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3638:東京裁判に関連する日本人には理解されない事実2/3
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    東京裁判に関連する日本人には理解されない事実1/3・2/3・3/3

     

    22、幣原外交

    東アジアで9国条約を基軸に成立したワシントン体制にどのように対応し、大陸への発展をどのように進めていくか、同時に、中国のナショナリズムにどう対処していくか、1920年代の日本外交は困難な局面に直面していた。この時、外交的選択を典型的に代表したのが幣原喜重郎によって指導された幣原外交であった。(15巻・日本外交史・P278)

     

    幣原外交といえば、国際協調、経済外交、中国内政不干渉の「協調外交」として、戦後日本では高く評価されている。しかし、日本外交が困難な時期にこのような人物が外交を担った事が日本の不幸であった。

    第1次大戦で超大国の経済力・軍事力を世界に見せつけたアメリカが、太戦後に狙ったのは日本の排除であった。その為に日本に好意的なイギリスとの日英同盟の廃棄と、アメリカの中国利権確保並びに日本の中国利権奪取を目的にした9カ国条約の成立を図るために、ワシントン会議が開かれた。この時、ワシントン会議の全権だった駐米大使・幣原は、アメリカの画策に積極的に応じて、「対外提携の骨髄」といわれた日英同盟の廃棄に応じ、1899年以来アメリカが要求し続けて来た中国利権分割要求を、国際条約として成立させる事に協力した。この9カ国条約によってアメリカに媚びただけでなく、中国内政不干渉政策の結果、中国による日本の権益に対する侵害を許しただけでなく、当時中国勢力下にあったチベット・ウイグル・モンゴル・満州などの自決権を否定し、のちに数百万人規模の民族虐殺を招く端緒になる9カ国条約を容認したのである。

    幣原が日本軍の大陸膨張主義に反対し、国際協調を主導したかのように誤認されているが、13・17項で述べている通り、日露戦争直後から日本政府の国際協調姿勢は一貫しており、幣原が選択したのは、国際協調ではなく対米追従外交であった。その反動が軍部の独断専行を招いた。

     

    1915年にイギリスが日本に対し「ドイツが日中衝突を画策している」と警告したように、日英同盟はアメリカ・ドイツの圧力を受けながらも相互信義が失われる事は無かった。アメリカがドイツに同調した後も、イギリスは1927年南京事件における中国による排外テロに際し日本に共同出兵を持ちかけて日本の孤立化を避けようとし、満州事変後のリットン調査報告は日本に有利な報告がなされた。日独伊三国同盟以降イギリスの危機的状況から、ソ連と共にイギリスはアメリカの参戦を望んだが、戦後に連合国が報復裁判を実行する中で、少なくともイギリス海軍の日本に対する友誼は変る事が無かった。

    幣原の中国内政不干渉は、実質的には中国による対日テロや不法行為に対し無抵抗を貫くだけであって、日本公館が侵入掠奪され、日本人が虐殺強姦されても抗議さえしなかった。その結果、米中の侮りを受ける事になり、特に中国では抗日テロが頻発した。1928年幣原弱腰外交から田中外交が抗日干渉方針に代わって山東出兵を行なっても、抗日テロは終息しなかった。

    幣原外交は、「ワシントン体制にそった対英米協調を基本としながら、中国の自主的立場の尊重、内政不干渉、日本の合理的権利の擁護、特に特殊権益の維持をはかった。 1925年コミンテルンによって日中衝突を煽動するソ連との日ソ基本条約の締結、29年中ソ紛争の調停,30年ロンドン海軍軍縮条約の締結、中国との関税協定などを推進した。」と言われているが、長期的には成果と言えるものではなく、国民と軍部の日本外交不信と中国に対する強い反発を招く事変誘発外交とも言えるものであった。

     

     

    23、満州建国

    1931年9月満州事変が開始され、関東軍は1932年1月熱河省を除く満州全土を占領した。当初は、満州を日本領化する予定だったが、1932年3月宣統帝溥儀を擁立し満州国独立が宣言された。

    ソ連と敵対して日本を利用しつつアメリカを引き込もうとしていた張作霖が爆殺されたアメリカは、満州進出の機会を失い、後述するように、満州事変を日本の9カ国条約・不戦条約違反の侵略として完全に敵視するようになる。

    日本政府の軟弱外交に強い不信感を抱いていた関東軍は、政府の不拡大方針を嘲笑うかのように、錦州爆撃という花火と石ころを投下するような連盟挑発を行なって、日本政府の連盟脱退を促した。

     

    満州国は、日本人・朝鮮人・蒙古人・満民族・漢民族・五民族協和の立憲君主国であるが、これら以外にロシア革命から逃れた白系ロシア人やユダヤ人、その外少数民族も流入していた。その満州国について「日本の傀儡国家」という否定的な評価が定説になってしまっているが、それは正しくない。

    戦後中国の漢奸裁判で無期懲役になった汪兆銘の妻・陳璧君は、南京政府に対する批判に対し「南京政府が日本の傀儡というのなら、蒋介石の重慶政府はアメリカの傀儡、毛沢東の延安政府はソ連の傀儡ではないか。」と、堂々と抗弁した。

     

