した国に対する戦争を容認する」不戦条約前文に整合しない。(小項目2巻・ケロッグ・ブリアン条約・P661)
また、国連憲章は、武力行使を非としていても自衛権行使を否定しておらず、自衛権行使による戦争惹起を侵略の一応の証拠とすることは、決議第6条の、定義中のいかなる規定も「憲章の範囲を拡大・縮小するものと解してはならない。」とする規定に抵触している。
このように侵略が定義されていない侵略定義では、仮に自衛先制攻撃が「侵略の一応の証拠」とされてはいても、安全保障理事会において侵略と認定する事は難しい。
この国連侵略定義によって「侵略行為が明確に定義された。」と主張する人々は、現在の国際社会において敵基地先制攻撃の正当性が当然のように語られている現実を説明できない。
本項で述べる国連総会の侵略定義は、単なる戦争惹起を侵略行為として裁いた東京裁判判決時の侵略定義と同一である。
戦争惹起は国際法上の不法行為ではないという国際法慣習があり、自衛先制攻撃を容認する不戦条約は失効しておらず、敵基地先制攻撃の正当性が認められている国際社会において、国連が戦争惹起を侵略戦争と定義したのは、東京裁判の正当性を維持する目的ではないのだろうか。
東京裁判判決に関連して、決議第7条の自決権規定については、親日国が故意に挿入したものか、日本がアジア侵略を認めているから安易に挿入したのかは不明だが、同条は「その権利を強制的に奪われている人民の、特に植民地体制、人種差別体制その他の形態の外国支配化の下にある人民の、憲章から導かれる自決、自由及び独立の権利を、また国際連合諸原則及び上記の宣言に従いその目的のために闘争し、支援を求め、かつ、これを受け入れるこれらの人民の権利をいかなる意味においても害するものとするものではない。」と定められている。
この7条に関して、日本に支援を求め且つ支援を受けいれた満州民族や、アジア領域の彼植民地支配民族の自決権を肯定しながら、これを支援した日本による戦争惹起を侵略有罪と認定した東京裁判判決との間には、明らかな矛盾がある。
<参考>
侵略に関する定義 「国連総会決議3314」
第1条(侵略の定義)
侵略とは、国家による他の国家の主権、領土保全若しくは政治的独立に対する、又は国際連合の憲章と両立しないその他の方法による武力の行使であって、この定義に述べられているものをいう。
第2条(武力の最初の使用)
国家による国際連合憲章に違反する武力の最初の使用は、侵略行為の一応の証拠を構成する。ただし、安全保障理事会は、国際連合憲章に従い、侵略行為が行われたとの決定が他の関連状況(当該行為又はその結果が十分な重大性を有するものではないという事実を含む。)に照らして正当に評価されないとの結論を下すことができる。
第3条(侵略行為)
次に掲げる行為は、いずれも宣戦布告の有無に関わりなく、2条の規定に従うことを条件として、侵略行為とされる。
(a) 一国の軍隊による他国の領域に対する侵略若しくは、攻撃、一時的なものであってもかかる侵入若しくは攻撃の結果もたらせられる軍事占領、又は武力の行使による他国の全部若しくは一部の併合
(b) 一国の軍隊による他国の領域に対する砲爆撃、又は国に一国による他国の領域に対する兵器の使用
(c) 一国の軍隊による他国の港又は沿岸の封鎖
(d) 一国の軍隊による他国の陸軍、海軍若しくは空軍又は船隊若しくは航空隊に関する攻撃
(e) 受入国との合意にもとづきその国の領域内にある軍隊の当該合意において定められている条件に反する使用、又は、当該合意の終了後のかかる領域内における当該軍隊の駐留の継続
(f) 他国の使用に供した領域を、当該他国が第三国に対する侵略行為を行うために使用することを許容する国家の行為
(g) 上記の諸行為い相当する重大性を有する武力行為を他国に対して実行する武装した集団、団体、不正規兵又は傭兵の国家による若しくは国家のための派遣、又はかかる行為に対する国家の実質的関与
第4条(前条以外の行為)
前条に列挙された行為は網羅的なものではなく、安全保障理事会は、その他の行為が憲章の規定の下で侵略を構成すると決定することができる。
第5条(侵略の国際責任)
政治的、経済的、軍事的又はその他のいかなる性質の事由も侵略を正当化するものではない。
侵略戦争は、国際の平和に対する犯罪である。侵略は、国際責任を生じさせる。
侵略の結果もたらせられるいかなる領域の取得又は特殊権益も合法的なものではなく、また合法的なものととし承認されてはならない。
第6条(憲章との関係)
この定義中のいかなる規定も、特に武力の行使が合法的である場合に関する規定を含めて、憲章の範囲をいかなる意味においても拡大し、又は縮小するものと解してはならない。
第7条(自決権)
この定義中のいかなる規定も、特に、第3条は、「国際連合憲章に従った諸国家間の友好関係と協力に関する国際法の諸原則についての宣言」に言及されている。その権利を強制的に奪われている人民の、特に植民地体制、人種差別体制その他の形態の外国支配化の下にある人民の、憲章から導かれる自決、自由及び独立の権利を、また国際連合諸原則及び上記の宣言に従いその目的のために闘争し、支援を求め、かつ、これを受け入れるこれらの人民の権利をいかなる意味においても害するものとするものではない。
第8条(想定の解釈)
上記の諸規定は、その解釈及び適用上、相互に関連するものであり、各規定は、他の規定との関連において解されなければならない。
36-8、2010年国際刑事裁判所(ICC)「規程」に関する再検討会議においても、侵略は定義されていない。
2010年国際刑事裁判所(ICC)「規程」に関する再検討会議において、侵略の罪は更に明確に定義されたという主張がある。
しかし、IこのCCの侵略定義も国連総会決議と同様、戦争惹起を侵略としているため国際法慣習に反する定義に過ぎない。
ICC定義の留意点は、侵略という国家行為について個人責任の追及を容認している点である。
東京裁判で清瀬一郎弁護士が指摘している通り、当時、戦争という国家行為について個人の責任を追及するという国際法慣習は無かった。
偶々戦争期に一定期間、政治的・軍事的に戦争を管理・指示する地位にあったとしても、戦争全般に責任を有する個人独裁の特殊な国家ではない限り、戦争の管理・指示に関する個人責任は一定期間内に限定される。その結果東京裁判は、戦争全般の責任を追及するために、共同謀議罪を広範囲に適用して複数の共同謀議者を、個人の関与程度を明らかにしないまま起訴して有罪処刑した。その東京裁判の正当性が検討された形跡は無い。
戦争という国家行為については、戦後は賠償問題に移行するべきものを、報復感情で個人責任を追及しようとした東京裁判においては、不当判決が多かった。例えば、政治的に戦争を管理・指示したとして、侵略と共同謀議で起訴された広田弘毅の死刑訴因は、南京虐殺事件の不作為責任であった。軍事的管理・指示責任が無かった文官の広田を死刑に処したのは、明らかな誤りであった。
<参考>
1. この規程の適用上、「侵略犯罪」とは、国の政治的または軍事的行動を、実質的に管理を行うかまたは指示する地位にある者による、その性質、重大性および規模により、国際連合憲章の明白な違反を構成する侵略の行為の計画、準備、着手または実行をいう。
?2. 第1項の適用上、「侵略の行為」とは、他国の主権、領土保全または政治的独立に対する一国による武力の行使、または国際連合憲章と両立しない他のいかなる方法によるものをいう。以下のいかなる行為も、宣戦布告に関わりなく、1974年12月14日の国際連合総会決議3314(XXIX)に一致して、侵略の行為とみなすものとする。?
a. 一国の軍隊による他国領域への侵入または攻撃、若しくは一時的なものであってもかかる侵入または攻撃の結果として生じる軍事占領、または武力の行使による他国領域の全部若しくは一部の併合
b. 一国の軍隊による他国領域への砲爆撃または国による他国領域への武器の使用
c. 一国の軍隊による他国の港または沿岸の封鎖?
d. 一国の軍隊による他国の陸軍、海軍または空軍若しくは海兵隊または航空隊への攻撃?
e. 受け入れ国との合意で他国の領域内にある一国の軍隊の、当該合意に規定されている条件に反した使用、または当該合意の終了後のかかる領域における当該軍隊の駐留の延長?
f. 他国の裁量の下におかれた領域を、その他国が第三国への侵略行為の準備のために使用することを許す国の行為?
g. 他国に対する上記載行為に相当する重大な武力行為を実行する武装した集団、団体、不正規兵または傭兵の国による若しくは国のための派遣、またはその点に関する国の実質的関与
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22、幣原外交
東アジアで9国条約を基軸に成立したワシントン体制にどのように対応し、大陸への発展をどのように進めていくか、同時に、中国のナショナリズムにどう対処していくか、1920年代の日本外交は困難な局面に直面していた。この時、外交的選択を典型的に代表したのが幣原喜重郎によって指導された幣原外交であった。(15巻・日本外交史・P278)
幣原外交といえば、国際協調、経済外交、中国内政不干渉の「協調外交」として、戦後日本では高く評価されている。しかし、日本外交が困難な時期にこのような人物が外交を担った事が日本の不幸であった。
第1次大戦で超大国の経済力・軍事力を世界に見せつけたアメリカが、太戦後に狙ったのは日本の排除であった。その為に日本に好意的なイギリスとの日英同盟の廃棄と、アメリカの中国利権確保並びに日本の中国利権奪取を目的にした9カ国条約の成立を図るために、ワシントン会議が開かれた。この時、ワシントン会議の全権だった駐米大使・幣原は、アメリカの画策に積極的に応じて、「対外提携の骨髄」といわれた日英同盟の廃棄に応じ、1899年以来アメリカが要求し続けて来た中国利権分割要求を、国際条約として成立させる事に協力した。この9カ国条約によってアメリカに媚びただけでなく、中国内政不干渉政策の結果、中国による日本の権益に対する侵害を許しただけでなく、当時中国勢力下にあったチベット・ウイグル・モンゴル・満州などの自決権を否定し、のちに数百万人規模の民族虐殺を招く端緒になる9カ国条約を容認したのである。
幣原が日本軍の大陸膨張主義に反対し、国際協調を主導したかのように誤認されているが、13・17項で述べている通り、日露戦争直後から日本政府の国際協調姿勢は一貫しており、幣原が選択したのは、国際協調ではなく対米追従外交であった。その反動が軍部の独断専行を招いた。
1915年にイギリスが日本に対し「ドイツが日中衝突を画策している」と警告したように、日英同盟はアメリカ・ドイツの圧力を受けながらも相互信義が失われる事は無かった。アメリカがドイツに同調した後も、イギリスは1927年南京事件における中国による排外テロに際し日本に共同出兵を持ちかけて日本の孤立化を避けようとし、満州事変後のリットン調査報告は日本に有利な報告がなされた。日独伊三国同盟以降イギリスの危機的状況から、ソ連と共にイギリスはアメリカの参戦を望んだが、戦後に連合国が報復裁判を実行する中で、少なくともイギリス海軍の日本に対する友誼は変る事が無かった。
幣原の中国内政不干渉は、実質的には中国による対日テロや不法行為に対し無抵抗を貫くだけであって、日本公館が侵入掠奪され、日本人が虐殺強姦されても抗議さえしなかった。その結果、米中の侮りを受ける事になり、特に中国では抗日テロが頻発した。1928年幣原弱腰外交から田中外交が抗日干渉方針に代わって山東出兵を行なっても、抗日テロは終息しなかった。
幣原外交は、「ワシントン体制にそった対英米協調を基本としながら、中国の自主的立場の尊重、内政不干渉、日本の合理的権利の擁護、特に特殊権益の維持をはかった。 1925年コミンテルンによって日中衝突を煽動するソ連との日ソ基本条約の締結、29年中ソ紛争の調停,30年ロンドン海軍軍縮条約の締結、中国との関税協定などを推進した。」と言われているが、長期的には成果と言えるものではなく、国民と軍部の日本外交不信と中国に対する強い反発を招く事変誘発外交とも言えるものであった。
23、満州建国
1931年9月満州事変が開始され、関東軍は1932年1月熱河省を除く満州全土を占領した。当初は、満州を日本領化する予定だったが、1932年3月宣統帝溥儀を擁立し満州国独立が宣言された。
ソ連と敵対して日本を利用しつつアメリカを引き込もうとしていた張作霖が爆殺されたアメリカは、満州進出の機会を失い、後述するように、満州事変を日本の9カ国条約・不戦条約違反の侵略として完全に敵視するようになる。
日本政府の軟弱外交に強い不信感を抱いていた関東軍は、政府の不拡大方針を嘲笑うかのように、錦州爆撃という花火と石ころを投下するような連盟挑発を行なって、日本政府の連盟脱退を促した。
満州国は、日本人・朝鮮人・蒙古人・満民族・漢民族・五民族協和の立憲君主国であるが、これら以外にロシア革命から逃れた白系ロシア人やユダヤ人、その外少数民族も流入していた。その満州国について「日本の傀儡国家」という否定的な評価が定説になってしまっているが、それは正しくない。
戦後中国の漢奸裁判で無期懲役になった汪兆銘の妻・陳璧君は、南京政府に対する批判に対し「南京政府が日本の傀儡というのなら、蒋介石の重慶政府はアメリカの傀儡、毛沢東の延安政府はソ連の傀儡ではないか。」と、堂々と抗弁した。
日本の事情:朝鮮半島の安全保障のために、日清・日露の大戦争を行なった日本・朝鮮にとって、満州の安定は絶対条件であった。事変前の満州は、鉄道及び付属地に駐屯する日本軍によって治安は著しく改善していたが、日本軍の支援を受けた張軍閥は、その勢力を中国本土にまで拡張し1926年12月北京で大元帥に就任した。軍閥の勢力を過信した張の反ソ反共方針は、欧米の支持を得る事になり、張もこれを歓迎し日本を軽視するようになっていった。張は、ソ連とコミンテルンの策動に対して1927年4月北京のソ連大使館などを家宅捜索し、中国共産党員を逮捕、中国や列国に対するテロ計画文書など押収した。1927年4月10日ソ連大使が本国に召還され中ソ国交は断絶した。満州における張軍閥による対立姿勢に対して、ソ連はモンゴルに大軍を配備して牽制したが、不要な紛争を避けたい日本軍にとって、傲慢な張の対応は許容出来なくなっていた。
張作霖爆殺後の1928年12月、張学良は易幟と共に中ソ共同管理の中東鉄道と電話局の実力回収を開始した。1929年5月、ハルビンのソ連総領事館を捜索し多数の中ソ共産党員を逮捕して陰謀証拠を押収した。7月権益回収に関する外交交渉は決裂し、8月中ソ紛争が開始された。12月ハバロフスク議定書により終戦、中国による鉄道権益回収は失敗した。
この中ソ紛争について米・英・仏は、ソ連の不戦条約違反を主張したが、ソ連は不戦条約留保条件の自衛戦争を主張し一蹴した。日本は中立を維持し紛争に関与しなかったが、蒋介石に臣従しソ連との協定を無視してソ連権益を回収しようとする張学良、即ち不安定な満州情勢を放置する事は出来なくなった。またハルビンのソ連総領事館捜索で、蒋介石・張学良の反共姿勢は明らかであったが、張学良の弟・張学思が共産党員であったように、満州の中国人の間に共産主義が浸透し日本にとって脅威となっていた。
その状況で、関東軍が混乱する満州の間接統治を計画して共産化を防ごうとするのは、日本の安全保障にとって自衛主張が可能であった。
アメリカの事情:大元帥になった張作霖に取り入って、満州権益を確保出来ると思っていたアメリカは、張作霖の死と満州事変によって満州権益は諦めなければならなくなった。その結果、満州建国を「日本の中国侵略」と捉えて、日本を露骨に敵視するようになった。その後日本は、満州の安全保障のために、華北の実質的自治、さらには汪兆銘による親日南京政府を樹立させたが、これらも全て中国侵略とされ、アメリカは日本の自衛権行使を認めなかった。
共産主義に対する警戒がなかったアメリカは、目先の中国利権に惑わされて日本を敵視し、のちに日米戦争にまで至るわけである。しかし、シベリヤ出兵で日米が協調していれば、バイカル湖以東に反共ロシア政権を樹立維持出来た可能性が高い。また、満州は建国後短期間で発展し、反共国家としてシベリヤの反共ロシア政権に対する協調支援が可能であった。アメリカは、華北の親日自治政府、汪兆銘の親日南京政府も不承認であったが、アメリカの傀儡だった蒋介石政権は、政府が藍衣社というテロ組織を擁し、蒋介石自身も独裁指向の権力主義者であり、反共主義者であってもその強権的政権運営は、軍閥・人民の支持を得られず、結局中共との内戦に敗れ台湾に逃れて、アメリカによる中国支援は無駄に終わった。国民政府に代わって中国全土を支配したソ連傀儡の中共政府は、中国共産党独裁下で文革・大躍進などの自国民大虐殺を行なっただけでなく、華僑が東南アジアに共産革命を浸透させ、自国民に対する粛正や対米戦争、そして朝鮮戦争で多くのアジア諸国民が犠牲になった。満州や中国本土内に反共国家があれば、反共の蒋介石もこれらと協調政策を採らざるを得ず、その結果中共政権の勢力も限定される事になり、中国の共産化が避けられた可能性があった。その場合アメリカの本来の国益にとって非常に有益であった。
