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720:戦犯裁判:オランダ管轄:ホーランディア裁判:第51号法廷/米機搭乗員俘虜殺害・新穂事件
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    第51号法廷/米機搭乗員俘虜殺害・新穂事件

     

    起訴理由概要:北ニューギニヤ地区神機関長として服務中
    1、昭和19年4月頃モロツに於いて窃盗放火強姦、付近一帯部落民に対するテロ行為で告発された地方警察官多数を含む右嫌疑者を部下本多文雄に命じて取調べさせた際、本多の暴行虐待を容認。
    2、右の嫌疑者中2名を訴訟手続きの形式を履まずして、本多に命じて処刑させた。
    3、昭和19年5月頃ナワ河において、彼の部下、渡辺中尉及び本多文雄に対し1名の米国人俘虜を取調べさせた際該俘虜を虐待する事を容認した。
    4、右俘虜を訴訟手続きの形式を履まずして、処刑する事を命じ殺害させた。

     

    第36師団司令部・新穂智サトル少佐・鹿児島:48/6/23求刑死刑>48/8/26判決死刑>49/3/3銃殺:弁護青木

     

     1944/4/22、連合軍のホーランディア上陸で退路を失った日本軍の宣撫工作機関・神工作隊は、人跡未踏の密林・湿地帯を踏破し第2軍本部のあるマノクワリへの脱出を図る。
     直線距離でも500km以上というから、決死行だったろう。
     
     その途中、現地民たちに棒に吊り下げた瀕死の墜落・米機搭乗員を引き渡された。
     最初は連行しようと思ったようだが、自分たちの移動も困難を極めてるワケだから、結局殺害処分したんだね。
     連合軍に知られたのは、」食料や装備運搬のために雇っていた苦力が・・・という可能性もあるが、残念ながら、戦後の戦犯裁判に日本人密告者が関わっている例の一つではないか。
     「それでも俘虜を不法殺害したのだから」と思う方もいるだろうが、状況として本人移動だけでも命懸けなのだから、俘虜連行は不可能であったし、後送も出来ない以上、残置するほかはない。
     僅かの水と食料を置いて放置するのが後知恵で正解だったとしても、それは日本人の感覚では非人道的行為であったろう。
     まだ勝ち戦の緒戦でも、落伍した日本兵は、チナでも南方でも偶々後送の機会があった者を除けば、「俘虜になったら惨殺される」と思ってたし、戦友に迷惑掛けぬよう自決、若しくは戦友に処分されている。
     本件の場合も、類似例と考えられると思うね。
     転進中の詳細は調査中だが、1ヶ月以上密林湿地を徒歩移動するワケだから、食料調達にはナンギしたんだと思うし、日本兵の落伍者も少なくなかったと思うヨ。
     
     
     新穂智(にいほさとる)少佐・32歳は、俘虜殺害により銃殺刑。1949/3/3執行。
     
     「部下の俘虜殺害を見逃しただけ」とする説があるが、小部隊の工作隊で隊長が見逃したとは考え難い。
     「連行すれば、隊員に犠牲者を出すだけでなく転進作戦失敗の可能性も・・・」というのが、常識的判断であったと思う。
     少佐は、弁論資料として1943/11/23〜1944/6/6までの宣撫工作活動記録『西部ニューギニヤ横断記』を書いているが、民族博物誌とも言える見事な内容だそうな。
     
     
     
    妻・敏子宛の遺書
      「私が戦犯者として死刑になった事については何等卑下する必要はない。和蘭軍が一方的形式的裁判で死刑にするのだ。私は皇国の為に活躍して来たのだ。反つてほこりをもつてゐ」
    長男・智忠宛の遺書
    「父は君が未だ母のお腹の中にある時に祖国を出発し、黒き雨降る南溟の地『ニューギニア』に転戦、皇国必勝の信念で最後迄戦ってきたが我が国の敗戦に終わった。そして明後-日午前八時死刑を受け銃口の前に立つ。未だ君の顔も見ず死する事を残念に思ふ。そして何等父らしき事の出来なかった事を。母は非常なる苦労をして君を育てられるのだ。母の御恩を忘れてはならない」
     辞世
    「大らかに伸び行く吾子の姿こそ興らん御代の我が生命なり」   
    新穂少佐
     大正5(1916)年5月、鹿児島県日置郡上伊集院村直木で8人弟妹の長男として生まれる。
     昭和13(1938)年7月、陸士卒・少尉任官。
     昭和14(1939)年8月、陸軍中野学校第一期卒。
     陸軍参謀本部第6課に配属。
     第二次「日蘭印会商」団で、オランダとの石油鉱区、石油の輸入交渉に参加。
     昭和16(1941)年末、同盟通信社記者の身分でバタビア(現インドネシアの首都ジャカルタ)に赴任。 パレンバンとジャンビの石油事情調査秘匿任務。
     オランダ当局に逮捕され貨物船でオーストラリアのラブダイにある抑留所へ移送。
     抑留者交換により、昭和17年(1942)9月帰国し、中野学校に教官赴任。
     昭和18(1943)年11月、参謀本部直属の工作隊機関長としてホーランディアに赴任。
     マノクワリ・第2軍(豊嶋房-太郎中将)隷下に、ホーランディアで「神機関」を編成、対住民宣撫工作実施。
     昭和19(1944)年4月22日、連合軍のホーランディア上陸により、「神工作隊」は、人跡未踏の大河・マンベラーモ川の大密林・大湿地帯への転進作戦実行。
    【2011.11.23 Wednesday 03:51】 author :
    | B級裁判 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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      【2018.11.12 Monday 03:51】 author : スポンサードリンク
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