    日本の事情:朝鮮半島の安全保障のために、日清・日露の大戦争を行なった日本・朝鮮にとって、満州の安定は絶対条件であった。事変前の満州は、鉄道及び付属地に駐屯する日本軍によって治安は著しく改善していたが、日本軍の支援を受けた張軍閥は、その勢力を中国本土にまで拡張し1926年12月北京で大元帥に就任した。軍閥の勢力を過信した張の反ソ反共方針は、欧米の支持を得る事になり、張もこれを歓迎し日本を軽視するようになっていった。張は、ソ連とコミンテルンの策動に対して1927年4月北京のソ連大使館などを家宅捜索し、中国共産党員を逮捕、中国や列国に対するテロ計画文書など押収した。1927年4月10日ソ連大使が本国に召還され中ソ国交は断絶した。満州における張軍閥による対立姿勢に対して、ソ連はモンゴルに大軍を配備して牽制したが、不要な紛争を避けたい日本軍にとって、傲慢な張の対応は許容出来なくなっていた。

    張作霖爆殺後の1928年12月、張学良は易幟と共に中ソ共同管理の中東鉄道と電話局の実力回収を開始した。1929年5月、ハルビンのソ連総領事館を捜索し多数の中ソ共産党員を逮捕して陰謀証拠を押収した。7月権益回収に関する外交交渉は決裂し、8月中ソ紛争が開始された。12月ハバロフスク議定書により終戦、中国による鉄道権益回収は失敗した。

    この中ソ紛争について米・英・仏は、ソ連の不戦条約違反を主張したが、ソ連は不戦条約留保条件の自衛戦争を主張し一蹴した。日本は中立を維持し紛争に関与しなかったが、蒋介石に臣従しソ連との協定を無視してソ連権益を回収しようとする張学良、即ち不安定な満州情勢を放置する事は出来なくなった。またハルビンのソ連総領事館捜索で、蒋介石・張学良の反共姿勢は明らかであったが、張学良の弟・張学思が共産党員であったように、満州の中国人の間に共産主義が浸透し日本にとって脅威となっていた。

    その状況で、関東軍が混乱する満州の間接統治を計画して共産化を防ごうとするのは、日本の安全保障にとって自衛主張が可能であった。

     

    アメリカの事情:大元帥になった張作霖に取り入って、満州権益を確保出来ると思っていたアメリカは、張作霖の死と満州事変によって満州権益は諦めなければならなくなった。その結果、満州建国を「日本の中国侵略」と捉えて、日本を露骨に敵視するようになった。その後日本は、満州の安全保障のために、華北の実質的自治、さらには汪兆銘による親日南京政府を樹立させたが、これらも全て中国侵略とされ、アメリカは日本の自衛権行使を認めなかった。

    共産主義に対する警戒がなかったアメリカは、目先の中国利権に惑わされて日本を敵視し、のちに日米戦争にまで至るわけである。しかし、シベリヤ出兵で日米が協調していれば、バイカル湖以東に反共ロシア政権を樹立維持出来た可能性が高い。また、満州は建国後短期間で発展し、反共国家としてシベリヤの反共ロシア政権に対する協調支援が可能であった。アメリカは、華北の親日自治政府、汪兆銘の親日南京政府も不承認であったが、アメリカの傀儡だった蒋介石政権は、政府が藍衣社というテロ組織を擁し、蒋介石自身も独裁指向の権力主義者であり、反共主義者であってもその強権的政権運営は、軍閥・人民の支持を得られず、結局中共との内戦に敗れ台湾に逃れて、アメリカによる中国支援は無駄に終わった。国民政府に代わって中国全土を支配したソ連傀儡の中共政府は、中国共産党独裁下で文革・大躍進などの自国民大虐殺を行なっただけでなく、華僑が東南アジアに共産革命を浸透させ、自国民に対する粛正や対米戦争、そして朝鮮戦争で多くのアジア諸国民が犠牲になった。満州や中国本土内に反共国家があれば、反共の蒋介石もこれらと協調政策を採らざるを得ず、その結果中共政権の勢力も限定される事になり、中国の共産化が避けられた可能性があった。その場合アメリカの本来の国益にとって非常に有益であった。

     

    満民族の事情:満州は満民族固有の領土であって、民族自決の理念からも中国領土ではない。清国皇帝・溥儀は、紫禁城居住、尊号保持、年金、陵墓保護を条件に退位したが、1924年北京政変以後この条件は全て反故にされ、紫禁城から追い出されて暗殺の危機もあった。その溥儀を保護したのは日本であった。溥儀はその人柄を満民族に慕われ、復辟運動もあったが、軍事力を持たないため成功しなかった。

    満州建国が石原莞爾の策謀であったにせよ、満民族にとっては清国帝政の復活であり、満民族が歓迎していた事は疑いが無い。戦後の東京裁判や中国の漢奸裁判において、溥儀や帝政幹部らが「日本の傀儡国だった。」と認めているからといって、満州で漢奸として次々無裁判処刑されている状況の証言が事実だったとは限らない。

    日本敗戦後、漢民族に「返還」された満州では、同化政策により満民族の言語文化は消滅しつつある。

     