満民族の事情:満州は満民族固有の領土であって、民族自決の理念からも中国領土ではない。清国皇帝・溥儀は、紫禁城居住、尊号保持、年金、陵墓保護を条件に退位したが、1924年北京政変以後この条件は全て反故にされ、紫禁城から追い出されて暗殺の危機もあった。その溥儀を保護したのは日本であった。溥儀はその人柄を満民族に慕われ、復辟運動もあったが、軍事力を持たないため成功しなかった。
満州建国が石原莞爾の策謀であったにせよ、満民族にとっては清国帝政の復活であり、満民族が歓迎していた事は疑いが無い。戦後の東京裁判や中国の漢奸裁判において、溥儀や帝政幹部らが「日本の傀儡国だった。」と認めているからといって、満州で漢奸として次々無裁判処刑されている状況の証言が事実だったとは限らない。
日本敗戦後、漢民族に「返還」された満州では、同化政策により満民族の言語文化は消滅しつつある。
漢民族の事情:動乱の中国本土から治安の良い満州に逃れてきた漢民族は、発展する満州で就業していた。敗戦後の漢奸裁判で「強制労働だった。」と主張しても、流入する漢民族による豊富な労働力から、強制労働より賃金労働の方が効率的であった。また「日本の開拓団に開墾地を奪われた。」と主張しても、元々満州領の空き地を無断開墾して入植した流民たちであって、立ち退きに際して匪賊にならなくて済むよう、一定の補償や職業紹介も行われていた。発展する満州で、中国本土よりも生活水準は向上していたが、戦後の漢奸処刑においては、満民族と共に富裕な漢民族も処刑対象になり、国共内戦、中華人民共和国成立後の文革などで、多くの漢民族も虐殺されていった。
朝鮮族の事情:大戦中は、朝鮮系日本人として満州に入植し、中国人を弾圧していたが、日本敗戦後日本人避難民懲罰に協力する事によって入植域を確保し、文革の影響を受けながらも延辺朝鮮族自治州を成立させた。
白系ロシア人の事情:革命から逃れて満州に入植したロシア人は、満州国に定住し軍閥に属すなどしていたが、一部は日本に逃れた。ソ連軍満州侵攻を歓迎して迎え日本の暴虐を主張したが、ソ連軍と共に満州を退去した後の反革命ロシア人の動勢は不明である。
24、スチムソン国務長官による満州事変不承認
満州事変勃発直後の1932年1月アメリカが公表したスチムソン・ドクトリンは、日本による満州進攻を不戦条約・9カ国条約違反の侵略と非難し、既得権益を定める日中間条約の合法性を否認した。このアメリカの主張は「門戸開放政策として知られるアメリカの諸権利のことを指し、これを損なうような日中両国政府あるいはその仲介者によるいかなる条約や合意を認めることはできず、既成事実によって作られたいかなる状況の合法性も承認しない」というものであった。
しかし、当時の満州では、既に中国側が条約無視を続けており、日本の既定権益に対する中国による侵害やテロ攻撃が頻発し、共産主義の浸透も始まっていた。この状況は既に9カ国条約成立時の状況とは激変しており、これに対する日本の自衛目的の戦争惹起は、不戦条約違反には当たらなかった。
また、日本国民と軍による日本政府に対する不満・反発によって、日本政府の事変不拡大方針や軍事行動抑制指示は無視され、関東軍による満州全土征服に至ったのは日本政府による対米・対中追従外交の結果であった。
1932年3月満州国の独立が宣言されたが、同月「イギリスは極東問題でアメリカとは歩調を合わせない」という立場であった。
1932年10月アメリカ委員も参加していた連盟調査委員会報告は、満州における軍事行動を是認したり満州国の独立を正当化するものでは無かったが、日本と満州との特殊な歴史関係とそれに由来する日本の特殊利益を認め、また満州の自治と紛争再燃を防止する目的で日中間の新条約の締結を勧告した(スチムソン・ドクトリンを否定する)もので、調停案として多分に合理性、柔軟性を持つものであった。(15巻・日本外交史・P280) アメリカを含む各国の報道も、中国を非難し日本に同情的であったが、日本では後の東京裁判が満州侵略を認定しているため、不法な侵略と認識されてしまっている。
1933年3月、リットン報告を基礎とした連盟の勧告案議決に抗議して日本は、アメリカと連盟に対する不信感から国際連盟脱退を表明したが、日本政府の協調外交に不満だった国民は、これを熱狂的に支持した。この強硬手段後の1933年5月、中国は塘沽停戦協定成立に応じた。尚、脱退表明から2年後の脱退成立までに、侵略であれば行なわれていた筈の連盟による制裁措置は一切行なわれなかった。
上記のスチムソン・ドクトリンは対日宣言であったが、日本と共にドイツに大きな影響を与えた。
1895年三国干渉以来、ドイツは合法的に中国権益確保した日本を嫉み、1915年の日華条約に干渉しようとしたが、侵略的に奪った山東省権益を日本に奪還されて、日中衝突を策謀するようになった。
第1次大戦においてアメリカの14か条平和原則によって停戦に応じたドイツは、その後7箇月実質的な経済封鎖状態の戦争が継続する中で40万人余が餓死・病死したとわれている。そして、その後の講和の際は、侵略国として講和会議参加が認められず、一方的講和条件受諾を強制されたため、アメリカに対しては、強い反感があった。
第1次大戦後のドイツは、アメリカと協調して中国利権獲得のために中国の反日を煽り続けていた。アメリカは、予てよりの中国権益獲得要求を、9カ国条約によって国際条約化した。反日ではアメリカに同調したドイツだったが、譬えドイツが中国権益を得ても9カ国条約によりアメリカの不承認は明らかだったためドイツ批准しなかった。
そして、スチムソン・ドクトリンは、他国間のいかなる条約や合意・既成事実も否認していた。ドイツに過酷なヴェルサイユ講和条約遵守を強制しながらアメリカ自身はこの条約批准を拒否し、、アメリカの中国権益確保のためには、他国間の講和条約でさえ不承認とするアメリカの身勝手と、未加盟のまま国際連盟に強い影響力を保持するアメリカと国際連盟に対する不信感から、ドイツは日本に続いて国際連盟を脱退した。
連盟脱退後、軍拡を続けて戦争準備を続けたドイツ違って、日本はアメリカの敵視に危機感が無いまま、上海事変を顧問指導したドイツと同盟するなど、マッカーサーが言った12歳の子供のような国家運営で、大東亜戦争に追い込まれていった。
<参考>
リットン報告書に対する各国新聞紙の論調 http://dl.ndl.go.jp/
info:ndljp/pid/1459035/173?viewMode=
(米 ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙)不公平だとの非難は当たらず:我々は斉しく日本の満州における権利を認むるのみならず支那の満州に対する主権要求を甚だせん越なものとしている。
(英 デーリー・メール紙)支那の肩を持ち過ぎる:リットン報告書の内容は偏見であり、目立って支那の肩を持っている。報告書は日露戦争における日本の莫大な犠牲について述べて居らず、その他重要な事実に適当な重要さを置いていない。もし日露戦争がなかったら満州はソヴェトの一地方になっていたであろう。
(英 モーニング・ポスト紙)報告書に偽りあり:満州の支那人は同報告書のいふが如く(※)決して支那政府に好意を持っていないことは、支那人民が国内の混乱を避けて多数満州に入込むのでも知られている。
(露 イズヴェスチヤ紙)米国の反日的立場を強化:日本が同報告の条件勧告に屈従させられた場合、世界の帝国主義列強が極東問題を如何に解決せんとしつつあるかを表示していることである。例へば満州を国際植民地化し、全支那に国際共同借款団を再建する如きこれである。
<参考>http://dspace.bunka.ac.jp/dspace/
bitstream/10457/1064/1/001032119_03.pdf
1932 年 1 月 7 日に日中両国に送付された通牒の全文は,以下のようなものである。
錦州に対する(日本の)最近の軍事作戦により,1931 年 9 月 18 日以前には存在していた南満州における中華民国の行政権限は完全に破壊されました。アメリカ合衆国は,最近国際連盟理事会が承認した中立委員会が中日両国の間に存在する諸問題の最終的な解決を促すことを確信しております。しかしながら,現在の情勢とわが国の諸権利ならびに諸義務にかんがみ,合衆国政府は日本帝国政府と中華民国政府の双方に対して,以下のように通告します。アメリカ合衆国の条約上の諸権利や中国におけるアメリカ市民の諸権利――(具体的には)門戸開放政策として知られる,中華民国における主権,独立,あるいは領土的ならびに行政的保全の権利――を損なうような中日両政府あるいはその仲介者によるいかなる条約や合意を認めることはできませんし,既成事実化されたいかなる状況の合法性(legality)も認めません。また,1928 年 8 月 27 日に締結されたパリ条約(不戦条約),これにはアメリカのみならず中日両国も加盟しておりますが,この誓約と諸義務に反するいかなる状況,条約,あるいは合意も認めることはできません。
続いて,同年 2 月 23 日付けのボラー上院議員あての書簡を概観したい。『回顧録』に全文(6 ページ)が収められているが,ここでは要点を箇条書きにする。
1) 貴殿(ボラー上院議員)は,最近の中国情勢に対してわが国の政策がどうあるべきかについて――(特に)いわゆる 9 カ国条約が依然として適用可能か,効力を持っているのか,
あるいは修正の必要があるのかということについて――私の意見をお尋ねでした。
2) アメリカの対中政策は,ジョン・ヘイ国務長官が 1899 年に表明した門戸開放政策以降一貫しています。ヘイ国務長官は,(1)対中国通商における機会均等,および(2)そのような機会均等を維持するため,中国の領土的並びに行政的統合の必要,の二つの原則を訴えました。
3) 門戸開放政策は,1921 年から 1922 年にかけて,太平洋に権益を持つすべての列強が参加− 39 −した(ワシントン)会議において,いわゆる 9 カ国条約として結晶化しました。
4) 9 カ国条約が署名されたとき,中国では専制的な政府が革命勢力によって倒され,自由主義的な共和政体が成立しつつありました。9 カ国条約は,中国のこのような近代国家への移行を妨げるような攻撃的政策を自制する姿勢を締約国に求めるものでした。
5) 条約にいたる審議の過程で,イギリス代表のバルフォア卿(Lord Balfour)は,「“ 権益権(spheres of interest)” というような古い発想を持つ代表は,ひとりとして交渉の場にいなかった」と述べ,日本代表の幣原男爵も「中国が自国を統治する神聖な権利を否定する者はいなかった」と日本政府の立場を表明しました。
6) ワシントン会議は基本的には軍縮会議でしたが,海軍の軍備競争の停止だけでなく,世界平和,とりわけ極東における平和を脅かすさまざまな問題の解決の促進を図ることを目的としておりました。
7) 9 カ国条約が締結されてから 6 年後に,パリ条約,いわゆるケロッグ = ブリアン条約(不戦条約)が結ばれ,強国による弱小国への侵略を否定する政策は強化されました。すべての紛争を恣意的な力によってではなく,正義と平和的手段で解決しようとする方向を得たのです。
8) 最近の満州ならびに上海での状況は,極東に権益を持つすべての国に対して,これらの合意(9 カ国条約と不戦条約)を忠実に守ることの重要性を喚起するものです。紛争の原因や(中日)両国のどちらに非があるかを問うことは不要です。責任や原因に関係なく,前述の二つの条約の合意に立ち戻らなければ,いかなる和解も実現できないからです。
9) 以上がアメリカ政府の見解です。
25、上海事変2と太平洋戦争
日独の国際連盟脱退後もドイツは日中衝突の策動を続け、中国に軍事顧問団を送り軍事支援していた。1932年4月コミンテルン大会で中共が対日宣戦布告を宣言し、1935年第7回コミンテルン大会で抗日反帝統一戦線結成方針が決定され、同時にドイツも人民戦線の敵対国とされた。そのため、1936年11月日本とドイツは日独防共協定を締結したが、ドイツによる日中衝突の策謀は続けられた。日本は中国軍の鹵獲兵器からドイツの対中軍事支援を知りながらこれを隠蔽し、何の抗議もしなかった。その結果、ドイツと中国の計画通り、1937年8月上海事変2勃発によって日中戦争が開始されてしまった。この時、ソ連は蒋介石の南京政府と不可侵条約を結び、軍事援助を与える事で、蒋政権の戦争継続を支援した。
事変勃発直後、中国は国際連盟に対して、日本による不戦条約・9国条約違反を訴え、制裁措置を取るよう提訴した。また、「世界平和のためにアメリカは先頭に立って行動する。」と主張していたローズベルトは、1937年10月シカゴで、侵略を行なう国家を「病人」に喩えて隔離演説を公表し、中国の要求に応えて、イギリス・オランダと共に、中国に対し軍事経済支援すると共に、日本を経済封鎖して太平洋戦争に引きずり込んだ。
上海事変2後のアメリカの隔離演説について、日本では、日本・ドイツ・イタリアの枢軸国を非難対象としていたかのように認識されているが、当時ローマ=ベルリン枢軸は結成されていても、イタリアに対する連盟による侵略国認定は確定しておらず、イタリアは未だ連盟を脱退していなかった。またアメリカは、1915年の第2次ブライアンノート以来、ドイツと協調して反日政策を採り、ドイツによる日中戦争画策を容認していた。そのアメリカが、ドイツによる軍事顧問団派遣と非武装地帯を含む広範囲に多数のトーチカ・塹壕陣地構築、並びに、後備含めて70万余の中国軍が配置され、中国軍の先制攻撃により上海事変2が開戦した事を知らなかったとは考え難い。事変前に不穏な情勢に気付いた日本軍は、1936年11月と1937年5月に14日の2回にわたって広範囲に査察、トーチカ塹壕の構築という停戦協定違反を確認し抗議している。この状況を知っていたアメリカが、中国とドイツによる対日戦争惹起に対し、日本による中国侵略戦争と非難し、日本を経済封鎖して太平洋戦争に追い込んだのである。
26、アメリカが認定した侵略国に対する国家無条件降伏要求
第1次大戦後、国際法において戦争を違法化する考え方が強まるに従って、敵対行為の終了に関し新しい問題が生じてきた。侵略者は国際法上の罪を犯したとみなされ、従って、原則としては、講和会議に対等の当事者として参加すべきではないとされた。さらに、条約は原則として当事者にとり相互に利益となるものでなければならず、強制された平和ではこうした性格をもたないと考えてよいであろうとされた。こうしたことから、平和条約の施行は特別に難しくなり、敗戦国に強制された講和は無効であるというスチムソン・ドクトリンによれば、新しい国際法のもとではこうした平和条約は法的に効力を持たないともいえるのである。従ってこの主張は、侵略行動を抑圧するために国際社会の代表として行為する防衛国側とその連合国は侵略国に対し原則として無条件降伏を要求して講和を締結する権利を有する、と提案している。つまり、自国領内で内乱または反乱を抑圧した国家の場合と同じだ、というのである。ローズベルト大統領が1943年にカサブランカで、枢軸国との敵対行為を終わらせる条件として「無条件降伏」という言葉を使ったことは、ユリシーズ・S・グラント将軍がアポマトックスでやはりこの言葉を使ったことを思い出させるのであり、枢軸国に対する連合国の戦闘行為は戦争ではなく、国際社会に対する反乱の抑圧である、ということを意味していた。 枢軸国指導者に対する戦争犯罪裁判は、前項の類推と一致するものである(もっともアメリカの南北戦争の場合は、南軍の指導者は起訴ののち特赦を与えられた)。(11巻・戦争・P544)
アメリカは、自国と敵対する国家を一方的に侵略国と認定し、国家無条件降伏を要求して講和(戦争終結)を締結する権利があると主張した。しかし、このアメリカの主張は、単に中世の正戦論の復活であって、敵対国の戦争を不正な侵略戦争とする根拠は不戦条約であったが、不戦条約はアメリカ自身が、自衛戦争を放棄する戦争から除外しており、第2次大戦において、アメリカの敵対国による戦争を侵略と見做す根拠は何もなかった。
また、「敗戦国に対し強制された講和は無効」とするスチムソン・ドクトリンは、日中間の講和を否定し日本が講和で得ていた中国権益を否定する目的で公表されたものであった。しかし、第1次大戦の敗戦国・ドイツなどに強要されていた講和を無効化するものではなかった。また、アメリカは、第2次大戦において、アメリカと敵対した枢軸国全てを侵略国と認定し、侵略行為に対する懲罰として、史上初めて公然と国家無条件降伏を要求した。しかし、この国家無条件降伏要求は、条件降伏を認めない事により非助命宣言並びに降伏国民の権利消滅宣言という陸戦法規第23条の禁止事項に抵触する事態が生じ得る可能性があり、枢軸国側が容易に受け容れられる降伏条件では無かった。敗戦が予想された時ドイツ以外の枢軸国は、ドイツに宣戦布告して国家無条件降伏を免れようとしたが、アメリカはこれを許さなかった。そしてドイツは、連合軍に全土を蹂躙され、一般市民を守るべきドイツ国防軍は各個に降伏し、捕虜になった兵士と共に市民が連合軍による残虐行為の対象になった。その後1945年5月7日、ドイツ臨時首班代理ヨードル大将がランスのアイゼンハワー最高司令部で国家無条件降伏文書に署名して停戦したが、停戦後もドイツ国民に対する残虐行為は続けられた。
