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3637:東京裁判に関連する日本人には理解されない事実1/3
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     東京裁判に関連する日本人には理解されない事実1/3・2/33/3


    1、歪曲捏造史観に支配された日本

    日本人の歴史認識と言えば、思想信条と言論の自由によって、多種多様な歴史認識が存在すると考えられている。

    しかし現実には、戦後の歪曲捏造史観教育によって洗脳された大半の日本人は、反日バイアス史観に囚われてしまっている。

    この反日バイアス史観は、歴史を認識するに当たって標準となるべき歴史的事実や内外の法慣習の存在を無視した特定の政治思想を持つ集団の思い込み史観に過ぎず、普遍的な歴史認識たり得ない。

    このような反日バイアス史観の象徴として、東京裁判史観がある。東京裁判史観というと、日本の侵略戦争犯罪を裁いた東京裁判に準拠した歴史観を指すと全ての日本人が誤認している。しかし、村山談話に代表されるこの史観は、特定の政治思想を持つ人々が無知の日本人を騙すという明確な意図を以て、東京裁判判決自体を歪曲捏造した反日歴史観に過ぎない。

    例えば「日本はアジアを侵略し植民地支配した。」という大半の日本人が信じる村山談話の歴史認識については、東京裁判にはアジア侵略有罪判決は無く、アジアを侵略し植民地支配していた欧米に対する侵略が有罪になっているのである。また、各地の戦犯裁判でも植民地支配有罪判決は無く、逆に植民地支配妨害が有罪になっている。明らかに有罪判決を捏造して謝罪反省する村山談話が公表され、20年以上日本政府が踏襲してきたというのに、これに異議を唱える日本人は誰もいなかった。

    日本の侵略犯罪を認定した東京裁判の有罪・無罪程度は数分で確認出来る時代なのに、判決を歪曲捏造した偏向談話が何の検証もなく踏襲され続けてしまっているこのような反日バイアス史観は、日本現代史全般に及んでしまっている。これは、敗戦直後のGHQによるWGIP洗脳によって、日清戦争以来の日本を侵略国家と信じ込んでしまった世代が大量の偏向史観を拡散してしまっているので、現代日本人はこの既成反日史観からなかなか脱する事が出来ない。

    そこで本稿では、国際的に信頼性が高いと信じられているブリタニカ百科事典の記載に基づいて、日本の現代史を読み返してみたいと思う。ブリタニカの場合、外国人執筆者が反日であっても、史実の捏造まではしていない事、その影響のせいか、日本人執筆者の偏向も抑制されているからである。これは、女性基金資料でも同様の傾向が見られる。日本人研究者の場合には偏向資料になっていたものが、反日オランダ人との共同研究では、偏向解釈が行なわれていても、資料自体の中立性は維持されているので、執筆内容に関する事実認識への影響は小さくなっている。

     

    2、第1次大戦まで、全ての戦争は合法だった。

    中世ヨーロッパでは、相手の不正を懲らすための戦争は、正戦として正当化され、正戦論が形成された。しかし、グロチウスの『戦争と平和の法について』(1625年)で、正戦は否定しないが、自己の側に不正がある事を知り得ない「克服し得ない無知」による場合には、交戦者双方共を正当とみなければならないとして、正戦論の限界が指摘された。

    バッテルの『国際法』(1758年)では、戦争の正不正につき、国家を越えた判定者が存在しないために、国家がそれぞれみずから正当原因をもつと判断する場合には、その戦争を不正とみなすことはできないとする無差別戦争観が形成された。(11巻・戦争法・P560)

    このように第1次大戦まで、戦争は「他の手段による外交」であって正不正に関わらず国際法は、国家主権の行使である戦争を是認していた。(9巻・主権・P402)。

     

     

    3、戦争が合法であるため、第1次大戦において戦争惹起も合法だった。

    第1次大戦直後、ベルサイユ条約第7編の「戦争犯罪」条項に「ドイツおよびその同盟国の侵略により強いられた戦争の結果」とあるが、この「侵略」という用語については、単に相手国の戦争を、主観的に「不正な戦争」と主張するための用語であって、具体的に不法である根拠や客観的な定義に基づいて規定されたものではない。

    そして「強いられた戦争」とは、相手国の武力行使・先制攻撃により始められた戦争惹起行為を指す。

     

    大戦後の講和会議においては、他国に対する先制攻撃を、戦争を惹起する行為として非難する主張があったため、この条文が規定された。しかし、当時の国際法は戦争惹起を不法行為としておらず、ベルサイユ講和条約の予備会議において設置された「戦争惹起者の責任と刑罰の実施に関する委員会」の1919/3/29報告書は、戦争をもたらした行為の責任について、「その行為の惹起者を訴追したり、またはその行為を裁判所の訴訟の対象としたりすべきではない」として、当時の国際法慣習通り、戦争惹起を訴訟対象にすること、並びに惹起者個人の訴追に反対したため、ベルサイユ講和条約に戦争惹起が侵略行為と規定される事はなかった。