    漢民族の事情:動乱の中国本土から治安の良い満州に逃れてきた漢民族は、発展する満州で就業していた。敗戦後の漢奸裁判で「強制労働だった。」と主張しても、流入する漢民族による豊富な労働力から、強制労働より賃金労働の方が効率的であった。また「日本の開拓団に開墾地を奪われた。」と主張しても、元々満州領の空き地を無断開墾して入植した流民たちであって、立ち退きに際して匪賊にならなくて済むよう、一定の補償や職業紹介も行われていた。発展する満州で、中国本土よりも生活水準は向上していたが、戦後の漢奸処刑においては、満民族と共に富裕な漢民族も処刑対象になり、国共内戦、中華人民共和国成立後の文革などで、多くの漢民族も虐殺されていった。

     

    朝鮮族の事情:大戦中は、朝鮮系日本人として満州に入植し、中国人を弾圧していたが、日本敗戦後日本人避難民懲罰に協力する事によって入植域を確保し、文革の影響を受けながらも延辺朝鮮族自治州を成立させた。

     

    白系ロシア人の事情:革命から逃れて満州に入植したロシア人は、満州国に定住し軍閥に属すなどしていたが、一部は日本に逃れた。ソ連軍満州侵攻を歓迎して迎え日本の暴虐を主張したが、ソ連軍と共に満州を退去した後の反革命ロシア人の動勢は不明である。

     

     

    24、スチムソン国務長官による満州事変不承認

    満州事変勃発直後の1932年1月アメリカが公表したスチムソン・ドクトリンは、日本による満州進攻を不戦条約・9カ国条約違反の侵略と非難し、既得権益を定める日中間条約の合法性を否認した。このアメリカの主張は「門戸開放政策として知られるアメリカの諸権利のことを指し、これを損なうような日中両国政府あるいはその仲介者によるいかなる条約や合意を認めることはできず、既成事実によって作られたいかなる状況の合法性も承認しない」というものであった。

    しかし、当時の満州では、既に中国側が条約無視を続けており、日本の既定権益に対する中国による侵害やテロ攻撃が頻発し、共産主義の浸透も始まっていた。この状況は既に9カ国条約成立時の状況とは激変しており、これに対する日本の自衛目的の戦争惹起は、不戦条約違反には当たらなかった。

    また、日本国民と軍による日本政府に対する不満・反発によって、日本政府の事変不拡大方針や軍事行動抑制指示は無視され、関東軍による満州全土征服に至ったのは日本政府による対米・対中追従外交の結果であった。

     

    1932年3月満州国の独立が宣言されたが、同月「イギリスは極東問題でアメリカとは歩調を合わせない」という立場であった。

    1932年10月アメリカ委員も参加していた連盟調査委員会報告は、満州における軍事行動を是認したり満州国の独立を正当化するものでは無かったが、日本と満州との特殊な歴史関係とそれに由来する日本の特殊利益を認め、また満州の自治と紛争再燃を防止する目的で日中間の新条約の締結を勧告した(スチムソン・ドクトリンを否定する)もので、調停案として多分に合理性、柔軟性を持つものであった。(15巻・日本外交史・P280) アメリカを含む各国の報道も、中国を非難し日本に同情的であったが、日本では後の東京裁判が満州侵略を認定しているため、不法な侵略と認識されてしまっている。

    1933年3月、リットン報告を基礎とした連盟の勧告案議決に抗議して日本は、アメリカと連盟に対する不信感から国際連盟脱退を表明したが、日本政府の協調外交に不満だった国民は、これを熱狂的に支持した。この強硬手段後の1933年5月、中国は塘沽停戦協定成立に応じた。尚、脱退表明から2年後の脱退成立までに、侵略であれば行なわれていた筈の連盟による制裁措置は一切行なわれなかった。

     

    上記のスチムソン・ドクトリンは対日宣言であったが、日本と共にドイツに大きな影響を与えた。

    1895年三国干渉以来、ドイツは合法的に中国権益確保した日本を嫉み、1915年の日華条約に干渉しようとしたが、侵略的に奪った山東省権益を日本に奪還されて、日中衝突を策謀するようになった。

    第1次大戦においてアメリカの14か条平和原則によって停戦に応じたドイツは、その後7箇月実質的な経済封鎖状態の戦争が継続する中で40万人余が餓死・病死したとわれている。そして、その後の講和の際は、侵略国として講和会議参加が認められず、一方的講和条件受諾を強制されたため、アメリカに対しては、強い反感があった。

    第1次大戦後のドイツは、アメリカと協調して中国利権獲得のために中国の反日を煽り続けていた。アメリカは、予てよりの中国権益獲得要求を、9カ国条約によって国際条約化した。反日ではアメリカに同調したドイツだったが、譬えドイツが中国権益を得ても9カ国条約によりアメリカの不承認は明らかだったためドイツ批准しなかった。

    そして、スチムソン・ドクトリンは、他国間のいかなる条約や合意・既成事実も否認していた。ドイツに過酷なヴェルサイユ講和条約遵守を強制しながらアメリカ自身はこの条約批准を拒否し、、アメリカの中国権益確保のためには、他国間の講和条約でさえ不承認とするアメリカの身勝手と、未加盟のまま国際連盟に強い影響力を保持するアメリカと国際連盟に対する不信感から、ドイツは日本に続いて国際連盟を脱退した。

    連盟脱退後、軍拡を続けて戦争準備を続けたドイツ違って、日本はアメリカの敵視に危機感が無いまま、上海事変を顧問指導したドイツと同盟するなど、マッカーサーが言った12歳の子供のような国家運営で、大東亜戦争に追い込まれていった。

     

     