27、日本を除く枢軸国に対する懲罰講和
大戦後、連合国とイタリア、フィンランド、ハンガリー、ブルガリア、ルーマニアとの間に平和条約が締結されたが、これらの条約は従来のものと同じではなかった。枢軸国側による批准は当然期待されていたとはいえ、これらの条約はソ連、イギリス、アメリカおよびフランスが批准したときに効力が生ずるという新しい規定が挿入されていたのである。従って、これらの条約は、連合国の側による平和宣言といえるものであった。西欧諸国は、西ドイツとの間で、占領を終わらせるための「契約」について交渉したのち、1951年に一方的な宣言で講和を結んだ。
ソ連は60年、すべての連合国による正式な対ドイツ平和条約を締結するように要求した。この条約は締結されなかったが、60年代に入ってからの西欧諸国と西ドイツとの関係や東欧諸国と東ドイツとの関係は、事実上平和が解決したことを示した。
日本との間では、在来形式の平和条約が効力を生じたときに講和が成立した。(11巻・戦争・P544)。
上記の枢軸国に対する一方的講和方式は、アメリカが恣意的に決定したものであって、従来の国際法慣習に反していた。例えば、第1次大戦において在来方式で停戦に応じたドイツは、停戦後になって中立条約に違背した事を以て侵略国扱いされ、一方的講和が強制された。対戦国を侵略犯罪国家と認定する事によって、対等の交戦国として講和交渉する必要が無くなり、一方的な講和条件を強要出来るというのは戦勝国にとって非常に有利な戦争終結方式であった。そのため第2次大戦においてもアメリカは、戦況が有利になった1943年、枢軸国群を侵略国とするカサブランカ宣言を公表して、国家無条件降伏を要求した。
前項で述べた通り、満州事変後に公表されたスチムソン・ドクトリンは、「敗戦国に強制された講和は無効」として、親米中国と日本間の講和を無効としながら、ドイツに強制された講和は有効のままであった。そんなアメリカの言いなりになっていた国際連盟に対する不信感から、ドイツは国際連盟を脱退し、講和条件遵守を拒否して第2次大戦に向けた軍拡を始め、1936年3月陸戦法規に違反する被占領状態にあったラインラントに進駐して奪還。以後は、アメリカの手法を真似て、軍事力を背景とした脅迫・強要による侵略を開始した。1938年2月オーストリア・ナチス党を使嗾したオーストリア併合、ミュンヘン会議で英仏の承認を得たズデーテン割譲、ベーメン・メーレン併合・スロバキアの保護国化で軍事力行使の際は、チェコスロバキア大統領に主権委譲を強要・承諾させた上で侵攻している。ポーランド侵攻は、ソ連との国境協議成立後に侵攻するなど、単に軍事力だけによって侵略を開始したのではなかった。
第2次大戦緒戦は、他の枢軸国も超大国アメリカを懼れていたが、それ以上に危険だったのはソ連の侵略であった。中でもフィンランドは、ソ連による不可侵条約破棄という明白な侵略を受け、連盟の援助を受けながら少兵力で勇敢に戦い、連盟もソ連を除名したが、結局ソ連に領土を奪われた。そのフィンランドにとっては、ソ連と同盟する連合国より、枢軸側に加盟する自衛手段しかなかった。それでもアメリカは、戦後にフィンランドを侵略国として扱い懲罰講和の対象国とした。
カサブランカ宣言の対象国だった日本に対しては、カイロ広報においても「日本国ノ無条件降伏ヲ齎スニ必要ナル重大且長期ノ行動ヲ続行スヘシ」と無条件降伏要求が宣言されている。しかし、このカイロ広報は日付・署名も無く、対日宣言というより、中国の単独講和を防ぐ目的で、ローズベルトが過去の国際条約を無効にして画定済みの領土を中国に奪取させると約束するもので、カサブランカ宣言に重複させる特別の意味は無かった。
ドイツ以外の枢軸国は、戦勝国の批准で講和成立する変則形式、ドイツについては、戦勝国による戦争終結宣言で講和が成立し、枢軸国との講和会議は省略された。
一方、日本との在来形式の平和条約とは、侵略国対象の枢軸国と異なり日本だけが連合国と対等の立場で講和会議参加を招請され、日本が条約を批准する事で講和が成立する従来の戦争終結形式であった事を指す。
これは、ポツダム宣言提示時点で、アメリカは、侵略国に対し無条件降伏を要求していたカサブランカ宣言・カイロ広報の国家無条件降伏要求を、日本にだけ撤回していた事を意味する。
28、日本に対する国家無条件降伏要求の撤回。
日本では、一応の論争はあっても、大半の日本人は「日本は国家無条件降伏した。」と思い込んでいる。これは、ポツダム条件降伏した日本に対し、条件違反の東京裁判強行を正当化するアメリカのプロパガンダを信じ込んだ結果であると共に、日本を侵略国のままに貶めておきたい日本人らの言うがままに、日本も侵略国の降伏条件であった「国家無条件降伏した。」と思い込んでいるのである。
しかし、前項で述べた通り、枢軸国の中で日本だけが、ポツダム降伏条件を提示され、これを受諾して停戦している。このように、国家無条件降伏受諾以外に停戦手段が無かった枢軸国と異なり、交戦国の軍ではなく国家が停戦を申し入れ、停戦内容が定められる停戦形式は、旧来の停戦形式と同様である。また、講和会議に敗戦国が一応対等の立場で出席し、条約を批准する在来方式で戦争を終結させたのも日本だけである。
以上の戦争終結形式の違いは、ブリタニカにも記載されている国際常識であるにも関わらず。日本人は日本だけが国家無条件していなかった意味を全く理解していない。
29、日本に対する侵略国認定の撤回。
沖縄占領を終えたアメリカが、国家無条件降伏要求の既定方針通り本土上陸作戦を開始すれば、日本はドイツと同様に本土を蹂躙され、国家無条件降伏に応じるしか無かった。しかし、上陸作戦によって日本が降伏するまでには、軍民の激しい抵抗により時間が掛かる。また、当時ポツダム会談やドイツ占領政策において、強盗国家の本領を発揮するソ連と悉く対立し始めていたアメリカは、いずれヤルタ密約により対日戦争に参戦するソ連の干渉を抑えるために、日本の早期降伏による単独占領が必要だった。また日本に原爆を投下しようと、本土上陸作戦における日本軍民の抵抗はより激しくなり、想定以上の米兵被害が生じると考えられた。そのためアメリカは、侵略国に対する国家無条件降伏要求を、日本にだけ撤回し、日本に対しポツダム降伏条件を提示したのである。
日本の識者は「特攻は、初期には一定の戦果が挙げられたが、米軍が対策を講じた以降は、殆どが無駄死にだった。ドイツ軍の指揮官達は良識的で、部隊に戦闘能力が無くなれば降伏して、兵士を無駄死にさせなかった。一方日本軍は、弾薬どころか水食糧が無くても降伏を許さず、悲惨な状況で玉砕させた。」と、GHQのプロパガンダを信じて、日本を非難する方が多い。
しかし、特攻について近年公表された米軍資料では、大きな損害を与えていた事実が明らかになっているし、何より特攻が艦船乗組員に与えた恐怖心は非常に大きな問題になっていた。また、前線の戦闘能力の無い餓死寸前の兵士達が降伏してもしなくても、戦況には全く影響が無いことは、全ての日本軍将兵は解っていた。それでも、日本兵が降伏しなかったのは、「今日自分たちが降伏をしないことで、祖国の婦女子が守れる。この苦しみが続けられれば、アメリカとの講和が可能になるかもしれない。」という絶望の中の僅かな希望のためであった。特攻や各地の玉砕も同様だったが、特に沖縄戦では、投降を装った老婆が手榴弾を投げつけ、主婦が包丁を握って日本兵と共に敵陣に斬り込み、子供達が傷兵を助けて僅かな希望を信じて戦った。降伏して兵士を無駄死にさせなかったドイツ軍は、無抵抗でドイツ領への連合軍侵攻を許し、ドイツ全土の婦女子は蹂躙された。特攻や前線で降伏を拒否して戦ってくれた日本軍のお陰で生き延びた日本人は「ドイツ軍のように本土の婦女子を見捨てて降伏すべきだった。」という前に、講和を拒否して国家無条件降伏を要求していたアメリカの非人道行為を批判するのが先では無いのだろうか。
命を投げ出して日本本土を守ろうとした方々の抗戦によって、アメリカは侵略国認定条件の国家無条件降伏要求を撤回し、ポツダム降伏条件を提示した。当時の日本人は、国家無条件降伏と有条件降伏の違いをよく理解していなかった面はある。しかし、国家無条件降伏要求が撤回され降伏条件が提示されたという事は、交渉の余地が生まれ、歓迎すべき事であった。そこで、何故日本が直ちにポツダム宣言を受諾しなかったかと言えば、既に、ソ連に講和交渉の仲介を要請していたからである。しかし、1945年2月ソ連は、アメリカと日ソ中立条約破棄・対日参戦に同意して、日本領土奪取のヤルタ密約を成立させており、日米講和を仲介する意思はなかった。中立破棄による参戦は、第1次大戦のドイツによる中立侵犯と同様に明白な侵略行為であり、また日本固有の領土・千島列島の奪取は、大西洋憲章・カイロ宣言に違反するソ連の領土拡大を密約した米ソによる日本侵略共同謀議であった。ポツダム会談中に、原爆実験成功の報を受けたアメリカは、原爆投下まで日本にソ連の降伏仲介に期待させ、ポツダム宣言を受諾させないように宣言国のソ連を中国に差し替えて公表した。
30、ニュルンベルグ裁判と東京裁判の根拠法と適用犯罪の違い。
? 枢軸国に対しては、1943年のカサブランカ宣言以降、侵略国対象の国家無条件降伏要求が宣言されていたために、ドイツは国家無条件降伏した時点で、平和に対する罪のA級侵略罪処罰を受諾していたことになる。また、1943年10月、連合国戦争犯罪委員会が設立され、同年12月に処罰予定のB級通例戦争犯罪内容32項目(後1項目追加)が具体的に公表されていた。そして、同月米英ソにより「ドイツの残虐行為に関する宣言」が公表され、C級人道犯罪処罰も予定されていた事をドイツは理解していた。従って、国家無条件降伏を受諾したドイツに対するA・C級戦犯処罰は、完全な事後法とはいえない。
国家無条件降伏したドイツに対するこれらの犯罪を、どのように起訴して裁くのかについては、ドイツ降伏まで定められておらず、国際法慣習も無かった。そこで1945年8月、米英仏ソは「ヨーロッパ戦争犯罪人裁判に関するロンドン協定」および付属書の「国際軍事裁判所条例」を定め、この条例を根拠にしたニュルンベルグ裁判において、ABC各級の重大戦争犯罪人が裁かれた。
一方、東京裁判は、ニュルンベルグ裁判のような連合国間の条約に基づくものではなく、国家無条件降伏したドイツに対する国際軍事裁判所条例を一部修正したGHQ命令(1946年1月19日一般命令第1号、一部改正1946年4月26日一般命令第20号)の極東軍事裁判所条例によって強行された。しかし、根拠法を4カ国ロンドン協定に基づくドイツ向け条例と異なり、東京裁判はポツダム降伏条件に違反する極東条例により行なわれたのは、マッカーサーの復讐心に基づく国際法違反のGHQ命令を根拠にしているだけである。この事実は、東京裁判弁護団が連邦最高裁に人身保護を申し立てした際の却下理由「マッカーサーから法を与えられたのであり、国際法に基づいて審査できる裁判所、司法的な法廷ではなかった。」旨の回答からも明らかであった。
ポツダム宣言を公表した段階で、アメリカは日本に対する侵略国扱いを撤回して、同宣言第10項でB級通例戦争犯罪の適用のみを明示した。しかし、同宣言を受諾した日本が国家無条件降伏の適用に抗議せず、事後法違反の抗議に留まったため、国家無条件降伏したドイツと同様に、日本が関与した全ての戦争を侵略戦争として裁く目的で、東京裁判が強行された。
適用犯罪については、ニュルンベルク裁判では、平和に対する罪・通例の戦争犯罪・人道に対する罪の全てが適用された。これに対して東京裁判では、人道に対する罪を除く平和に対する罪と通例の戦争犯罪が適用された。また平和に対する罪は、フランス軍事裁判所で、ハーマン・ロエックリング事件に関連して適用された。さらに南京の中華民国裁判所でも、酒井隆中将事件に関連して平和に対する罪が適用された。なお、そのほかのヨーロッパにおける国内およびドイツ占領地域軍事裁判では、人道に対する罪と通例の戦争犯罪が、太平洋地域における日本人戦争犯罪人に対する軍事裁判では、通例の戦争犯罪が適用された。 通例の戦争犯罪については、東京裁判では、そのような犯罪の発生および防止を怠ったことに対しても個人責任が問われた。通例の戦争犯罪に対する不作為の義務違反を理由とする個人責任の追及は、東京裁判に限らず、日本人を対象とした戦争犯罪人裁判にみられる共通の特徴である。なお、ドイツは第2次大戦終了後、自国民の戦争犯罪人を国内裁判所で審理してきており、65年4月13日、ドイツ連邦共和国の連邦議会は、戦争犯罪などの時効を69年12月31日まで延長すべく「刑事法における時効期間の計算のための法律」を制定した。(11巻・戦争犯罪・P558)
南京虐殺事件が起訴されているので、日本だけでなく世界も日本に人道犯罪の適用があったと思い込んでいるが、日本に対し人道犯罪の適用は1件もなかった。日本でB級戦犯について、BC級戦犯と呼称されているのは、日本にもC級・人道犯罪の適用があったかのように誤認させるためである。
日本に対するB級通例戦争犯罪の適用について特徴的なのは、不作為責任の訴追である。ロンドン協定の際に、フランスなどから「戦争は犯罪では無い。」という主張があったように、戦争自体は死刑対象の重罪犯罪では無かった。ニュルンベルグ裁判では人道犯罪の多数の証拠で処刑できたが、東京裁判では人道犯罪の適用がなかったので、侵略戦争だけでは処刑出来なかった。そこで侵略共同謀議者を広汎に起訴し、A級侵略罪にB級通例戦争犯罪の不作為責任を適用して処刑しただけであった。その際、該当するB級通例戦争犯罪を特定せず、その犯罪の発生及び防止についての関与や責任の程度は、全く問題にされなかった。また、各地のB級戦犯裁判においては、日本人戦犯がドイツの1割程度しか起訴出来なかったので、処刑者を増やす目的で、上級者の不作為責任と共に下級受命者の実行責任も問われた。
東京裁判に関連する日本人には理解されない事実1/3・2/3・3/3
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1、歪曲捏造史観に支配された日本
日本人の歴史認識と言えば、思想信条と言論の自由によって、多種多様な歴史認識が存在すると考えられている。
しかし現実には、戦後の歪曲捏造史観教育によって洗脳された大半の日本人は、反日バイアス史観に囚われてしまっている。
この反日バイアス史観は、歴史を認識するに当たって標準となるべき歴史的事実や内外の法慣習の存在を無視した特定の政治思想を持つ集団の思い込み史観に過ぎず、普遍的な歴史認識たり得ない。
このような反日バイアス史観の象徴として、東京裁判史観がある。東京裁判史観というと、日本の侵略戦争犯罪を裁いた東京裁判に準拠した歴史観を指すと全ての日本人が誤認している。しかし、村山談話に代表されるこの史観は、特定の政治思想を持つ人々が無知の日本人を騙すという明確な意図を以て、東京裁判判決自体を歪曲捏造した反日歴史観に過ぎない。
例えば「日本はアジアを侵略し植民地支配した。」という大半の日本人が信じる村山談話の歴史認識については、東京裁判にはアジア侵略有罪判決は無く、アジアを侵略し植民地支配していた欧米に対する侵略が有罪になっているのである。また、各地の戦犯裁判でも植民地支配有罪判決は無く、逆に植民地支配妨害が有罪になっている。明らかに有罪判決を捏造して謝罪反省する村山談話が公表され、20年以上日本政府が踏襲してきたというのに、これに異議を唱える日本人は誰もいなかった。
日本の侵略犯罪を認定した東京裁判の有罪・無罪程度は数分で確認出来る時代なのに、判決を歪曲捏造した偏向談話が何の検証もなく踏襲され続けてしまっているこのような反日バイアス史観は、日本現代史全般に及んでしまっている。これは、敗戦直後のGHQによるWGIP洗脳によって、日清戦争以来の日本を侵略国家と信じ込んでしまった世代が大量の偏向史観を拡散してしまっているので、現代日本人はこの既成反日史観からなかなか脱する事が出来ない。
そこで本稿では、国際的に信頼性が高いと信じられているブリタニカ百科事典の記載に基づいて、日本の現代史を読み返してみたいと思う。ブリタニカの場合、外国人執筆者が反日であっても、史実の捏造まではしていない事、その影響のせいか、日本人執筆者の偏向も抑制されているからである。これは、女性基金資料でも同様の傾向が見られる。日本人研究者の場合には偏向資料になっていたものが、反日オランダ人との共同研究では、偏向解釈が行なわれていても、資料自体の中立性は維持されているので、執筆内容に関する事実認識への影響は小さくなっている。
2、第1次大戦まで、全ての戦争は合法だった。
中世ヨーロッパでは、相手の不正を懲らすための戦争は、正戦として正当化され、正戦論が形成された。しかし、グロチウスの『戦争と平和の法について』(1625年)で、正戦は否定しないが、自己の側に不正がある事を知り得ない「克服し得ない無知」による場合には、交戦者双方共を正当とみなければならないとして、正戦論の限界が指摘された。
バッテルの『国際法』(1758年)では、戦争の正不正につき、国家を越えた判定者が存在しないために、国家がそれぞれみずから正当原因をもつと判断する場合には、その戦争を不正とみなすことはできないとする無差別戦争観が形成された。(11巻・戦争法・P560)
このように第1次大戦まで、戦争は「他の手段による外交」であって正不正に関わらず国際法は、国家主権の行使である戦争を是認していた。(9巻・主権・P402)。
3、戦争が合法であるため、第1次大戦において戦争惹起も合法だった。
第1次大戦直後、ベルサイユ条約第7編の「戦争犯罪」条項に「ドイツおよびその同盟国の侵略により強いられた戦争の結果」とあるが、この「侵略」という用語については、単に相手国の戦争を、主観的に「不正な戦争」と主張するための用語であって、具体的に不法である根拠や客観的な定義に基づいて規定されたものではない。
そして「強いられた戦争」とは、相手国の武力行使・先制攻撃により始められた戦争惹起行為を指す。
大戦後の講和会議においては、他国に対する先制攻撃を、戦争を惹起する行為として非難する主張があったため、この条文が規定された。しかし、当時の国際法は戦争惹起を不法行為としておらず、ベルサイユ講和条約の予備会議において設置された「戦争惹起者の責任と刑罰の実施に関する委員会」の1919/3/29報告書は、戦争をもたらした行為の責任について、「その行為の惹起者を訴追したり、またはその行為を裁判所の訴訟の対象としたりすべきではない」として、当時の国際法慣習通り、戦争惹起を訴訟対象にすること、並びに惹起者個人の訴追に反対したため、ベルサイユ講和条約に戦争惹起が侵略行為と規定される事はなかった。
同委員会においてアメリカ代表は、人道犯罪訴追に言及した委員会報告書の部分、および戦争について個人責任を有する者に「特別な措置」をとるべきであるとする委員会の結論に反対した。日本代表もまた、国家元首の政治的行為に対する責任についての委員会の結論に留保を表明すると共に、戦争の法規・慣例違反の行為を防止することを怠った行為を、戦争犯罪と見做すことに反対した。(12巻・第1次世界大戦・P94)
米代表の反対は、ドイツ皇帝による市民処分命令と皇帝の個人責任追及に関するものだが、これらは当時の戦時国際法でも不法とされていなかった。日本代表の元首訴追の留保は、他国の元首に対する裁判管轄権がないとする国際法に準拠していた。また、戦争犯罪の不作為責任は、当時の国際法並びに世界中の各国軍刑法も否定していた。
4、ベルサイユ講和条約の予備会議における侵略戦争定義の確定。
前項で述べた「戦争惹起者の責任と刑罰の実施に関する委員会」は、「戦争を煽動し、またベルギー・ルクセンブルグの中立を侵犯した責任を有する者に対して特別な措置が採られるべき」旨勧告した(11巻・戦争犯罪・P557)。
この勧告に基づいて、ベルサイユ条約第7編の「制裁」条項において、独皇帝ウィルヘルム2世を起訴し「国際道義に反し条約の神聖をこの上なく冒した。」嫌疑で審理に付すと定められた。しかしその後、皇帝が亡命していたオランダが引き渡しを拒否したため、裁判は成立しなかった(12巻・第1次世界大戦・P94)。しかしこれにより、史上初めて条約違反の戦争を侵略戦争とする定義が確定した。
5、侵略戦争を行ったドイツに対する懲罰講和、。
これまでの講和会議では、戦勝国と敗戦国の代表は一堂に会して、講和条件を討議する事ができた。ところが第1次大戦後のパリ会議には、勝者である戦勝国代表のみが列席し、条約案はまったく一方的に作成され、敵国側に手交された。ドイツ代表団には、提示された条約草案に対して文書による意見提出が認められたのみであった。その意見のうち若干の点は考慮されたが、改訂された条約草案は、5日以内に受諾しなければ戦争を再開するという脅迫つきでドイツ代表団に手渡された。ドイツがこの講和を「命令された平和」と呼んだのは、こうした理由による(12巻・第1次世界大戦・P91)。
また、ベルサイユ講和条約では、侵略戦争は国家犯罪とされたため、侵略戦争を行なった犯罪国民を、同盟諸国による裁判に付す権利をドイツが承認する事、ドイツ政府が戦争犯罪人を同盟諸国に引き渡すべきことが定められた。
こうしてベルサイユ講和条約は、人道に対する罪のための裁判に関する規定を設けず、単に前ドイツ皇帝に対して、平和に対する罪についての裁判を規定するにとどまった。
また、戦争犯罪人を戦勝国に引き渡し戦勝国の法廷で裁判に付す事は、非人道的判決が下される虞があるため、ドイツは戦争犯罪人の引き渡しを拒否した。その結果、最終的には戦勝国も、ドイツの戦争犯罪人らがドイツのライプチヒ大審院で裁判される事に同意した。(11巻・戦争犯罪・P557)
この侵略国に対する懲罰講和が先例となり、第2次大戦において侵略国とみなされた枢軸国に対しては、日本を除いて第1次大戦後のドイツに対する以上の懲罰講和が適用された。
6、条約違反の戦争を、不法な侵略戦争とする国際法の根拠。
戦争をする権利である主権の制限については、「諸国が国際司法裁判所の司法権に服する場合、諸国は実際には相互間に協定を結び、条約に従うのと同じ理由で国際司法裁判所の決定に従う。通常、諸国は強制機関がなくてもその条約上の義務を遵守しようとする。条約の存在理由は、両締結国がその合意を守るならば得られる利益にあるから、強制という要素が明らかでないかぎり、主権が制限されたとか移譲された得たとかいうことはできない」とされている(9巻・主権・P403)。従って、中立条約に限定されるのではなく、条約によって戦争について何らかの制限が定められていれば、国際司法裁判所の管轄権を承認するのと同様に、締結国相互に条約による制限を遵守する義務がある。この点に関し、ドイツは中立条約に違反する戦争を惹起したので侵略という平和に対する罪を犯したものとされ、従来は当然の権利であった「講和会議に出席し講和条件を討議する権利」が認められなかった。
7、国際連盟における集団安全保障
第1次大戦勃発直後の1915年3月、ジェームズ・ブライスらが「「戦争を回避するための諸提案」を公表した。これは国家が敵対行為を行なう事を制限すると共に、その制限に反して敵対行為に訴える場合には、すべての締約国は「有効かつ適切とみられる外交的、経済的または強制的な共同措置によって、攻撃を受けた国家を支援する事を約束」しようとするものであった。(日本では、集団安全保障というと集団で戦争をする権利のように誤認されているが)国際協調により戦争を抑制しようとするこの提案は国際的影響力を持ち、1917年アメリカによる「14カ条宣言」などの国際連盟設立主張に繋がった。(9巻・集団安全保障・P343)
国際連盟によって「全国家により戦争を抑止する」という集団安全保障という概念が新しく生まれ、国際連盟規約は、紛争の処理に平和的手段をとることを義務として表明し、この義務が遵守されているかどうかを監視し、必要な場合制裁を適用する組織を設立した。この結果、国際法は戦争について主権国家を制限しうる力を持ったように見えるが、実際はそうではなく、国際連合によっても事態はそれほど変っていない。(9巻・主権・P402)
その理由は、第4項で述べた第1次大戦直後に確定した筈の「条約に違反する戦争」という不正な侵略戦争の定義について、直後に成立した国際連盟の緊急措置及び強制措置によって全ての戦争を抑止できるという幻想により、この侵略定義が忘れられてしまったからである。
<参考>
国際連盟による戦争制限措置
国際連盟規約11条の緊急措置は、戦争の勃発する危険性が迫った場合に戦争を防止すると共に、戦争が既に勃発してしまった場合にはその拡大を阻止するため、緊急措置を発動する事が予定されていた。まず、戦争または戦争の脅威は、連盟国のいずれかに直接影響すると否とを問わず、全て連盟全体の利害関係事項であるとして、集団安全保障の基本理念を表明すると共に、その際、連盟としては、「国際ノ平和ヲ擁護スル為適当且有効ト認ムル措置ヲ執ル」べきこととし、「此ノ種ノ事変発生シタルトキハ、事務総長ハ何レカノ連盟国ノ請求ニ基キ直ニ連盟理事会ノ会議ヲ招集」しなければならないというものであった。
ところで、連盟が発足した当初は、安全保障については、むしろ違法な戦争に対する制裁の面に重点がおかれ、どちらかといえば、第11条はあまり重視されていなかった。しかし発足後実際に数多く援用されたのは、この第11条であった。ことに、1925年10月19日のいわゆるデミ・カブウ事件(ギリアャ=ブルガリア国境のデミ・カブウで、ギリシア軍の歩哨がブルガリア側からの発砲によって射殺され、これがきっかけで両国守備隊の間で戦闘が開始された。このとき、理事会はただちに行動を起こし、敵対行為の停止と両国の国境内への撤退を要請すると共に、英仏伊の士官からなる委員会を現地に派遣しその実行を監視するなどの措置を迅速に行ない、みごとに紛争を解決した)などから、緊急措置によって戦争を防止するという、安全保障のこのような面の重要性が改めて認識されるようになった。(9巻・集団安全保障・P343)
国際連盟による戦争強制措置
国際連盟規約16条の強制措置は、すでに発生した戦争に対し、連盟が制裁を発動し、それによって戦争を抑圧することを目的としたものであった。連盟規約は第12条、第13条あるいは第15条において、連盟国間に「国交断絶ニ至ル虞アル紛争」が生じた場合は、仲裁裁判などの平和的手段によることなしに、ただちに戦争に訴えてはならないとか、裁判の判決に服した当事国に対して、他方の当事国は戦争に訴えてはならないとか、あるいは当事国を除いた他の理事国の全員一致による理事会の紛争解決のための勧告に従う当事国に対しては、戦争に訴えてはならないなど、戦争に訴えてはならない場合をさまざまに規定している。第16条では、そのような規約による「約束ヲ無視シテ戦争ニ訴ヘタル連盟国」は、当然ipuso jure「他ノ総テノ連盟国ニ対シ戦争行為ヲ為シタルモノ」とみなされ、「他ノ総テノ国ノ国民ト違約国国民トノ間ノ一切ノ金融上、通商上又ハ個人的交通ヲ防遏スヘキコト」とされた。つまり、加盟国が規約に違反して戦争に訴えた場合には、当然他の総ての国に対して戦争をしたことになり、他の総ての国はその国との金融、通商その他の関係を断たなければならないということになっていた。
もっとも、実際には、そのような厳しい形では適用されず、連盟設立翌年の1921年第2回総会で採択された第16条適用のための指針では、次のように緩和されて適用されることになった。まず問題となるのは、違法な戦争が行なわれたかどうかをだれが決定するのかということであるが、それについては、連盟の機関ではなく、連盟国それぞれが決定するものとされた(指針第4項)。連盟では、総会でも理事会でも、評決は原則として全会一致によることになっており、加盟国それぞれの賛成を得ないかぎり、決議しえない仕組みになっていた。したがって、連盟国がそれぞれ決定するとしたのは、右のような連盟の構造からみて、止むを得なかったといえる。しかし、個々の国家の決定によることになると、全体の足並みがそろわず、そのため、制裁の効果がそがれるおそれがないとはいえなかった(実際に、1934〜36年のイタリア=エチオピア戦争で発動された連盟の制裁には、オーストリア、ハンガリー、アルバニアが第16条適用反対を表明し参加しなかった)。
次に指針は、第16条が、当然他のすべての連盟国に対し戦争行為をなしたものとみなすとしている点に関して、規約に反する戦争がなされることによって、ただちに他のすべての連盟国との間に戦争状態が発生するという趣旨ではなく、連盟国が違約国に対して戦争行為を行ない、あるいは戦争状態を宣言する権能が与えられるにすぎないものとした(同第3項)。また、制裁発動の形態については、一切ノ措置をただちに発動するのではなく、まず軽微な措置から始めて、漸次厳格な措置に移ることができることとした(同第14項)。
この指針の中で、なによりも注目されるのは、規約に違反したものとして連盟の制裁(強制措置)が発動されるかどうかは、連盟の機関が決定するのではなく、個々の連盟国が決定するものとされたことであった。総会や理事会が精細に関係するとしても、それは、当事国に意見を述べる機会を与えるとか、連盟国に判断の資料を提供するとか、あるいは連盟国の行動を調整するというだけの機能にとどまり、根本的には連盟国各自の決定によるという体制がとられたのである。この点は連盟の集団安全保障体制の一つの特徴ということができる。
いま一つ注目されたのは、強制措置といっても、経済封鎖その他の非軍事的措置に重点がおかれ、軍事的措置についてはほとんど考慮が払われていなかったことである。第16条2項は、理事会には「前項ノ場合ニ於テ連盟ノ約束擁護ノ為使用スヘキ兵力ニ対スル連盟各国ノ陸海又ハ空軍ノ分担程度ヲ関係各国政府ニ提案スル義務」があるというように、一応軍事的措置に触れている。しかし、事態が発生したのち、初めて理事会が兵力の分担程度を決定するというのであって、これだけでは電撃的に進行する近代戦に対処することはとうてい不可能といわざるをえなかった。それに、理事会が兵力の分担程度を提案するとしても、理事会は勧告以上に出ることはできないのであって、加盟国としてはそれに従う義務はなく、はたして理事会の決定どおりの体制が整うかどうかも、きわめて疑問であった。(9巻・集団安全保障・P344)
8、国際連盟による戦争制限措置が不充分だった理由
従来の政治家や国際法学者は、一様に、主権国家の戦争を行なう権利を審理し、もしくは制限するいかなる自然法、又は最高法は存在しないという考えに立ち、それに基づいて行動してきた。これに対して、国際連盟は、(1)侵略戦争は直接の犠牲者に対してだけでなく、全人類社会に対する犯罪である。したがって、(2)侵略戦争の阻止に参加することは、全国家の権利であると同時に義務である。そして、(3)もし全国家がそのように行動すれば侵略は防止できるというものであった(7巻・国際連盟・P518)。
不法な侵略戦争を、国際協調によって制限しようとする連盟の理念は正しかった。しかし、第1次大戦後のベルサイユ講和会議諮問委員会で論議された「条約に違反する戦争を不法な侵略戦争とする定義」を国際連盟は明確には採用しなかったために、侵略戦争について判断出来る定義がなかった。
国際法においては、その戦争行為が自衛戦争なのか侵略戦争なのかは、当事国が決定するものとされており、1928年不戦条約においてもこの規範が適用された。これに対して第三国や国際連盟が、明確な根拠も無しに侵略戦争であるか否かを決定し、その侵略戦争を回避するために得略国を制限しようとする行為は、当事国の国家主権に対する侵害であった。その侵略と思われた敵対行為が事実侵略戦争だった場合には、防衛国支援は正当であったとしても、もし実際には自衛戦争であった場合には、逆に侵略国を支援する事になり、侵略戦争に加担する事になってしまう。
国際連盟においても、紛争当事国のいずれが真の侵略国であり、いずれが犠牲者であるかについての意見の不一致によって、危機状況下の連盟の行動が、しばしば渋滞するであろうという主張があった。これに対しては、紛争を仲裁裁判またはその他の平和的解決に付することを拒否した国家が侵略国であるという回答が、十分にこたえうるもののようであった(7巻・国際連盟・P521)。しかし、その場合であっても、自衛国が「平和的解決に付していては自衛目的が果たせない」と判断する状況は当然に有り得る。従って、紛争を仲裁裁判またはその他の平和的解決に付していなかったとしても、「侵略国である」と断定する事は出来ない。
国際連盟による戦争制限が全会一致を原則としていたために、戦争制限が不充分になったという主張がある。しかし、「条約違反の戦争を侵略戦争とする」明確な定義が採用されなかった状況では、第三国が戦争当事国のどちらが侵略国かを決定する事は、各加盟各国の利害関係も絡んで難しく、結果として、全会一致出来ない事によって、誤った一方的な侵略戦争判断を防ぐ効果があった。
但し、国際連盟に対して日本が提案した人種差別撤廃が否決され、当時の国際社会が自決権を認めていなかった状況では、全会一致であっても正しい判断に至る保証はなかった。
例えば、イタリアがウェルウェルの国境事件に関し、エチオピアに巨額の賠償を要求したが、エチオピア政府はこれを国際連盟に提訴した。その結果、調停委員会が28年のイタリア=エチオピア条約の規定に従って任命された。調停委員会は1935年、ウェルウェル事件に関しては、両国いずれも非難すべき点はないとの結論を出して会議を終えた。しかしイタリアは、エチオピアに対して同年10月3日軍事行動を開始した。国際連盟はイタリアに経済制裁を加えることを決議した。その後イタリア軍は北部エチオピアを占領し、36年5月5日アジスアベバに進駐した。ハイレ・セラシエ皇帝は、ジュネーブで連盟総会に出席し、自国民のために訴えた。だが皇帝のイタリアに対する主張は支持されず、連盟総会は、逆にイタリアへの経済制裁を中止すべきだという決定を行った。エチオピアはエリトリアとイタリア領ソマリランドに合併され、イタリア領東アフリカとなり、皇帝はイギリスに亡命した(3巻・エチオピア・P95)
この事実は、イタリアによるエチオピア侵略において、紛争初期段階では緊急措置が適用されず、武力行使開始後に強制措置の経済制裁が適用されたが、エチオピア首都攻略後、皇帝が総会で侵略を訴えても連盟は経済性制裁を中止し、エチオピアはイタリアの植民地になった.