    <参考>

    リットン報告書に対する各国新聞紙の論調 http://dl.ndl.go.jp/

    info:ndljp/pid/1459035/173?viewMode=

    (米 ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙)不公平だとの非難は当たらず:我々は斉しく日本の満州における権利を認むるのみならず支那の満州に対する主権要求を甚だせん越なものとしている。

    (英 デーリー・メール紙)支那の肩を持ち過ぎる:リットン報告書の内容は偏見であり、目立って支那の肩を持っている。報告書は日露戦争における日本の莫大な犠牲について述べて居らず、その他重要な事実に適当な重要さを置いていない。もし日露戦争がなかったら満州はソヴェトの一地方になっていたであろう。

    (英 モーニング・ポスト紙)報告書に偽りあり:満州の支那人は同報告書のいふが如く(※)決して支那政府に好意を持っていないことは、支那人民が国内の混乱を避けて多数満州に入込むのでも知られている。

    (露 イズヴェスチヤ紙)米国の反日的立場を強化:日本が同報告の条件勧告に屈従させられた場合、世界の帝国主義列強が極東問題を如何に解決せんとしつつあるかを表示していることである。例へば満州を国際植民地化し、全支那に国際共同借款団を再建する如きこれである。

     

    <参考>http://dspace.bunka.ac.jp/dspace/

    bitstream/10457/1064/1/001032119_03.pdf

    1932 年 1 月 7 日に日中両国に送付された通牒の全文は,以下のようなものである。

     

    錦州に対する(日本の)最近の軍事作戦により,1931 年 9 月 18 日以前には存在していた南満州における中華民国の行政権限は完全に破壊されました。アメリカ合衆国は,最近国際連盟理事会が承認した中立委員会が中日両国の間に存在する諸問題の最終的な解決を促すことを確信しております。しかしながら,現在の情勢とわが国の諸権利ならびに諸義務にかんがみ,合衆国政府は日本帝国政府と中華民国政府の双方に対して,以下のように通告します。アメリカ合衆国の条約上の諸権利や中国におけるアメリカ市民の諸権利――(具体的には)門戸開放政策として知られる,中華民国における主権,独立,あるいは領土的ならびに行政的保全の権利――を損なうような中日両政府あるいはその仲介者によるいかなる条約や合意を認めることはできませんし,既成事実化されたいかなる状況の合法性(legality)も認めません。また,1928 年 8 月 27 日に締結されたパリ条約(不戦条約),これにはアメリカのみならず中日両国も加盟しておりますが,この誓約と諸義務に反するいかなる状況,条約,あるいは合意も認めることはできません。

     

    続いて,同年 2 月 23 日付けのボラー上院議員あての書簡を概観したい。『回顧録』に全文(6 ページ)が収められているが,ここでは要点を箇条書きにする。

     

    1) 貴殿(ボラー上院議員)は,最近の中国情勢に対してわが国の政策がどうあるべきかについて――(特に)いわゆる 9 カ国条約が依然として適用可能か,効力を持っているのか,

    あるいは修正の必要があるのかということについて――私の意見をお尋ねでした。

    2) アメリカの対中政策は,ジョン・ヘイ国務長官が 1899 年に表明した門戸開放政策以降一貫しています。ヘイ国務長官は,(1)対中国通商における機会均等,および(2)そのような機会均等を維持するため,中国の領土的並びに行政的統合の必要,の二つの原則を訴えました。

    3) 門戸開放政策は,1921 年から 1922 年にかけて,太平洋に権益を持つすべての列強が参加− 39 −した(ワシントン)会議において,いわゆる 9 カ国条約として結晶化しました。

    4) 9 カ国条約が署名されたとき,中国では専制的な政府が革命勢力によって倒され,自由主義的な共和政体が成立しつつありました。9 カ国条約は,中国のこのような近代国家への移行を妨げるような攻撃的政策を自制する姿勢を締約国に求めるものでした。

    5) 条約にいたる審議の過程で,イギリス代表のバルフォア卿(Lord Balfour)は,「“ 権益権(spheres of interest)” というような古い発想を持つ代表は,ひとりとして交渉の場にいなかった」と述べ,日本代表の幣原男爵も「中国が自国を統治する神聖な権利を否定する者はいなかった」と日本政府の立場を表明しました。

    6) ワシントン会議は基本的には軍縮会議でしたが,海軍の軍備競争の停止だけでなく,世界平和,とりわけ極東における平和を脅かすさまざまな問題の解決の促進を図ることを目的としておりました。

    7) 9 カ国条約が締結されてから 6 年後に,パリ条約,いわゆるケロッグ = ブリアン条約(不戦条約)が結ばれ,強国による弱小国への侵略を否定する政策は強化されました。すべての紛争を恣意的な力によってではなく,正義と平和的手段で解決しようとする方向を得たのです。

    8) 最近の満州ならびに上海での状況は,極東に権益を持つすべての国に対して,これらの合意(9 カ国条約と不戦条約)を忠実に守ることの重要性を喚起するものです。紛争の原因や(中日)両国のどちらに非があるかを問うことは不要です。責任や原因に関係なく,前述の二つの条約の合意に立ち戻らなければ,いかなる和解も実現できないからです。

    9) 以上がアメリカ政府の見解です。

     

     