これは、主要な連盟加盟国はアフリカに植民地を有し、人種差別が正当化されていた国際法によって、全会一致が正しい結論に至らなかった一例である。
9、国際連盟の弱体化とアメリカによる戦争煽動
第1次大戦当時既に超大国であり、常任理事国予定であったアメリカが国際連盟に加盟しなかったため、国際連盟の威信は低下した。また5常任理事国のうち、1933年日本・ドイツ(26年追加盟)が、1937年イタリアが脱退し、1939年ソ連(34年追加盟)が除名されたため連盟は弱体化した。しかし、ソ連除名まで連盟による戦争抑止機能は失われていなかったとも言える。第2次世界大戦が起きてしまったのは、連盟を軽視したアメリカが戦争を煽動したからである。
日清戦争後の中国利権分割競争に出遅れたアメリカは、日本が得ていた中国利権を奪い取るために反日政策を採り、中国側の以夷制夷策を利用して日本に対する牽制・干渉を繰り返し、中国の取り込みを図った。そして満州事変後、アメリカの反日に連盟が同調しなかったため、アメリカは連盟を無視し、独自に日本敵視体制に移行した。その結果、中国がドイツ軍事顧問団の指導を受けて第2次上海事変を惹起すると、これを「日本による中国侵略戦争」とプロパガンダして隔離演説を公表した。そして、連盟の建前であった「侵略戦争は、全人類社会に対する犯罪である。侵略戦争の阻止は、全国家の権利であると同時に義務である。」という理屈を持ち出して、第25項で述べる通り、日本に対する侵略戦争を行なっていた中国に対し英蘭と共同で中立義務に違反する軍事経済支援を行ない、日本を経済封鎖して戦争を煽動した。その結果、日本は自衛のための戦争惹起に追い込まれたのである。このような、アメリカによる独善的な正戦論の復活によって、戦争は拡大した。
ヨーロッパ戦線においては、ドイツによる不可侵条約違反のポーランド侵攻により、枢軸国と連合国間の戦争が開始された。しかしアメリカは、不可侵条約違反の戦争惹起を侵略戦争とは認識しておらず、また日本以外の枢軸国を隔離演説の対象国にしていなかったにも関わらず、単に連合国との交戦を侵略戦争とする正戦論の復活によって、イギリスなどの連合国に対して中立義務に違反する軍事支援を行なって戦争を煽動した。
<参考>
国際連盟からの脱退・除名
連盟からの脱退により、連盟による戦争制限措置が無効化したという誤解があるが、実際の脱退までには2年間の猶予期間が設定され、その間連盟による戦争制限措置は有効であり、脱退国の復帰も可能であった。
・1933年3月、日本の脱退
1931年9月満州事変の勃発直後、中国の提訴を受け、日本が提案者として、理事会が実地調査のため国際連盟日華紛争調査委員会を設立派遣した。委員会は、イギリス、フランス、イタリア、アメリカ、ドイツ各1名の5名の委員から成り、団長リットン伯爵の名にちなみリットン調査団とも呼ばれた。委員会は翌32年2月から日本、中国、満州の各地で現地調査を行ない、10月に報告書を公表した。それは日本の行動が侵略的であるとしながらも、満州地域における赤化の脅威を指摘し、満州を中国から切り離して、自治を認めるべきだとした。33年2月、連盟総会はこの報告に基づき満州を国際管理下の自治領とし、日本軍は撤退すべしとの勧告案を賛成42、反対1(日本)、棄権1(シャム)で可決した。日本は同年3月28日国際連盟を脱退する旨通告した。(小項目2巻・国際連盟日華紛争調査委員会・P830)
1932年1月、アメリカは、日本の満州進攻を中華民国に対する侵略として、不戦条約に違反する一切の取極を認めないとするスチムソンドクトリンを公表したので、日本では日本による満州侵略が事実と信じられている。しかし、満州は旧清国の領土であって、中華民国の領土ではない。また事変当時、中華民国・張軍閥は日本との条約を遵守しないばかりか、日本人居留民だけでなく中国人にまでテロ攻撃し、共産主義者によるテロも頻発する危険な状況であり、日本による自衛戦争であったことはリットン報告でも言及されており、不戦条約違反には当たらない。
日本の満州進攻を批判したアメリカだが、国益を優先し日本に対する経済制裁には反対するなど、対応に一貫性が無かった。満州民族国家である満州国の建国は、1918年1月のウィルソンによる14カ条の平和原則、1941年8月の大西洋憲章における民族自決に反するものではなく、実際問題として、満州国が存続していた場合を想定すれば、ソ連など共産国に対する牽制と共に、中国やアジア諸国の共産化を防げた可能性があり、戦後共産国に対峙してきたアメリカにとって、大きな国益となっていたことは明らかである。
・1933年10月ドイツの脱退
ドイツは、協商国側が平和条約の軍備制限をもう4年間維持しようとしている事に抗議して、連盟を脱退した。連盟がドイツだけに不利な軍縮を要求しようとすれば、連盟脱退という抗議手段があり、逆にドイツの軍備拡張を招くという教訓になった。
・1937年12月イタリアの脱退
1935年10月、ムッソリーニはあらゆる説得を排して、公然たる侵略計画のもとにエチオピアに侵入した。規約に基づく経済制裁を意に介せず、ムッソリーニは翌年夏までにエチオピア全土を占領、併合したのである。この事件における敗北から連盟は立ち直れなかった。当初ファシスト政府は、連盟の迅速な行動に驚いた。イギリスの指導下に、わずか3カ国(アルバニア、オーストリア、ハンガリー)を除く全加盟国は、イタリアに対する武器および石油を除く各種原料の禁輸と、あらゆる借款供与の停止、ならびにイタリアからの全輸入の禁輸に同意した。12月までにこれらの措置は大きな効果を示しはじめ、加盟国は石油の輸出禁止をも考慮するにいたった。それは、ムッソリーニの軍隊をエチオピアから撤退させる上で、即効を発揮するかにみえた。しかしムッソリーニは、英仏政府の突然の行動によって救われた。英仏政府は侵略者に最大限の満足を与えるような解決を、イタリアとエチオピアに提案したのである。すでに実施に入った制裁はさらに数ヶ月間続いたが、それらをもってしては、イタリアの勝利を妨げることはできなかった。1936年5月、イタリアはエチオピアを併合し、7月、総会は経済制裁を停止した(7巻・国際連盟・P523)。その後、1936年10月、イタリアはローマ=ベルリン枢軸を結成し、翌年12月連盟を脱退した。
・1939年12月14日理事会決議によりソ連除名
1939年12月、、ソ連が不可侵条約を破棄してフィンランドを侵略したため、フィンランドは連盟に援助を要請した。総会はこれに基づいてフィンランドへの援助を決定し、理事会は、連盟からソ連を除名した。(7巻・国際連盟・P523)
連盟は、各国に支援を求め、諸外国から11000名の義勇兵がフィンランド軍に加わり、英仏は軍需物資を提供した。同じく軍需物資を提供したスウェーデン、ノルウェーは、英仏が共同で派遣することになった遠征部隊の自由通過を拒絶した。約100万のソ連軍に善戦する20万に満たないフィンランド軍は、やがて弾薬が不足し、兵員の過労から崩壊寸前になり、フィンランド政府は1940年3月6日降伏を決定した。
ソ連は、1940年3月12日、フィンランド正統政府と、モスクワで講和条約を結んだ。これによりフィンランドはビボルグ、ベチェンがを含むカレリア地峡および若干の島嶼とフィッシャー半島の半分とをソ連に割譲し、ハンゲ海軍基地を貸与することを認めた。その結果40万以上のフィンランド人が立ち退かなければならなくなった。(12巻・第2次世界大戦・P229)
ソ連に侵略されたフィンランドは、その後、防衛のために枢軸側に加盟したが、侵略国ソ連と共謀したアメリカはフィンランドを侵略国扱いして、戦後の講和会議参加を認めなかった。
10、中国分割競争に出遅れたアメリカ。
1928年不戦条約は、アメリカ・ケロッグ国務長官による、他国に対する自衛目的の戦争惹起容認と、侵略戦争は非とするが侵略戦争か自衛戦争かの決定権は当事国にあるという留保によって成立した。この留保には戦争放棄の条約趣旨を無効化するものという批判があったが、当時の国際法慣習に準拠しており、その結果、主要国を含む63カ国が批准する重要な条約となった。
現代中国は、条約は利用するものとしか考えず、国際法を遵守尊重しない。この認識は、中国が国際社会に登場した以降、アメリカの過剰な中国擁護政策によって形成されたものである。
阿片戦争以降、中国自身の国際法慣習軽視政策に付け込まれ、中国はイギリスをはじめ列強からの分割支配・侵略を受け続けた。1895年の日清戦争後、日本が中国の開港場で各種の製造業に従事しうる権利を得たが、アメリカを含む列国は最恵国条款によって同等の特権を得た。これから以後列国は、上海、天津、漢口などに紡績、造船、タバコ、マッチ製造などの工業を興し、この近代工業の影響で中国内の民族工業も興ったが、外国企業の経営力に及ぶものでは無かった。
1898年ハワイを侵略し、スペイン植民地侵略によってフィリピン・グアム・キューバ・プエルトリコを得たアメリカが、中国の市場性を知って中国に進出しようとした時には、華南はフランス、山東はドイツ、揚子江一帯はイギリス、長城以北はロシアの勢力範囲となっていて、それぞれ独占的な権益の確保に努めていたので、アメリカが入る余地は既に無かった。そこで1899年、米国務長官ジョン・ヘイは、これら列国の独占体制を打破して中国進出の道を見出そうと、中国の門戸開放、機会均等に関する覚書を各国に送って、列国の勢力範囲内における関税、港湾料、鉄道運賃などの平等を求め、各国とも原則的にこれを承認した。しかし現実はアメリカの希望とかけ離れていて、各国とも勢力範囲内における独占的権益を捨てるつもりは無かった。(13巻・中国史・P144)
日本以外の列国が得た中国利権は、侵略乃至武力を背景とした威圧により獲得したものであるが、後発のアメリカによる利権分割要求に対し列国が譲歩する理由は無かった。
1894年日清戦争は、朝鮮半島防衛のための明確な自衛戦争であったが、列強の干渉もあり戦勝で得た日本の中国利権は小さかった。その後日本が得た主要な中国利権は、日露戦争によって満州からロシアを排除した結果、ロシアの中国権益を譲渡されたものと、日英同盟により参戦を要請された第1次大戦によって、青島からドイツを排除した結果、ドイツの中国権益を譲渡されたものであって、列国のように中国侵略によって得た利権では無かった。
中国権益を得られなかったアメリカは、日本を侮り日本の中国利権を狙って中国を擁護し、日本に対する妨害排除を画策するようになる。
11、1900年義和団事件と英米の対日観
1896年露清密約は、ロシアによる満州の特殊権益と、対日軍事同盟を定めるもので、三国干渉後の清国側の対日警戒感とロシアによる李鴻章への賄賂によって締結された。その後清国の対日賠償借款供与の担保として、1898年ロシアは旅順・大連の租借権と南満州支線の鉄道敷設権を、イギリスも長江流域の鉄道敷設権と威海衛の租借権を得た。またこれに刺激されたドイツは、宣教師殺害を口実に膠洲湾を占領、1898年3月膠洲湾租借権を得たが、アメリカがこれらに干渉する事はなかった。
このように自ら列国による蚕食を招いた清国の惨状によって、ドイツ権益下の山東で生まれた義和団は扶清滅洋を唱え、列国に対する排外武力闘争を起こした。
義和団が北京を包囲し、列国公使団や居留民、中国人キリスト教徒が孤立籠城する中で、柴五郎中佐率いる日本兵が籠城を成功させた。ロンドン・タイムスの社説は「籠城中の外国人の中で、日本人ほど男らしく奮闘し、その任務を全うした国民はいない。日本兵の輝かしい武勇と戦術が、北京籠城を持ちこたえさせたのだ」と記し、柴中佐にはイギリス・イタリア・フランス・スペイン・オーストリア=ハンガリー、ベルギー・ロシアから勲章等が授与されている。アメリカからの叙勲の有無は不明である。
世界中の民族を知るイギリスは、日本人・日本兵を高く評価し、1902年に日英同盟を成立させた。一方、民族性よりも「中国4000年の歴史」とその市場性を評価するアメリカは、後に英雄の日本兵をアメリカ兵にアメリカウォッシュした映画を制作したように、日本人の評価には至らなかった。
12、第2次露清密約と日露戦争
義和団事件後の1900年第2次露清密約において、清国はさらに満州全土の権益をロシアに与えてしまっていた。この結果、ロシアの朝鮮南下を招いたのだが、1899年から列国に「中国の門戸開放、機会均等」を要請していたアメリカは、ロシアの満州占領に対して、日英と共に抗議したがロシア軍の撤退は履行されず、日本は自衛のための日露戦争が避けられなかった。
1904年日露戦争勃発後に露清密約の存在が慶親王により公表され、その後この密約は破棄され、清国の中立が宣言された。しかし清国が一方的に密約破棄を宣言しても、日露開戦時は自動的に清国も日本と交戦状態にあり、また密約破棄した清国が、ロシアに与えていた鉄道・港湾権益を剥奪出来たわけではないので、実質的な中立は成立していなかった。ロシアは清国の許諾を得て、満州内に強固な要塞・陣地・軍港を構築し、兵員や物資を供給して日本を攻撃した事は、清国が直接戦闘に参加していなかったとしても日本に大きな損害を与えていた事になる。
日本やアメリカには、「日本とロシアは、清国領土で他国同士が交戦し清国領土を奪い合った。」という論調がある。しかし、国家存亡の大戦争の結果日本はロシアに辛勝したが、日本が得た戦後賠償は、日本軍挺身隊が最深部まで進出した地点までの南満州のロシア権益を譲渡されたもので、露清密約で定められたレベルのロシア権益は含まれておらず、日本軍の満州占領域は清国に返還されている。11万余の犠牲者と多額の戦費を掛けたにも関わらず、アメリカの仲介で金銭賠償が得られぬまま日露は講和したが、この戦費の償還は、1986年まで掛かる莫大なものであった。
日露戦争後にアメリカは、中国利権を狙って画策するが、日英露はこれを拒否する。アメリカは「中国の門戸開放、機会均等」を主張しながら、ロシアによる満州侵略に対し具体的行動はせずに、戦勝後の日本に対し利権放棄を要求するのだが、被害が大き過ぎた日本は、すぐにはこれに応じる事が出来なかったということである。
13、日露戦争後の日本の大陸政策
元老伊藤や林薫外相ら穏健派は、日露戦争後の早期撤兵と外国商品への差別的取り扱いを廃止を主張し、それによって、満州に経済的関心を持つアメリカ、イギリスとの摩擦を少なくし、また清国側ともできるだけ協調関係を維持しながら、大陸政策を進める必要を唱えていた。1906年5月、元老と政府首脳の協議会で、満州経営について検討され、軍政の早期撤廃と各国との通商に満州を門戸開放する政策が確定した。
このような穏健路線で大陸政策が進められることになったものの、北京条約によりロシアから移譲された満州権益の清国側の承認を得たが、この権益に対する清国側の抵抗と妨害により紛糾した。その後、1908年9月の日本政府決定は「清国官民ノ悪寒ヲ挑発スルガ如キ措置ヲ避ケ、専ラ名ヲ去リ実ヲ取ルノ方法ニ依リ我勢力ヲ同国内ニ扶植」するといった多分に柔軟なものであり、また譲歩あるいは経営の「利益ヲ清国側ニ分与スル」という措置に出たり、あるいは満鉄併行線(法庫門鉄道)の施設についても、満鉄への損害補償を認める条件で反対しないという、協調主義に立つものであった。(15巻・日本外交史・P274)
14、日英同盟と日露協商
1906年10月、サンフランシスコ教育委員会による日本人学童差別に始まる日本人移民排斥に対し、1907年11月日本は移民自主規制を明らかにした「日米紳士協約」、1908年11月大平洋の現状維持と中国での機会均等主義の尊重をうたった高平・ルート協定で譲歩を続けたが、アメリカは第2次日英同盟で強化された軍事提携を弛緩させるために、1911年7月アメリカを日英同盟の対象国から除外する第3次同盟協約に改訂させた。
日露戦争後、当然日露関係は悪化したが、フランスの仲介により1907年7月第1次日露協商条約が成立し、日露間は協調関係へと移行した。アメリカは、日露の満州権益奪取を画策し満州緒鉄道国際化案を提議したが、日露は1910年7月、第2次日露協約を調印し、第1次で相互承認した権益の強化と共に、アメリカの策略に対抗するため、鉄道運営面での協力を定め、特殊権益の擁護防衛の為共同行動をとることとなった。
アメリカによる中国利権目的の干渉に対する懸念によって、日露協商が成立してアメリカに対抗出来た日本だが、1917年ロシア革命により協商体制は消滅し、1921年アメリカの画策により日英同盟は破棄されることになる。
15、1911年、辛亥革命後の列国による中国侵略
かねてロシアはモンゴルに勢力をもつダライ・ラマを懐柔して南下をはかり、イギリスはこれに対抗してチベットに勢力を扶植しつつあったが、1911年辛亥革命の混乱に乗じて外モンゴル、チベットが独立をはかると、ロシア、イギリス両国はこれを援助した。中国はこれに抗議して、その主権を保持する事は出来たけれども、外モンゴル、チベットの自治を許さなければならず、両地は事実上、それぞれロシア、イギリスの保護国に等しいものとなった。
ロシア、イギリスよりも露骨であったのは日本の侵略である。日本は日露戦争に勝って、ロシアが満州にもっていた権益を受け継いでから満州の植民地化に努め、さらに中国全般にわたって勢力の扶植をはかった。1914年に第1次大戦が起こると、日本はこれを中国進出の絶好の機会とみてただちにイギリス、フランスにくみしてドイツに宣戦を布告しその東アジアにある根拠地である青島を攻略し、1915年に入ると袁世凱にいわゆる21カ条の要求を提出した。この要求のなかには「必要な地方の警察は、日中合弁とし、または日本人を傭聘すること」、「福建省における鉄道、鉱山、港湾の設備に関し、日本資本家の優先権を認めること」などがあり、これらの要求が全部いれられれば中国は完全な日本の植民地になってしまうものであった。さすがに日本も要求を留保せざるをえなかったが、それでもドイツが山東にもっていた権益の継承、旅順・大連租借、満鉄経営権の99年延長、その他満州、モンゴルにおける多くの特権を獲得した。次いで段祺瑞が北方の政権を握ると、1916年10月から2年間に3億円(2.4億円)をこす巨額の借款を段祺瑞に供与して、その勢力強化を助け、段祺瑞を完全に日本の傀儡として中国の政治と経済とに関与した。日本はまた軍事的支配をもはかり、ロシア革命が起こってシベリヤが混乱すると、中国と共同して北方からの脅威を除く事を名目に、日中陸海軍共同防衛軍事協定を結んで、一部の中国軍を日本の支配下に収めた。
1915年21カ条問題が解決すると、アメリカが中国に送り込んだ政府顧問・グッドノウは帝政賛美論を公表して中国世論を煽り、翌1916年袁世凱は中華帝国皇帝に即位した。しかし、1915年末の雲南独立、翌1月から貴州・3月広西が独立、北京の各国外交団も袁世凱の動乱責任を追及したため、袁世凱は帝政を取り消した。それでも動乱は収まらず、広東・浙江・陜西・四川・湖南が相次いで独立するうち、6月、袁世凱は死没した。その後も、北京政府支配の軍閥闘争、広州の孫文ら革命派軍閥抗争など混乱が続いた。(13巻・中国史・P148)
上記は、ブリタニカにおける日本人中国史学者の市古宙三氏の執筆であるが、日本人執筆項目の特徴は、国際法に基づく中立的な記述というより、アメリカ・中国などによる日本帝国主義批判の立場で書かれている場合が多い。
イギリスによるチベット干渉は、単にロシアのチベット干渉に対抗する限度のものであり、保護国化はしていなかった。これは、1948年の中共によるチベット侵略が可能だった事からも明らかである。
一方、1911年モンゴル独立宣言後の1913年に、モンゴル軍が内モンゴル解放目的に進攻し、中国軍を排除して内モンゴル解放が叶うかに見えたが、ロシアによる介入で独立は叶わなかった。1915年ロシアによる干渉・キャフタ協定により、内モンゴルと外モンゴルの自治が承認され、外モンゴルはロシアのちソ連の従属国となった。その後のモンゴル民族に対する弾圧・粛正と比較した時、英露よりも「日本の露骨な侵略」とまでは言えない筈だが、日本の行動に悉く干渉し続けたアメリカは、英露に対しては何の干渉もしなかった。
上記解説の「日本の露骨な侵略」について、「日露戦争に勝って、ロシアが満州にもっていた権益を受け継いでから」までは単なる事実だが、続いて「満州の植民地化に努めさらに中国全般にわたって勢力の扶植をはかった。」と中国主張をそのまま書いている。しかし、日本がロシアから割譲された南満州の鉄道と附属地以外の満州を植民地化していた事実はない。それは、張軍閥の満州支配や1929年の中ソ紛争が起きている事からも、日本が権益化していなかった事は明らかである。また、南満州の鉄道と附属地の権益警備のために駐屯していた日本軍は、周辺地域の治安維持も行っていたため、混乱する中国本土から年間100万人程度の漢民族が流入してきたといわれ、特に日本領域の附属地には中国政府役人まで移住してきたように、日本の植民地というより、漢民族の植民地になっていた。また日本が、安全保障上華北にも勢力の扶植を図ったのは事実だが、それは侵略とまでは言えないものであり、また中国全般にわたって勢力の扶植を図るのは不可能であった。
1914年の第1次大戦では、単に勝ち馬に乗って英仏に与して青島を侵略したかのようにいわれているが、日英同盟によって辛うじて日露戦争に勝利した日本が、第1次大戦においてイギリスの要請を受けて、アメリカ西海岸やインド洋、地中海にまで護衛哨戒艦隊を派遣し、イギリスの青島要塞攻略戦に共同参戦するのは、同盟国として当然の義務であった。
また、1915年の21カ条要求についても、「中国を日本の植民地にするような要求があった」、と袁世凱によるプロパガンダをそのまま記述している。しかし、露清密約や他の列国と中国間の条約・協定と比較して、日本の要求は突出したものではなかったし、その要求は留保している以上、外交交渉の一部であって日本批判には当たらない。
ドイツの山東権益継承というが、当初の約束通り直接中国からの賠償を得る事なしに権益を中国に返還している。旅順・大連租借は、日露戦争の結果得た正当な権益。満鉄経営権の99年延長は、ロシア権益残余期間を割譲されただけのため延長を要した結果である。、その他満州、内モンゴルにおける多くの特権を獲得したというが、中国がロシアに与えていた権益を回収したかったなら、日本と共にロシアと戦い直接回収すべきだったもので、日本に戦わせて、ロシアの植民地化していた全満州・内モンゴルを奪還出来た中国として、日本のロシア権益継承を非難するのは不当である。
袁世凱後の段祺瑞政権の勢力強化を助けた事を「完全に日本の傀儡として中国の政治と経済とに関与した。」と非難するが、革命の混乱が続く中国で、袁世凱の後継・段祺瑞政権を支援する事は中国の安定に貢献する事であって、アメリカがやった袁世凱を皇帝にし中国を大混乱させて権益を得ようとするよりは、全く正当であった。日本による借款を中国傀儡化と批判するのに、同時期の米・英・仏による借款について、傀儡化非難しないのは不当である。段祺瑞の中国北京政府を支援した日本を非難するのは、段祺瑞政権を倒したかった中国共産党と、袁世凱の要望通りブライアンノートで日本を非難し、皇帝にして利権を得ようとした袁世凱に死なれ、後継の段祺瑞を取り入れられなかったアメリカによる反日工作である。
日中陸海軍共同防衛軍事協定についても、北方からの脅威は、ドイツだけでなくソ連軍の侵入、コミンテルンの浸透があり、日本、それ以上に反共中国国民党政府にとっての脅威であり、日中のみならず世界の反共国家の国益であった。日中軍事協定非難は、中国共産党と、共産党に危機感の無かったアメリカが「中国軍を日本の支配下に収めた。」と非難していただけである。
中国政権の安定を列国に要求していたアメリカによる袁世凱皇帝工作は、中国各地の軍閥の独立を招く大動乱となった。また、チベット、モンゴルも独立宣言し、中国北京政府の権威は全く失われてしまった。アメリカは中国に政府顧問を送り込み、袁世凱の意向を受けて反日政策を採り、中国を大混乱させて、どのような利権を得たのだろうか。
16、1915年、ブライアン国務長官による不承認主義
日本による山東省・青島攻略直後に公表された1915年対華21カ条要求・日華条約について、当初 1915/3/13の第一次ブライアン・ノートでは、アメリカはイギリス・フランス・ロシアと同様に、「東アジアにおいて日本の特殊権益が認められる」という態度を示していた。しかし、イギリス外相が日本に対して「日本の権益不承認だったドイツに中国が接近し、ドイツが日中衝突を画策している。」旨警告した事を知ると、日華条約成立後の1915/5/11の第2次ブライアン・ノートでは「アメリカ政府は日中両国政府間にすでに結ばれ、もしくは結ばれることあるべきいかなる合意、もしくは約束について、中国におけるアメリカおよびアメリカ市民の条約上の権利、中華民国の政治的もしくは領土的保全、門戸開放主義として一般に知られた中国に関する国際的政策を害するものは、これを承認することが出来ない。」と、日本の権益に対して不承認の立場に変った(ブライアン国務長官から珍田大使宛文書)。
しかし不承認公表当時、アメリカは未だ第1次大戦に参戦(1917年)しておらず、日露戦争の当事国でもなかったので、日露戦争・第1次大戦の戦後処理に関わる日華条約について干渉する権原は無かった。
このアメリカの不承認転向は、国際法上合法的に得た日本の中国権益について、中国を侵略して権益を得ていたドイツが不承認を表明すると、三国干渉の再来を狙った中国がドイツに接近し、ドイツも中国の反日を煽り、日中戦争に誘導しさらなる利権を得ようとしている事をアメリカが知ったためである。
これ以降も、アメリカの承認を得た中国は国際法を尊重・遵守せず、西原借款の返済を拒否し、国家がテロ組織を抱えて、公然と日本居留民にテロ行為を仕掛けていたが、アメリカ・ドイツはこれを支援し日本と敵対し続けた。
イギリスの警告は、第2次上海事変において中国による日本侵略戦争をドイツが軍事支援したことで現実となった。この時、アメリカは中国の日本侵略を、日本による中国侵略にすり替えて、隔離宣言を公表して日本を戦争に引きずり込んだ。
清国は1900年第2次露清密約でロシアと対日軍事同盟を締結しながら1905年「満洲ニ關スル条約」で、1905年ポーツマス条約によってロシアから日本に譲渡された満州利権を承認したほか付随する利権も認めた。しかし、国家存亡を懸けた大戦争を行なって日本が得た満州利権は、ロシアが得ていた満州利権の一部に過ぎず、労せずして満州全土が返還された清国にとっては有利なものであった。また露清密約によって満州全土でロシア軍の自由行動を認めていた結果、日本軍に大きな損害を与えたのであるから、アメリカ・ドイツによる日本の中国権益不承認は不当であった。
アメリカとドイツは、国際正義の名の下に、中国利権獲得を目的にして1915年日華条約の効力を承認しなかったのであるが、この結果中華民国は、アメリカ・ドイツを利用して、日華条約の内容を歪曲誇張して内外にプロパガンダしただけでなく、日華条約成立直後に「日本人に土地を貸した者は死刑」と定めて、日華条約の履行を妨害した。
「日本の膨張意図を露骨にみせた日華条約は、中国側の反日感情を強く刺激するもの」とされている。しかし、「以夷制夷」によって利用したつもりのロシアに逆につけ込まれて半植民地化した満州全土を、日本を利用して奪還出来た中華民国による日本批判は、アメリカ・ドイツを利用したプロパガンダに過ぎなかった。
17、アメリカの反日と日本の譲歩
日米関係は、1913年5月のカリフォルニアにおける日本移民差別の土地法案の成立とそれに対する日本世論の反発、そして21ヵ条要求に対するアメリカ側の対日不信感の増大と中国利権への執着により、ウィルソン政権下においても友好を欠いていた。そこで、第1次大戦で日米が共同交戦国となったのを機会に、友好阻害の原因について協定をはかろうとする機運が両国で高まった。
アメリカ側にも、満州での日本の勢力範囲について明確に承認すべしとの意見があったが、ウィルソンの反対のため、1917年11月、日本の譲歩により満蒙の権益が「経済的」権益に限るのか「政治的」権益を認めるのかについては曖昧さを残した石井・ランシング協定が成立した。しかし、1919年8月、ランシング国務長官は、日本の政治的特殊権益を否定した。
中国の主権を侵害するという名目で、1913年、四国借款団から脱退していたアメリカは、中国利権目的と日本の特殊権益干渉のために1918年中国新借款を提唱し、1920年日米英仏の中国新四国借款団が発足した。
日本は満蒙を借款団の行動対象地域から除外するよう強く要請して、米英と対立し、日本を除く三国借款団組織の動きさえみられていた。1919年5月から翌年5月にかけて折衝が続けられたが、結局日本側は満蒙除外の留保を撤回して合意することとなり、大陸政策の後退を明らかにした。
アメリカの極東政策に対抗して日本と協商関係を結んでいた帝政ロシアは消滅し、パリ講和会議におけるアメリカの画策により、中国ナショナリズムが反英から反日への転換、日英同盟の形骸化によって、日本の大陸政策は修正を余儀なくされ、1921年5月「満蒙に対する政策」では、満蒙における既得権益については実行面で慎重な態度が必要な事、四国借款団との関係である程度制限を受けるのもやむをえない事、満蒙の経済開発面で独占排他の方向を排して列国との協調を重視し、さらに同地方の中国人民の安寧、福祉への考慮の必要な事を定めた。(15巻・日本外交史・P277)
国際情勢の変化により、日本の大陸政策が後退したとされているが、13項で述べている通り、日露戦争直後から、日本は協調政策を採っており、これを再確認しただけである。しかし、このような譲歩を続けても、日本の中国権益奪取に執着するアメリカには、全く効果が無かった。
18、日本の反共シベリヤ出兵とアメリカの妨害
1917年、ロシア革命により共産国・ソ連が誕生し、革命派の赤軍と反革命派の白軍との間でロシア内戦が開始された。赤軍が勢力を拡大する中で、ロシア極東のウラジオにおいて亡命者と俘虜で組織された旧ロシア軍のチェコスロバキア軍団と赤軍との武力衝突にが起き、アメリカが「チェコ軍捕囚の救出」を大義名分に、1918年8月日本に対し共同出兵を提案した。アメリカの反日に配慮して出兵を控えていた日本も出兵方針を固め、その後、仏、伊、支、ポーランド、セルビア、ルーマニアも少数兵力を派遣して、共同武力干渉が展開された。
日米の進攻で「チェコ軍の危機」はほどなく解消するが、シベリヤ鉄道の保護名目で干渉軍の駐留は続き、また西シベリヤのオムスクで成立した反共のコルチャク政権への英仏による支援が試みられた。この間、日本は一貫して武力干渉のリーダーシップをとり、あるいは対米合意を越えた73000名という軍隊を派遣、また日本独自でコサックのセミョーノフや帝政派のホルバートといった人物を中心とする政権擁立工作を進め、チェコ軍救出だけを出兵目的にしたアメリカは、日本との対立の溝を深めていった。(15巻・日本外交史・P277)
当時アメリカは、ロシア革命をアメリカ独立と同視し赤軍に同情的であったが、イギリスなどは共産主義を危険視し、特に日本は満州の安全保障上、革命勢力の拡大を認める事は出来なかった。
日本の識者の多くは、日本の領土拡張主義を警戒するアメリカの側に立って、日本のシベリヤ出兵を非難する論調が多い。しかし、侵略的占領によって領土を拡張してきた列国と違い、日本は国際法を遵守しており、侵略警戒はアメリカによるプロパガンダに過ぎない。アメリカによるシベリヤ出兵は、欧州に対する発言力維持のためにイギリスの出兵要請に応じただけで、日本軍の兵力やウラジオより先に進軍しないという日米協定も、シベリヤ武力干渉の成功より日本を牽制する目的で定められたものである。日本軍の兵力は、出兵干渉軍全体の戦力を高め、日本軍が沿海州や満州を鉄道沿線を進攻し、バイカル湖西部のイルクーツクにまで占領地を拡大したのは、西シベリヤを戦区としていた仏軍・チェコ軍などに対する支援であり、その兵力や作戦規模が小さかったために干渉が成功せず、シベリヤ出兵が大きな損害を招いたのは、アメリカの反日が主因である。
また無政府状態のシベリヤの治安を維持しようとしていたのは、干渉軍と反革命派の白軍である。ロシア市民の反日感情を主張する説があるが、尼港事件の状況をみれば判る通り、赤軍やパルチザンはロシア市民の有産階級や反革命派に対し虐殺掠奪しており、日本や干渉軍を敵視していたのは革命派の市民であって、市民の反日感情は後付けの主張である。
陸戦法規違反のパルチザンや、これを支援し戦闘に参加する住民は不法戦闘員であり、交戦資格が無い。パルチザンを一般市民と同列に扱い、日本軍を批判する記録があるが、義和団事件における日本軍の紀律を考えると、犯罪率は低かったと考えられる。また日本軍の任務がソ連・共産勢力に対する干渉であったのであれば市民庇護も含まれるが、チェコ軍救出目的だけのアメリカ軍にとって、市民庇護は任務外であった。
事実、1920年から2次にわたってシベリヤに取り残されたポーランド孤児800名を救出したのは、干渉国の中で日本軍だけであった。
反革命派の白軍政権を支援した事について、領土的野心から傀儡政権を擁立しようとしたという批判がある。しかしこれは、ソ連とこれに同調するアメリカの主張であって、共産主義というのは、人権や平等、平和を訴えて支持を得るが、権力を握れば自国民の虐殺や他国への侵略を始める。
干渉により、シベリヤに反革命派政権が擁立できれば、共産国ソ連の勢力は不安定になり、将来の虐殺や侵略を防げる事になる。もしアメリカが共産主義の危険性に気付いていれば、シベリヤの共産化が防がれ、恐怖支配のソ連政権や世界共産革命のコミンテルン活動も制限を受けることになり、中国などアジアの共産化も防げた可能性がある。
19、日本のシベリヤ単独出兵。
1918年11月ドイツ革命により第1次大戦は停戦し、1919年秋シベリヤ共同干渉から英仏が離脱した。次いで翌1920年1月アメリカがシベリヤ撤兵を一方的に通告し、こうしてこれ以降日本の単独駐兵で反共干渉が続けられる事になった。その結果、欧米から日本の領土的野心を疑われたという事になっているが、米英からは「日本は圧力を掛ければ引く国」と思われており、その軽視が非難の原因であって、事実日本がシベリヤ出兵で広域を占領していても、領土的野心はなく領土要求は行なわれなかった。