    25、上海事変2と太平洋戦争

    日独の国際連盟脱退後もドイツは日中衝突の策動を続け、中国に軍事顧問団を送り軍事支援していた。1932年4月コミンテルン大会で中共が対日宣戦布告を宣言し、1935年第7回コミンテルン大会で抗日反帝統一戦線結成方針が決定され、同時にドイツも人民戦線の敵対国とされた。そのため、1936年11月日本とドイツは日独防共協定を締結したが、ドイツによる日中衝突の策謀は続けられた。日本は中国軍の鹵獲兵器からドイツの対中軍事支援を知りながらこれを隠蔽し、何の抗議もしなかった。その結果、ドイツと中国の計画通り、1937年8月上海事変2勃発によって日中戦争が開始されてしまった。この時、ソ連は蒋介石の南京政府と不可侵条約を結び、軍事援助を与える事で、蒋政権の戦争継続を支援した。

    事変勃発直後、中国は国際連盟に対して、日本による不戦条約・9国条約違反を訴え、制裁措置を取るよう提訴した。また、「世界平和のためにアメリカは先頭に立って行動する。」と主張していたローズベルトは、1937年10月シカゴで、侵略を行なう国家を「病人」に喩えて隔離演説を公表し、中国の要求に応えて、イギリス・オランダと共に、中国に対し軍事経済支援すると共に、日本を経済封鎖して太平洋戦争に引きずり込んだ。

    上海事変2後のアメリカの隔離演説について、日本では、日本・ドイツ・イタリアの枢軸国を非難対象としていたかのように認識されているが、当時ローマ=ベルリン枢軸は結成されていても、イタリアに対する連盟による侵略国認定は確定しておらず、イタリアは未だ連盟を脱退していなかった。またアメリカは、1915年の第2次ブライアンノート以来、ドイツと協調して反日政策を採り、ドイツによる日中戦争画策を容認していた。そのアメリカが、ドイツによる軍事顧問団派遣と非武装地帯を含む広範囲に多数のトーチカ・塹壕陣地構築、並びに、後備含めて70万余の中国軍が配置され、中国軍の先制攻撃により上海事変2が開戦した事を知らなかったとは考え難い。事変前に不穏な情勢に気付いた日本軍は、1936年11月と1937年5月に14日の2回にわたって広範囲に査察、トーチカ塹壕の構築という停戦協定違反を確認し抗議している。この状況を知っていたアメリカが、中国とドイツによる対日戦争惹起に対し、日本による中国侵略戦争と非難し、日本を経済封鎖して太平洋戦争に追い込んだのである。

     

     

    26、アメリカが認定した侵略国に対する国家無条件降伏要求

    第1次大戦後、国際法において戦争を違法化する考え方が強まるに従って、敵対行為の終了に関し新しい問題が生じてきた。侵略者は国際法上の罪を犯したとみなされ、従って、原則としては、講和会議に対等の当事者として参加すべきではないとされた。さらに、条約は原則として当事者にとり相互に利益となるものでなければならず、強制された平和ではこうした性格をもたないと考えてよいであろうとされた。こうしたことから、平和条約の施行は特別に難しくなり、敗戦国に強制された講和は無効であるというスチムソン・ドクトリンによれば、新しい国際法のもとではこうした平和条約は法的に効力を持たないともいえるのである。従ってこの主張は、侵略行動を抑圧するために国際社会の代表として行為する防衛国側とその連合国は侵略国に対し原則として無条件降伏を要求して講和を締結する権利を有する、と提案している。つまり、自国領内で内乱または反乱を抑圧した国家の場合と同じだ、というのである。ローズベルト大統領が1943年にカサブランカで、枢軸国との敵対行為を終わらせる条件として「無条件降伏」という言葉を使ったことは、ユリシーズ・S・グラント将軍がアポマトックスでやはりこの言葉を使ったことを思い出させるのであり、枢軸国に対する連合国の戦闘行為は戦争ではなく、国際社会に対する反乱の抑圧である、ということを意味していた。 枢軸国指導者に対する戦争犯罪裁判は、前項の類推と一致するものである(もっともアメリカの南北戦争の場合は、南軍の指導者は起訴ののち特赦を与えられた)。(11巻・戦争・P544)

     

    アメリカは、自国と敵対する国家を一方的に侵略国と認定し、国家無条件降伏を要求して講和(戦争終結)を締結する権利があると主張した。しかし、このアメリカの主張は、単に中世の正戦論の復活であって、敵対国の戦争を不正な侵略戦争とする根拠は不戦条約であったが、不戦条約はアメリカ自身が、自衛戦争を放棄する戦争から除外しており、第2次大戦において、アメリカの敵対国による戦争を侵略と見做す根拠は何もなかった。

    また、「敗戦国に対し強制された講和は無効」とするスチムソン・ドクトリンは、日中間の講和を否定し日本が講和で得ていた中国権益を否定する目的で公表されたものであった。しかし、第1次大戦の敗戦国・ドイツなどに強要されていた講和を無効化するものではなかった。また、アメリカは、第2次大戦において、アメリカと敵対した枢軸国全てを侵略国と認定し、侵略行為に対する懲罰として、史上初めて公然と国家無条件降伏を要求した。しかし、この国家無条件降伏要求は、条件降伏を認めない事により非助命宣言並びに降伏国民の権利消滅宣言という陸戦法規第23条の禁止事項に抵触する事態が生じ得る可能性があり、枢軸国側が容易に受け容れられる降伏条件では無かった。敗戦が予想された時ドイツ以外の枢軸国は、ドイツに宣戦布告して国家無条件降伏を免れようとしたが、アメリカはこれを許さなかった。そしてドイツは、連合軍に全土を蹂躙され、一般市民を守るべきドイツ国防軍は各個に降伏し、捕虜になった兵士と共に市民が連合軍による残虐行為の対象になった。その後1945年5月7日、ドイツ臨時首班代理ヨードル大将がランスのアイゼンハワー最高司令部で国家無条件降伏文書に署名して停戦したが、停戦後もドイツ国民に対する残虐行為は続けられた。

     

     

    27、日本を除く枢軸国に対する懲罰講和

    大戦後、連合国とイタリア、フィンランド、ハンガリー、ブルガリア、ルーマニアとの間に平和条約が締結されたが、これらの条約は従来のものと同じではなかった。枢軸国側による批准は当然期待されていたとはいえ、これらの条約はソ連、イギリス、アメリカおよびフランスが批准したときに効力が生ずるという新しい規定が挿入されていたのである。従って、これらの条約は、連合国の側による平和宣言といえるものであった。西欧諸国は、西ドイツとの間で、占領を終わらせるための「契約」について交渉したのち、1951年に一方的な宣言で講和を結んだ。

    ソ連は60年、すべての連合国による正式な対ドイツ平和条約を締結するように要求した。この条約は締結されなかったが、60年代に入ってからの西欧諸国と西ドイツとの関係や東欧諸国と東ドイツとの関係は、事実上平和が解決したことを示した。

    日本との間では、在来形式の平和条約が効力を生じたときに講和が成立した。(11巻・戦争・P544)。

     

    上記の枢軸国に対する一方的講和方式は、アメリカが恣意的に決定したものであって、従来の国際法慣習に反していた。例えば、第1次大戦において在来方式で停戦に応じたドイツは、停戦後になって中立条約に違背した事を以て侵略国扱いされ、一方的講和が強制された。対戦国を侵略犯罪国家と認定する事によって、対等の交戦国として講和交渉する必要が無くなり、一方的な講和条件を強要出来るというのは戦勝国にとって非常に有利な戦争終結方式であった。そのため第2次大戦においてもアメリカは、戦況が有利になった1943年、枢軸国群を侵略国とするカサブランカ宣言を公表して、国家無条件降伏を要求した。

    前項で述べた通り、満州事変後に公表されたスチムソン・ドクトリンは、「敗戦国に強制された講和は無効」として、親米中国と日本間の講和を無効としながら、ドイツに強制された講和は有効のままであった。そんなアメリカの言いなりになっていた国際連盟に対する不信感から、ドイツは国際連盟を脱退し、講和条件遵守を拒否して第2次大戦に向けた軍拡を始め、1936年3月陸戦法規に違反する被占領状態にあったラインラントに進駐して奪還。以後は、アメリカの手法を真似て、軍事力を背景とした脅迫・強要による侵略を開始した。1938年2月オーストリア・ナチス党を使嗾したオーストリア併合、ミュンヘン会議で英仏の承認を得たズデーテン割譲、ベーメン・メーレン併合・スロバキアの保護国化で軍事力行使の際は、チェコスロバキア大統領に主権委譲を強要・承諾させた上で侵攻している。ポーランド侵攻は、ソ連との国境協議成立後に侵攻するなど、単に軍事力だけによって侵略を開始したのではなかった。

    第2次大戦緒戦は、他の枢軸国も超大国アメリカを懼れていたが、それ以上に危険だったのはソ連の侵略であった。中でもフィンランドは、ソ連による不可侵条約破棄という明白な侵略を受け、連盟の援助を受けながら少兵力で勇敢に戦い、連盟もソ連を除名したが、結局ソ連に領土を奪われた。そのフィンランドにとっては、ソ連と同盟する連合国より、枢軸側に加盟する自衛手段しかなかった。それでもアメリカは、戦後にフィンランドを侵略国として扱い懲罰講和の対象国とした。

    カサブランカ宣言の対象国だった日本に対しては、カイロ広報においても「日本国ノ無条件降伏ヲ齎スニ必要ナル重大且長期ノ行動ヲ続行スヘシ」と無条件降伏要求が宣言されている。しかし、このカイロ広報は日付・署名も無く、対日宣言というより、中国の単独講和を防ぐ目的で、ローズベルトが過去の国際条約を無効にして画定済みの領土を中国に奪取させると約束するもので、カサブランカ宣言に重複させる特別の意味は無かった。

    ドイツ以外の枢軸国は、戦勝国の批准で講和成立する変則形式、ドイツについては、戦勝国による戦争終結宣言で講和が成立し、枢軸国との講和会議は省略された。

    一方、日本との在来形式の平和条約とは、侵略国対象の枢軸国と異なり日本だけが連合国と対等の立場で講和会議参加を招請され、日本が条約を批准する事で講和が成立する従来の戦争終結形式であった事を指す。

    これは、ポツダム宣言提示時点で、アメリカは、侵略国に対し無条件降伏を要求していたカサブランカ宣言・カイロ広報の国家無条件降伏要求を、日本にだけ撤回していた事を意味する。

     

     