その後、国際的孤立と巨額の軍事費負担から日本内部から撤兵論も強くなったが、1920年3月の尼港事件によって日本世論は激昂して出兵継続となり、1925年の日ソ国交成立まで北樺太を保障占領した。しかし、1920年1月コルチャク政権の崩壊で赤軍がバイカル湖地点まで進出してくると、日本軍は直接戦闘を避け、ザバイカル・アムール領収から撤退し、占領地域を縮小してウラジオストクと沿海州南部を重点に占領を続け、名誉ある撤兵を企図した。
ザバイカルからの日本軍撤退後、成立していたソ連傀儡の極東共和国との間で講和が成立しないまま、1922年10月『無名の帥」と言われたシベリヤ出兵は、多大の人命と巨額の戦費を費やしただけで終了した。(15巻・日本外交史・P277)
20、パリ講和会議と大国日本
1919年1月パリ講和会議は、敗戦国ドイツ、革命と内戦のロシアを除いて開かれたが、日本は英・米・仏・伊と共に10人委員会のメンバーとなり、大国としての国際的地位を確立した。同会議で日本代表が積極的に発言した事項は、赤道以北にあるドイツ領南洋群島の領有権、山東省のドイツ権益の継承、人種平等問題であった。
第1の問題については、これをC式委任統治地域として、国際連盟から、統治権を委任されるという形で要求を通した。しかし第2の問題については、すでに英・仏・伊の了解を得ていたにも関わらず、中国の抵抗と、アメリカ代表の反対にあい、会議の最終段階で紛糾し、結局、膠州湾の租借権を日本から直接中国に還付するという条件で、日本は当初の目標を貫いた。しかしこのような山東問題の処理は、5・4運動のように、中国の反日感情の高揚をもたらすことになった。第3の人種平等条項を連盟規約中に挿入する問題については、イギリス自治領側の移民問題と、アメリカ・ウィルソンの強い反対で、成果は上げられなかった。(15巻・日本外交史・P276)
ドイツ租借地であった青島の要塞攻略戦はイギリスと共同で行なわれたもので、日本がドイツ権益を奪ったという単純なものではなかった。しかし、中国に領土権益を持たなかったアメリカは、国際法並びに英仏伊が認めていた山東省のドイツ権益・膠州湾と隣接する租借地の日本継承に反対した。青島攻略戦時、アメリカ・中国は中立国として参戦していなかったため、青島占領は、日本軍により行なわれたものであり、軍事行動は中独間条約の租借地譲渡禁止規定に優先し、その処分は講和条約において決定されるべき事項である。従って、青島占領、停戦に関与していないアメリカや中国に、干渉や直接回収を要求する権原はない。
また、中国は、アメリカと同じ1917年に連合国側で参戦しているが、青島攻略戦時は中立国であった。そのため、日英による交戦区外の軍事行動を、中立侵犯として非難する主張がある。しかし、アメリカは、ドイツによる侵略戦争に対する中立保持は否定していた。また、それ以上に問題なのは、兵員・物資輸送などドイツに協力していた中国の中立違反である。そもそも中国がドイツに租借地を与えて要塞化を許していなければ不要だった戦争であり、租借地直接回収を望むなら、中国自ら参戦すべきであった。
日本に戦争させて日露戦争でロシア権益・第1次大戦でドイツ権益を奪還した中国は、アメリカによる国際法無視の1915年ブライアン不承認以降、アメリカを利用すれば日本権益も奪還出来ると気付いた。その結果、第1次大戦で連合国側に加わっただけで戦争には参加しなかった中国は、1919年のパリ講和会議で戦勝国としての利権を得ただけでは満足しなかった。アメリカが日本の権益を奪うため煽動したので「中国代表は山東省における旧ドイツ権益の直接回収を主張し、一切の不平等条約の撤廃を望んだ。租借地や租界の返還、外国駐屯軍の撤退、領事裁判権の取消、関税権の自主などがその要望であった。しかし、講和会議は中国側の提案を退けた。」(15巻・中国史・P149) そして、アメリカは中国を使嗾して、ヴェルサイユ条約の調印を拒絶させ、中国の反日を煽動した。
この時、北京大学の教授であり中国共産党の創立メンバーであった李大?は次のように述べた。「我々の夢は破れた。パリ講和会議の決定は、弱小民族の自由と権利を強盗国家の犠牲に供し平和会議としての実質を失った。我々は従来、夷を以て夷を制すを信条としたが、この言葉は中国民族の卑屈さを表している。日本が青島に侵入した時、ベルギーのように抵抗しなかった我々には、今日ほかから援助を求める資格がない。自主性を喪失した恥辱は、土地山河を奪われた恥辱よりも一層耐えがたい。」・・・この主張は、中華民族の特質がよく現れている。偉大な中華民族として周辺弱小民族の自由と権利を犠牲にする事は構わないが、中華の自由と権利が奪われた時には「平和会議の実質を失った」と、国際会議を批判する。夷を以て夷を制す信条を「中国民族の卑屈さを表している。」と気付いたまではいいが、アメリカを利用して日本の権益を奪還を謀り、他の列国の権益まで一挙に回収出来ると思い込み、望みが全て叶わなければ無血で得た第1次大戦の戦勝利権を忘れ講和会議を非難するのである。
「日本が青島に侵入した時、ベルギーのように抵抗しなかった我々」というのは、大戦中にドイツが領内通過を求めた時、中立国ベルギーが拒否した事をいうのである。しかし、青島攻略戦は日本とイギリスの共同作戦であり、ドイツに権益を与え要塞構築を許し、戦時には間接的に軍事協力していた中国には、ベルギーのように中立侵犯を主張する資格がない。また、日本の青島侵入後に中国は連合国として参戦し、青島攻略を含む戦勝に参加したと扱われ、ドイツから無血で戦後賠償を得ているので、中立国ベルギーとは立場が異なる。中国がドイツの山東省権益の直接回収を望むのなら、日英と共に青島攻略戦に参戦しておけば良かったものを、ドイツを間接支援していたのはドイツを利用しようとしていたためであり。中国の要求は過大であった。
そして「ほかから援助を求める資格がない。」と言いながら、これ以降もドイツとアメリカの援助を受けて日本を攻撃し続けたのだから、反省にはならない。
1919年の5・4運動は、反日・反帝国主義運動と言われているが、以夷制夷で日本を含む列強を利用し続ける中国自体が帝国主義であり、ナショナリズムの大衆化のきっかけになったといっても、1943年に河南の中国軍30万人を日本軍と協力して壊滅させたのは中国農民だったように、日本軍より中国軍を敵視していた中国民衆に真のナショナリズムは存在せず、5・4運動はヴェルサイユ講和会議に対する不満を煽った中国共産主義者らによる反政府運動でしかなかった。
21、1922年、ワシントン体制
1921年12月の4カ国条約は、日米英仏が太平洋方面にもつ属地や領土・権益の相互尊重、および、平和的処理について定めるという名目だが、事実は国際連盟の常任理事国として国際的地位を高めつつある日本の国力を削ぐために、アメリカが日英同盟の破棄を目的に成立させたものである。
ドイツを警戒していたイギリスとしては、第1次大戦における日本の協力に対する評価は高かったが、超大国アメリカの圧力には抗しきれなかった。
1922年2月の海軍軍縮条約も、米英仏伊日の国際条約に名を借りた、押せば引く日本に対するアメリカの嫌がらせである。建艦競争抑制のためというが、第1次大戦でイギリスの要請を受けた日本は、大平洋、インド洋、地中海など、広範囲の哨戒・護衛を依頼され、艦艇を派遣している。直接的利益が無くても派遣要請に応じてくれる日本海軍は、イギリスにとって有り難い存在であったので、イギリスに日本海軍の軍縮を求めなければならない理由は無かった。
これに関して、日本の学者は「第1次大戦においてイギリスは、極東で日本が膨張政策を採るとの懸念を持ち、日本海軍に対する参戦要請を取消し日本海軍の行動を海上貿易ルートの保護に限定するよう申し入れ、参戦の場合にも戦闘区域を限定されたいと申し入れてきた。」と解説している。(15巻・日本外交史・P275) しかし、海軍の膨張政策というが、艦船には港湾など陸上の補給施設が不可欠であり、陸軍の膨張が平行して行なわれなければ、実効性は無い。従って、極東における日本の海軍力に対するイギリスの懸念は、生じないか若しくは小さなもので、日本を警戒する理由は無かった。大戦当初から、フランス・ロシアは日英同盟を拡大し仏・露を加えた4国同盟を望み、ヨーロッパ戦線への軍事力支援を何度も要請されていた日本には膨張意思はなく、参戦のメリットは少ないのにイギリスの要請を受け容れて地中海にまで艦隊を派遣したが、戦線への支援は東部戦線のロシア軍に小銃弾薬を供給し援助するだけに止めている。
軍縮条約が成立したのちも、条約加盟国間で戦争が始まれば、国家予算を圧迫するなどとはいっておられず、建艦するしかない以上、平時における保有制限はアメリカの嫌がらせでしかない。事実、1932年の上海事変後に軍縮条約破棄を示唆したのはアメリカであった。
第1次大戦においてアメリカ西海岸を哨戒した日本海軍を、本来アメリカが敵視する必要が無く、軍縮は日本の海軍力を低下させたというアメリカ国内向け宣伝に過ぎなかったのだが、日本はアメリカに譲歩して想定外の軍縮に応じた。
アメリカにとって日本人というのは、戦争には強いが、白人には逆らえない極東の弱小民族、国際会議に一人前扱いして呼び出せば常に応じて、日本に不利な要求にも応じる得体の知れない有色人種でしかなかった。
1922年2月の9カ国条約は、当初、アメリカ、ベルギー、イギリス、中国、フランス、イタリア、日本、オランダ、ポルトガルで発効したものだが、後に、ノルウェー、ボリビア、スウェーデン、デンマーク、メキシコが加入した。ドイツは署名はしたが、ドイツ国会は批准しなかった。(ウィリアム・E・ボラー上院議員宛・スチムソン書簡・1932/3/23)
第2次ブライアン・ノート以降、アメリカと協調して反日政策を採っていたドイツは、9カ国条約が日本の中国権益を剥奪する目的と知り署名したが、批准はしなかった。またソ連も、自国の中国権益に干渉される事を嫌って批准しなかった。
この条約は、1899年の列国に対するアメリカによる中国進出要求を国際条約化したもので、名目上は、中国の領土的保全、各国の中国における商工業活動の機会均等主義、中国に安定政権を確立させるための機会の保障、中国の混乱した情勢を利用して特権の獲得を図らない事、といった原則を確認した条約であったが、実質はアメリカによる中国市場権益確保と、第2次ブライアンノート以来の日本権益剥奪を目的とした条約であった。その結果、加盟国の国際法上の権利を承認するという建前の本質は、日本の権益を規制するもので、アメリカは日本に対して国際法遵守を要求しても、日中間条約の有効性を認めず、中国による条約・国際法違反には、アメリカが不利にならない限り干渉しなかった。9カ国条約成立以降、アメリカに煽動された中国による反日テロが頻発し、特に満州では日本の権益が攻撃対象になった。
欧州諸国は第1次大戦にアメリカの支援で戦勝しているため、中国利権保有国を含め1899年以来のアメリカの要求を認めた。しかし、アメリカの権益確保のために日本を牽制するこの条約は、中国の国際法・条約無視を事実上承認するもので、満州事変・日中戦争の原因となった。
、1922年2月山東権益還付の山東懸案解決に関する条約、1923年満蒙の特殊権益を認める石井・ランシング協定の廃棄など、日本はアメリカに譲歩し続けたが、日本を完全排除したいアメリカに対しては何の効果も無かった。ワシントン会議の日本全権は、加藤友三郎と幣原喜重郎であった。米国協調を名目に事実上日本の権益を易々と放棄した幣原が、結局戦争を招いたのである。憲法9条も幣原の忖度説があるが、アメリカに媚びて対米戦争を放棄しても、国連加盟国と同等の権利を放棄していては、結局日本を戦争に追いやる事になる。
平和のためなら、日本の国益が損なわれても構わないという彼の思想は、中国にアメリカを利用して日本を制する「以美国制日本」を気付かせ、日本人に対する中国のテロ攻撃により死者が出ても抗議もしない彼の対応が、中国をより過激な反日に転向させる契機となった。
また9カ国条約の会議において、モンゴル・満洲・チベット・ウイグル・トルキスタンの民族自決権を否定し、中国による侵略を認めていることになるが、これはアメリカが中国を懐柔するためであって、ソ連によるモンゴル保護国化やイギリスによるチベット干渉を放置しながら、日本の権益縮小のみが既成事実となっていった。そして第2次大戦後、これらの従属領域では、中国による虐殺によって戦争より多くの人命が失われた。
<参考>
9カ国条約http://www.chukai.ne.jp/~masago/kyuukako.html
中国に関する九カ国条約
第1条、支那国以外の締約国は左の通り約定す
(1)、支那の主権、独立並びにその領土的及び行政的保全を尊重すること
(2)、支那が自ら有力かつ安固なる政府を確立維持する為、最も完全にしてかつ最も障碍なき機会をこれに供与すること
(3)、支那の領土を通じて一切の国民の商業及び工業に対する機会均等主義を有効に樹立維持する為、各々尽力すること
(4)、友好国の臣民又は人民の権利を滅殺すべき特別の権利又は特権を求むる為、支那における情勢を利用することを、及び右友好国の安寧に害ある行動を是認することを差し控ふること
第2条、締約国は、第一条に記載する原則に違背し又はこれを害すべき如何なる条約、協定、取極又は了解をも、相互の間に又は各々別に若しくは協同して一国又は数国との間に締結せざるべきことを約定す
第3条、一切の国民の商業及び工業に対し、支那に於ける門戸開放又は機会均等の主義を一層有効に適用するの目的を以て、支那国以外の締約国は、左を要求せざるべく又各自国民の左を要求することを支持せざるべきことを約定す
(a)、支那の何れかの特定地域に於て商業上又は経済上の発展に関し、自己の利益の為、一般的優越権利を設定するに至ることあるべき取極
(b)、支那に於て適法なる商業若しくは工業を営むの権利又は公共企業をその種類の如何を問はず支那国政府若しくは地方官憲と共同経営するの権利を他国の国民より奪うが如き独占権又は優先権或いはその範囲、期間又は地理的限界の関係上機会均等主義の実際的適用を無効に帰せしむるものと認めらるるが如き独占権又は優先権
本条の前記想定は、特定の商業上、工業上、若しくは金融業上の企業の経営又は発明及び研究の奨励に必要なるべき財産又は権利の取得を禁ずるものと解釈すべからざるものとす
支那国は、本条約の当事国たると否とを問はず、一切の外国の政府及び国民よりの経済上の権利及び特権に関する出願を処理するに付き、本条の前記規定に記載する主義に遵由すべきことを約す
第4条、締約国は、各自国民相互間の協定にして支那領土の特定地方に於て勢力範囲を創設せむとし又は相互間の独占的機会を享有することを定めむとするものを支持せざることを約定す
第5条、支那国は、支那に於ける全鉄道を通じ如何なる種類の不公平なる差別をも行ひ又は許容せざるべきことを約定す
殊に、旅客の国籍、その出発国若しくは到達国、貨物の原産地若しくは所有者、その積み出し国若しくは仕向国、又は前記の旅客若しくは貨物が、支那鉄道により輸送される前若しくは後に於て、これを運搬する船舶その他の輸送機関の国籍若しくは所有者の如何により料金又は便宜に付き直接間接に何等の差別を設けざるべし
支那国以外の締約国は、前記鉄道中自国又は自国民が特許条件、特殊協定その他に基づき管理を為し得る地位に在るものに関し、前項と同趣旨の義務を負担すべし
第6条、支那国以外の締約国は、支那国の参加せざる戦争に於て支那国の中立国としての権利を完全に尊重することを約定し、支那国は中立国たる場合に中立の義務を遵守することを声明す
第7条、締約国は、その何れかの一国が本条約の規定の適用問題を包含しかつ右適用問題の討議を為すを望ましいと認むる事態発生したるときは、何時にても関係締約国間に十分にしてかつ隔意なき交渉を為すべきことを約定す
第8条、本条約に署名せざる諸国にして、署名国の承認したる政府を有しかつ支那国と条約関係を有するものは、本条約に加入すべきことを招聘せらるべし
右目的の為、合衆国政府は、非署名国に必要なる通牒を為しかつその受領したる回答を締約国に通告すべし
別国の加盟は合衆国政府がその通告を受領したる時より効力を生ずべし
第9条、本条約は、締約国により各自の憲法上の手続きに従い批准せらるべくかつ批准書全部の寄託の日より実施せらるべし。右の寄託は、成るべく速やかにワシントンに於てこれを行ふべし
合衆国政府は、批准書寄託の調書の認証謄本を他の締約国に送付すべし
本条約は、フランス語及びイギリス語の本文を以て正本とし、合衆国政府の記録に寄託保存せらるべく、その認証謄本は同政府より他の各締約国にこれを送付すべし
右証拠として前記各全権委員は本条約に署名す
1922年2月6日ワシントン市に於てこれを作成す
[四カ国条約] 日・米・英・仏で結ばれ、米国の意図によって日英同盟が廃棄された。米国大統領ハーディングは「日英同盟終了は最大の満悦」と述べた。日英同盟に代わるはずの四カ国条約なのだが、イギリスから、「我々はウィスキーを捨てて水を受け取った」という声があがるほど日英にとって無意味なものであった。
日本全権は、海軍大臣・加藤友三郎、駐米大使・幣原喜重郎らであった。
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慰安婦問題が性暴力事件では無い事実を確認している筈の外務省が、性暴力事件と誤認する学者・政治家・世論を放置しながら、日本政府が何を抗議しようというのか?