    28、日本に対する国家無条件降伏要求の撤回。

    日本では、一応の論争はあっても、大半の日本人は「日本は国家無条件降伏した。」と思い込んでいる。これは、ポツダム条件降伏した日本に対し、条件違反の東京裁判強行を正当化するアメリカのプロパガンダを信じ込んだ結果であると共に、日本を侵略国のままに貶めておきたい日本人らの言うがままに、日本も侵略国の降伏条件であった「国家無条件降伏した。」と思い込んでいるのである。

    しかし、前項で述べた通り、枢軸国の中で日本だけが、ポツダム降伏条件を提示され、これを受諾して停戦している。このように、国家無条件降伏受諾以外に停戦手段が無かった枢軸国と異なり、交戦国の軍ではなく国家が停戦を申し入れ、停戦内容が定められる停戦形式は、旧来の停戦形式と同様である。また、講和会議に敗戦国が一応対等の立場で出席し、条約を批准する在来方式で戦争を終結させたのも日本だけである。

     

    以上の戦争終結形式の違いは、ブリタニカにも記載されている国際常識であるにも関わらず。日本人は日本だけが国家無条件していなかった意味を全く理解していない。

     

     

    29、日本に対する侵略国認定の撤回。

    沖縄占領を終えたアメリカが、国家無条件降伏要求の既定方針通り本土上陸作戦を開始すれば、日本はドイツと同様に本土を蹂躙され、国家無条件降伏に応じるしか無かった。しかし、上陸作戦によって日本が降伏するまでには、軍民の激しい抵抗により時間が掛かる。また、当時ポツダム会談やドイツ占領政策において、強盗国家の本領を発揮するソ連と悉く対立し始めていたアメリカは、いずれヤルタ密約により対日戦争に参戦するソ連の干渉を抑えるために、日本の早期降伏による単独占領が必要だった。また日本に原爆を投下しようと、本土上陸作戦における日本軍民の抵抗はより激しくなり、想定以上の米兵被害が生じると考えられた。そのためアメリカは、侵略国に対する国家無条件降伏要求を、日本にだけ撤回し、日本に対しポツダム降伏条件を提示したのである。

    日本の識者は「特攻は、初期には一定の戦果が挙げられたが、米軍が対策を講じた以降は、殆どが無駄死にだった。ドイツ軍の指揮官達は良識的で、部隊に戦闘能力が無くなれば降伏して、兵士を無駄死にさせなかった。一方日本軍は、弾薬どころか水食糧が無くても降伏を許さず、悲惨な状況で玉砕させた。」と、GHQのプロパガンダを信じて、日本を非難する方が多い。

    しかし、特攻について近年公表された米軍資料では、大きな損害を与えていた事実が明らかになっているし、何より特攻が艦船乗組員に与えた恐怖心は非常に大きな問題になっていた。また、前線の戦闘能力の無い餓死寸前の兵士達が降伏してもしなくても、戦況には全く影響が無いことは、全ての日本軍将兵は解っていた。それでも、日本兵が降伏しなかったのは、「今日自分たちが降伏をしないことで、祖国の婦女子が守れる。この苦しみが続けられれば、アメリカとの講和が可能になるかもしれない。」という絶望の中の僅かな希望のためであった。特攻や各地の玉砕も同様だったが、特に沖縄戦では、投降を装った老婆が手榴弾を投げつけ、主婦が包丁を握って日本兵と共に敵陣に斬り込み、子供達が傷兵を助けて僅かな希望を信じて戦った。降伏して兵士を無駄死にさせなかったドイツ軍は、無抵抗でドイツ領への連合軍侵攻を許し、ドイツ全土の婦女子は蹂躙された。特攻や前線で降伏を拒否して戦ってくれた日本軍のお陰で生き延びた日本人は「ドイツ軍のように本土の婦女子を見捨てて降伏すべきだった。」という前に、講和を拒否して国家無条件降伏を要求していたアメリカの非人道行為を批判するのが先では無いのだろうか。

     

    命を投げ出して日本本土を守ろうとした方々の抗戦によって、アメリカは侵略国認定条件の国家無条件降伏要求を撤回し、ポツダム降伏条件を提示した。当時の日本人は、国家無条件降伏と有条件降伏の違いをよく理解していなかった面はある。しかし、国家無条件降伏要求が撤回され降伏条件が提示されたという事は、交渉の余地が生まれ、歓迎すべき事であった。そこで、何故日本が直ちにポツダム宣言を受諾しなかったかと言えば、既に、ソ連に講和交渉の仲介を要請していたからである。しかし、1945年2月ソ連は、アメリカと日ソ中立条約破棄・対日参戦に同意して、日本領土奪取のヤルタ密約を成立させており、日米講和を仲介する意思はなかった。中立破棄による参戦は、第1次大戦のドイツによる中立侵犯と同様に明白な侵略行為であり、また日本固有の領土・千島列島の奪取は、大西洋憲章・カイロ宣言に違反するソ連の領土拡大を密約した米ソによる日本侵略共同謀議であった。ポツダム会談中に、原爆実験成功の報を受けたアメリカは、原爆投下まで日本にソ連の降伏仲介に期待させ、ポツダム宣言を受諾させないように宣言国のソ連を中国に差し替えて公表した。

     

     

    30、ニュルンベルグ裁判と東京裁判の根拠法と適用犯罪の違い。

    ? 枢軸国に対しては、1943年のカサブランカ宣言以降、侵略国対象の国家無条件降伏要求が宣言されていたために、ドイツは国家無条件降伏した時点で、平和に対する罪のA級侵略罪処罰を受諾していたことになる。また、1943年10月、連合国戦争犯罪委員会が設立され、同年12月に処罰予定のB級通例戦争犯罪内容32項目(後1項目追加)が具体的に公表されていた。そして、同月米英ソにより「ドイツの残虐行為に関する宣言」が公表され、C級人道犯罪処罰も予定されていた事をドイツは理解していた。従って、国家無条件降伏を受諾したドイツに対するA・C級戦犯処罰は、完全な事後法とはいえない。

    国家無条件降伏したドイツに対するこれらの犯罪を、どのように起訴して裁くのかについては、ドイツ降伏まで定められておらず、国際法慣習も無かった。そこで1945年8月、米英仏ソは「ヨーロッパ戦争犯罪人裁判に関するロンドン協定」および付属書の「国際軍事裁判所条例」を定め、この条例を根拠にしたニュルンベルグ裁判において、ABC各級の重大戦争犯罪人が裁かれた。

    一方、東京裁判は、ニュルンベルグ裁判のような連合国間の条約に基づくものではなく、国家無条件降伏したドイツに対する国際軍事裁判所条例を一部修正したGHQ命令(1946年1月19日一般命令第1号、一部改正1946年4月26日一般命令第20号)の極東軍事裁判所条例によって強行された。しかし、根拠法を4カ国ロンドン協定に基づくドイツ向け条例と異なり、東京裁判はポツダム降伏条件に違反する極東条例により行なわれたのは、マッカーサーの復讐心に基づく国際法違反のGHQ命令を根拠にしているだけである。この事実は、東京裁判弁護団が連邦最高裁に人身保護を申し立てした際の却下理由「マッカーサーから法を与えられたのであり、国際法に基づいて審査できる裁判所、司法的な法廷ではなかった。」旨の回答からも明らかであった。

    ポツダム宣言を公表した段階で、アメリカは日本に対する侵略国扱いを撤回して、同宣言第10項でB級通例戦争犯罪の適用のみを明示した。しかし、同宣言を受諾した日本が国家無条件降伏の適用に抗議せず、事後法違反の抗議に留まったため、国家無条件降伏したドイツと同様に、日本が関与した全ての戦争を侵略戦争として裁く目的で、東京裁判が強行された。

     

    適用犯罪については、ニュルンベルク裁判では、平和に対する罪・通例の戦争犯罪・人道に対する罪の全てが適用された。これに対して東京裁判では、人道に対する罪を除く平和に対する罪と通例の戦争犯罪が適用された。また平和に対する罪は、フランス軍事裁判所で、ハーマン・ロエックリング事件に関連して適用された。さらに南京の中華民国裁判所でも、酒井隆中将事件に関連して平和に対する罪が適用された。なお、そのほかのヨーロッパにおける国内およびドイツ占領地域軍事裁判では、人道に対する罪と通例の戦争犯罪が、太平洋地域における日本人戦争犯罪人に対する軍事裁判では、通例の戦争犯罪が適用された。 通例の戦争犯罪については、東京裁判では、そのような犯罪の発生および防止を怠ったことに対しても個人責任が問われた。通例の戦争犯罪に対する不作為の義務違反を理由とする個人責任の追及は、東京裁判に限らず、日本人を対象とした戦争犯罪人裁判にみられる共通の特徴である。なお、ドイツは第2次大戦終了後、自国民の戦争犯罪人を国内裁判所で審理してきており、65年4月13日、ドイツ連邦共和国の連邦議会は、戦争犯罪などの時効を69年12月31日まで延長すべく「刑事法における時効期間の計算のための法律」を制定した。(11巻・戦争犯罪・P558)

     

    南京虐殺事件が起訴されているので、日本だけでなく世界も日本に人道犯罪の適用があったと思い込んでいるが、日本に対し人道犯罪の適用は1件もなかった。日本でB級戦犯について、BC級戦犯と呼称されているのは、日本にもC級・人道犯罪の適用があったかのように誤認させるためである。

    日本に対するB級通例戦争犯罪の適用について特徴的なのは、不作為責任の訴追である。ロンドン協定の際に、フランスなどから「戦争は犯罪では無い。」という主張があったように、戦争自体は死刑対象の重罪犯罪では無かった。ニュルンベルグ裁判では人道犯罪の多数の証拠で処刑できたが、東京裁判では人道犯罪の適用がなかったので、侵略戦争だけでは処刑出来なかった。そこで侵略共同謀議者を広汎に起訴し、A級侵略罪にB級通例戦争犯罪の不作為責任を適用して処刑しただけであった。その際、該当するB級通例戦争犯罪を特定せず、その犯罪の発生及び防止についての関与や責任の程度は、全く問題にされなかった。また、各地のB級戦犯裁判においては、日本人戦犯がドイツの1割程度しか起訴出来なかったので、処刑者を増やす目的で、上級者の不作為責任と共に下級受命者の実行責任も問われた。

     

     

    東京裁判に関連する日本人には理解されない事実1/3・2/3・3/3

     

    【2018.03.18 Sunday 04:51】 author :
    | 反日バイアスに嵌まった日本人には理解出来ない真実の歴史 | comments(0) | - | - | - |
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      【2018.07.20 Friday 04:51】 author : スポンサードリンク
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