慰安婦問題の主罪は婦女誘拐罪であるが、朝鮮人売春婦もオランダ人売春婦も婦女誘拐罪は立件されていない。同時に、どの慰安所においても、慰安所利用を性暴力事件として起訴された例は無い。性暴力事件が存在しなかったのに、「性暴力の法的責任」というのは完全な冤罪で、冤罪に謝罪賠償する義務は無い。
オランダ人慰安婦の場合、売春廃業届不受理を処罰したいオランダ軍が、性行為には合意があったので慰安所利用者を強姦罪で起訴できない代わりに、本来の戦争犯罪であった強制売淫目的婦女誘拐罪の強制売淫という語句を援用して、慰安所関係者を処刑した準捏造事件である。
http://www.wara2ch.com/archives/8904217.html
「戦犯裁判「バタビア(ジャカルタの旧名)裁判25号事件」記録があり、そこには太平洋戦争当時の日本海軍所属インドネシア特別警察隊隊長が戦後に日本法務省関係者に対し「200人程度の婦女を慰安婦として奥山部隊の命令によりバリ島に連れて行った」と証言した内容が出てくる。同じくオランダが進めた「ポンティアナック裁判13号事件」の判決文には、「多数の婦女が乱暴な手段で脅され強要された」と記されている。 」
バタビア25号法廷は、海軍特警隊(陸軍憲兵と同義)の兵曹長が部下隊員と共に、バリ人・チナ人テロリストを逮捕尋問した事件であり、別にチナ婦人に売淫を強要したとされた事件も含まれているが、組織的犯行とされたのに、起訴は兵曹長一人だけなので上官や部下を庇った起訴だったのだろう。
死刑適用も有り得た売淫強制にしては、求刑15年が12年に減刑されているので、主罪はテロリストの逮捕虐待と思われる。
「200人の婦女連行」話は、結局起訴されていないので、事実では無かったと判断されるべき。
ポンティアナク13号法廷は、反日陰謀団の大量逮捕尋問処刑事件が主罪で、現地民婦女20名の売淫強要でも、誘拐罪の起訴は無いので、売淫強要は疑わしい。慰安婦は本人承諾を要したのが陸海軍の共通施策であったが、無承諾で売淫強要したのなら、誘拐罪・強姦罪も有り得た筈だが、誰も起訴されていない。
インドネシアでは、スマラン事件を含めて誘拐罪・・・強制連行の起訴は無い、
ましてや、朝鮮人慰安婦は、強制連行された者が居なかったので、売春婦雇用主の朝鮮人は一人も起訴されず、慰安所利用の日本兵も性暴力犯として一人も起訴されなかった。
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村山談話は、当時敗訴続きの朝鮮人売春婦賠償事件の代わりに、村山総理と彼に近い弁護士等が共謀して女性基金を創設し、日本国民から浄財を集める動機付けの目的で、朝鮮併合をアジア侵略の植民地支配として誤認させるために、東京裁判判決にない「アジア諸国侵略と植民地支配の謝罪反省談話」を公表したのである。この事実は、女性基金の村山理事長あいさつで「村山談話公表の同日、全国紙に女性基金創設が発表された」と述べられているように、関連付けようとする意図は明らかであった。
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中国人でもマトモな方の香港人は、特定日本人より良識がある。
南京大虐殺というのは、日本軍松井大将の上海南京侵略無罪を判決した東京裁判が、中国の反発を宥めるために、虐殺事件を捏造して無罪の松井大将を処刑した冤罪事件である。
百人斬り名誉毀損訴訟で、弁護側が「百人斬り将校は不起訴になっている。」と主張すると、アホな裁判官は「東京裁判はエライさんの裁判で、少尉レベルの裁判とチャウ。」とオバカ判断したが、虐殺を禁じていた松井大将を虐殺不作為責任で死刑にする為には、部下による命令違反の虐殺行為を起訴有罪にしなければならない。その為に百人斬り報道した東京日日新聞の浅海・鈴木記者を証人尋問したが、東京裁判法廷の証拠否定判断をよく読むと、浅海が「自分の創作とゲロった。」としか考えられない。
つまりは、百人斬り事件を南京虐殺の一例としたかったのだが、法廷は事件性がないと判明し、将校を不起訴にして捜査を打ち切ったのである。
結局、中国人の虐殺証言は信用できず不起訴、日本の新聞報道も虐殺証拠にならず不起訴・・・その結果、検察は、虐殺特定事件の起訴を諦め、誇大な戦死体処理数を虐殺に歪曲し、具体的虐殺事件を1件も起訴しないまま、虐殺放任事件として松井大将を処刑したのである。
「南京虐殺事件には鉄の証拠がある。」とチナは主張するが、中国南京法廷が起訴有罪にした虐殺事件は、谷中将の不作為責任と300人斬りの田中大尉と100人斬りの向井・野田少尉の3件4名だけで、外に中国側の証拠証人による起訴は存在しない。
30万人以上の虐殺証拠があるというのに、何故特定事件は2件3名しか起訴できなかったのか。
田中大尉の主罪は、中国側が逮捕裁判した強盗の処刑を委任され実行した罪である。300人斬りはオマケ罪状に過ぎなかった。
大虐殺事件の起訴例は、1件も存在しない。・・・中国主張の鉄の証拠とは、所詮このレベルw。
南京大虐殺が事実だと主張するなら、最低限同じ法廷で侵略無罪判決が下されていることも認めなければならない事を理解せよww。
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朝鮮人がこのように傲慢・事大・自大でいられるのは、特定日本人共が慰安婦を性暴力事件であったかのようにプロパガンダしたからである。
ポツダム条件で受諾している処罰対象の戦争犯罪は、婦女誘拐罪と強姦罪である。慰安婦事件の主罪は誘拐罪であって、性暴力事件では無い。慰安婦に対し性暴力が行なわれれば、強姦罪として戦中なら日本軍憲兵が、戦後であれば連合軍検察が逮捕裁判する事になるが、慰安婦に対する性暴力が行なわれ、処罰したのは戦中の日本軍による裁判例はあるが、連合軍による戦犯裁判において、慰安婦性暴力事件が起訴された裁判例は無い。
また、蘭印のスマラン事件を性暴力事件と誤認している者がいるが、婦女誘拐事件で起訴有罪になった者はいない。この事件は、売春婦の廃業届不受理事件であって性暴力事件では無かったため、慰安所利用の日本兵は誰も起訴有罪になっていない。
オランダ人慰安婦オハーンが「日本人将校に強姦された。」と主張しているが、オランダ軍が戦犯捜査して不起訴にしている以上、虚偽である。
そこで、朝鮮人慰安婦については、戦争犯罪である「強制売淫目的婦女誘拐罪」「強姦罪」で起訴された朝鮮人経営者、日本兵は存在しない。
「犯罪は無かった」と苛酷な戦犯捜査でも認められた事実を否定して、「慰安婦に謝罪すべき。」という日本人は、「罪が無い者に謝れ。」という特定日本人であるw。
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北岡伸一・国際大学長が先の大戦について、「歴史学的には侵略だ」・・・左右ドッチも、肩書だけの無知のオッサンが、根拠の無い自分の思い込みだけを主張し、同じく無知で検証能力の無い劣化日本人がそれを鵜呑みにして益々劣化していく。この悪循環が止まらない。
真実はド〜でもいい、ただ自分の思い込みを拡散出来ればそれで良い・・・そんなヤツラが「歴史学」なんて、、、笑かすな〜ww。
侵略か否かを確定したのは東京裁判判決であって、オッサンの思い込みには何の価値も無い。
反日日本人共は、「日本はアジアを侵略した。」と主張するが、東京裁判は「アジアを侵略して植民地支配していた欧米に対する侵略』を有罪にしている。・・侵略被害国は欧米であって、アジア諸国では無い。被害国・欧米に対する謝罪反省をしないで国際復帰した日本は、戦犯判決受諾規定がある講和条約に違反し、条約誠実遵守義務を定めた憲法に違反する。
憲法違反のアジア侵略を謝罪反省してきた日本人が、日本の侵略の何を反省しようというのかwww? ザケンナw。
74年の国連侵略定義は戦争惹起の定義であって、戦争惹起を侵略と定義するのは、敵基地先制攻撃を容認した不戦条約に整合しない。
国連が戦争惹起を「侵略の一応の証拠」としたのは、日本による戦争を侵略戦争として裁いた連合国を正当化する誤魔化しである。
そもそも、第1次大戦まで戦争を不法行為とする国際慣習は存在しなかった。しかし戦後の国際会議で、「条約の神聖を汚した。」として、中立国に侵犯したドイツ皇帝を裁こうとする条項がヴェルサイユ条約に規定された。・・この時点で国際条約に違反する戦争が侵略戦争と定められたと言って良い。
そこで、日本による戦争惹起…ハワイ・フィリピン・マレー・シンガポール・インドネシアへの先制進攻は、合法の敵基地先制攻撃であって、不戦条約違反の侵略戦争には当たらない。
ちなみに、対日戦争のために中立国ポルトガル領チモールに進攻した連合国の戦争は不戦条約違反の侵略戦争である。
同様に、日ソ中立条約を破って日本・満州に進攻したソ連は侵略国家であり、ソ連と共同謀議したアメリカも侵略国家である。
また通州事件を、より大規模にして日本人大虐殺を図った第2次上海事変は、中国による日本共同租界に対する戦争惹起行為であるが、「中国自衛のためなら先制敵基地攻撃で、侵略に当たらない。」という主張がある。しかし、中国は上海停戦協定に違反して、非武装地帯に侵攻しているので、自衛戦争主張は出来ない。東京裁判も、上海防衛戦だけでなく南京攻略戦までも侵略無罪判決している事から、日中戦争は、対日侵略戦争により始まったと、東京裁判が判決している事になる。
この上海事変直後に、アメリカは日本による侵略戦争を批判する隔離宣言を公表し、中国を軍事経済支援して日中講和を妨害し、連合国共同の対日経済封鎖によって日本を戦争に引きずり込んだ。・・・何処に日本の侵略戦争として批判する要素があるんだい?www。
]]>日本が無条件降伏した事にしておかないと、「特攻隊や各地の玉砕を、悲惨な犬死に」と、日本人を侮辱出来ないから・・・
日本人が降伏を忌避したのは、前線で自分たちが特攻を拒否し、玉砕せずに降伏してしまえば、日本国が無条件降伏しなければならなくなるからなんだよ。
「独軍は、前線指揮官の判断で個別に降伏した理性的な軍だったのに、日本は・・・」などという学者がいたが、独軍は、「祖国が蹂躙され、婦女子が強姦され、憲法を押しつけられ、洗脳教育され、永遠に近隣国にタカられようと、我が身が大事。」と降伏したのだw。(勿論全てでは無い。)
日本軍は「日本と日本人の行く末を案じて、特攻・玉砕した。」・・・この誠意を否定するために、国家無条件降伏にしておきたかったのだ。
関連:3627:戦争は、中国の日本侵略戦争から始まった。
]]>国家無条件降伏した侵略国ドイツは、連合国の戦争終結宣言形式で、他の枢軸国はドイツに宣戦布告して国家無条件降伏を免れようとしましたが、アメリカはこれを認めず、これらの侵略国との講和条約に代わるパリ条約は、枢軸国の批准は拒否しないが連合国の批准で成立する変則戦争終決形式でした。・・・これは、ブリタニカに掲載されている国際的一般常識です。
東京裁判起訴前には、枢軸国の戦争全てを侵略行為として裁くという従来方針から、カナダ・ニュージーランド・オーストラリア・タイ侵略も起訴されましたが、開廷後に日本に対する侵略国定義が撤回され、これら4カ国に対する侵略は審議されませんでした。
また中国についても、開廷前には侵略無罪の証拠があっても有罪にするつもりで起訴したのですが、開廷後の方針変更で結局日本の侵略は無罪にするしか有りませんでした。上海事変は、中国の上海非武装協定違反により開戦しているので、明らかに「中国による日本侵略戦争だった。」と東京裁判が判決している事になります。
この上海事変は、ドイツと中国により通州事件を大規模にした日本人虐殺事件を仕掛けてきたため、日本は自衛戦争するしか無かったので、侵略で起訴された最高指揮官の松井大将は、東京裁判で侵略無罪になりました。
対日侵略の上海事変直後に、ルーズベルトは侵略国隔離宣言を公表し、独・中匡による日本侵略を日本批判にすり替え、侵略国中国を軍事・経済支援し日本を戦争に引きずり込んだのです。
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「そこまで言っちゃっていいの?」という意見がある。
インドネシアの例が分かり易いかもしれないが、大戦当時の蘭印は陸軍軍政地域は独立支援、人口が少ない海軍軍政地域は日本領予定地域だった。日本軍は、原則現地サルタン領にではなく蘭印軍の支配地域を占領した。
多額の戦費と人命を投じている以上、一部保護領化はそれほど不当とは思えないが、この行為を「アジア侵略」とする反日に対し、「アジア解放」とする親日に対して批判がある。
蘭印の海軍にあった花機関は、一応工作機関であるが、機関員の大半は徴用された興亜専門学校(亜細亜大学)のインドネシア語科学生だった。独立抑制の海軍といっても、花機関長は戦後インドネシア独立戦争に参戦して戦死している。
戦後、復員船を待っていた収容所から、二十歳そこそこの機関員3人が収容所を脱走し、蘭印軍兵舎を爆破して戦犯逮捕され、「国敗れて愛国の情益々深し。同志畑田、池田兄等と語らひ亜細亜民族の一員たる新興印度ネシヤ国家の独立運動に挺身すべき事に決す。ああ然し其壮図も空しく敗れ現在に至る。・・・御両親様始め皆々様よ。たとへこの身はセレベスの土と化せんとも短き二十三才の一生を顧みて非常に幸福なり。私は其幸福感に包まれて祖国の弥栄と皆々様の御幸福を祈りつつ暁の白露と散ず。これぞ大和男子の本懐なり。」との遺書を残して銃殺されている。
アジア解放など忘れていれば、家族の下に帰り、幸せな暮らしが待っていたかもしれないのに、僅か3人で何が出来るかなど考える事も無かった若者がいた。
今、チベット人を救う為に人民解放軍と戦おうとする若者はいない。これを批判する気は無いが、当時の日本人のアジア解放の理想を「ウソ」扱いする日本人は不快だなw。
また、蘭印だけで無くアジア各地で、「アジア解放」の日本軍を支持した現地民の殆どは、アジア侵略日本の協力者として、家族共々弾圧され、処刑されている。しかし、彼等が正しかった事は、後の独立獲得が証明している。
中朝韓露など、アジア独立の反対者が、「日本によるアジア解放」を否定するのは当然だろうが、独立を信じて日本軍と共に戦い、殺されていった現地民の存在が全く忘れられている。
日本人なら、「日本はアジア解放のために戦った。」と認識しなければ、殺されていったアジアの方々に申し訳が立たないのではないか。
日本がポツダム降伏条件で受諾している慰安婦関連の戦争犯罪は、強制売淫目的の婦女誘拐犯罪と性暴力犯罪である。
前者は広義・狭義の強制連行を指すが、その犯人は朝鮮人の女衒と経営者である。しかし、連合軍検察は、日本兵だけで無く朝鮮人も、誰一人戦犯起訴した事実が無い。
これは、慰安婦強制連行が存在せず、当時慰安婦被害者も、誰も告訴した者がいなかったからである。犯罪を捏造してでも日本兵を処刑したかった連合軍としては、慰安婦の告訴があれば、朝鮮人経営者を婦女誘拐罪として起訴し、「日本軍に強制された。」と供述させれば、日本軍関係者を強制売淫責任犯として処刑出来た。然るに、当時慰安婦本人も経営者も、日本軍の強制売淫犯罪を告訴しなかった。この事実はそこに戦争犯罪が存在せず、単なる売春婦と売春業者だったからである。
後者の性暴力事件の場合、日本の識者たちが、朝鮮人売春婦のみに対する性行為を、殊更性暴力と騒ぎ立てて戦争犯罪を捏造しているだけで、その延長で各国の強姦被害主張にまでカネをばらまいてきた。しかし、当時の連合軍検察の苛酷な捜査の上で、起訴された性暴力事件犯人は148名のみ、ちなみに強制売淫事件犯人は36名のみである。
これらの戦争犯罪は明確に区分されているのに、朝鮮人慰安婦に追加料金支給目的で、性暴力事件が捏造されたのである。
軍慰安所では慰安婦に売春拒否権が認められていたが、慰安所において慰安婦に対し性暴力事件があれば、定期巡察する憲兵が後日でも日本兵を逮捕し、軍法会議で処分されていた。
売春を強制された慰安婦が、性暴力事件として連合軍検察に告訴すれば、連合軍が悦んで日本兵を死刑にしてくれたというのに、慰安所を利用した日本兵が起訴された例は無く、慰安所において性暴力事件は存在しなかったのである。
これらの戦犯判決を講和条約で受諾しているのに、50年後の90年代になってから戦犯判決を捏造し、戦争犯罪の性暴力事件を捏造主張する識者の行為は憲法違反である。
これは、2011年になってから旭日旗を戦犯旗と騒ぎ出したメンタリティと同じ構図である。