    同委員会においてアメリカ代表は、人道犯罪訴追に言及した委員会報告書の部分、および戦争について個人責任を有する者に「特別な措置」をとるべきであるとする委員会の結論に反対した。日本代表もまた、国家元首の政治的行為に対する責任についての委員会の結論に留保を表明すると共に、戦争の法規・慣例違反の行為を防止することを怠った行為を、戦争犯罪と見做すことに反対した。(12巻・第1次世界大戦・P94)

    米代表の反対は、ドイツ皇帝による市民処分命令と皇帝の個人責任追及に関するものだが、これらは当時の戦時国際法でも不法とされていなかった。日本代表の元首訴追の留保は、他国の元首に対する裁判管轄権がないとする国際法に準拠していた。また、戦争犯罪の不作為責任は、当時の国際法並びに世界中の各国軍刑法も否定していた。

     

     

    4、ベルサイユ講和条約の予備会議における侵略戦争定義の確定。

    前項で述べた「戦争惹起者の責任と刑罰の実施に関する委員会」は、「戦争を煽動し、またベルギー・ルクセンブルグの中立を侵犯した責任を有する者に対して特別な措置が採られるべき」旨勧告した(11巻・戦争犯罪・P557)。

    この勧告に基づいて、ベルサイユ条約第7編の「制裁」条項において、独皇帝ウィルヘルム2世を起訴し「国際道義に反し条約の神聖をこの上なく冒した。」嫌疑で審理に付すと定められた。しかしその後、皇帝が亡命していたオランダが引き渡しを拒否したため、裁判は成立しなかった(12巻・第1次世界大戦・P94)。しかしこれにより、史上初めて条約違反の戦争を侵略戦争とする定義が確定した。

     

     

    5、侵略戦争を行ったドイツに対する懲罰講和、。

    これまでの講和会議では、戦勝国と敗戦国の代表は一堂に会して、講和条件を討議する事ができた。ところが第1次大戦後のパリ会議には、勝者である戦勝国代表のみが列席し、条約案はまったく一方的に作成され、敵国側に手交された。ドイツ代表団には、提示された条約草案に対して文書による意見提出が認められたのみであった。その意見のうち若干の点は考慮されたが、改訂された条約草案は、5日以内に受諾しなければ戦争を再開するという脅迫つきでドイツ代表団に手渡された。ドイツがこの講和を「命令された平和」と呼んだのは、こうした理由による(12巻・第1次世界大戦・P91)。

    また、ベルサイユ講和条約では、侵略戦争は国家犯罪とされたため、侵略戦争を行なった犯罪国民を、同盟諸国による裁判に付す権利をドイツが承認する事、ドイツ政府が戦争犯罪人を同盟諸国に引き渡すべきことが定められた。

    こうしてベルサイユ講和条約は、人道に対する罪のための裁判に関する規定を設けず、単に前ドイツ皇帝に対して、平和に対する罪についての裁判を規定するにとどまった。

    また、戦争犯罪人を戦勝国に引き渡し戦勝国の法廷で裁判に付す事は、非人道的判決が下される虞があるため、ドイツは戦争犯罪人の引き渡しを拒否した。その結果、最終的には戦勝国も、ドイツの戦争犯罪人らがドイツのライプチヒ大審院で裁判される事に同意した。(11巻・戦争犯罪・P557)

     

    この侵略国に対する懲罰講和が先例となり、第2次大戦において侵略国とみなされた枢軸国に対しては、日本を除いて第1次大戦後のドイツに対する以上の懲罰講和が適用された。

     

     

    6、条約違反の戦争を、不法な侵略戦争とする国際法の根拠。

    戦争をする権利である主権の制限については、「諸国が国際司法裁判所の司法権に服する場合、諸国は実際には相互間に協定を結び、条約に従うのと同じ理由で国際司法裁判所の決定に従う。通常、諸国は強制機関がなくてもその条約上の義務を遵守しようとする。条約の存在理由は、両締結国がその合意を守るならば得られる利益にあるから、強制という要素が明らかでないかぎり、主権が制限されたとか移譲された得たとかいうことはできない」とされている(9巻・主権・P403)。従って、中立条約に限定されるのではなく、条約によって戦争について何らかの制限が定められていれば、国際司法裁判所の管轄権を承認するのと同様に、締結国相互に条約による制限を遵守する義務がある。この点に関し、ドイツは中立条約に違反する戦争を惹起したので侵略という平和に対する罪を犯したものとされ、従来は当然の権利であった「講和会議に出席し講和条件を討議する権利」が認められなかった。

     

     

    7、国際連盟における集団安全保障

    第1次大戦勃発直後の1915年3月、ジェームズ・ブライスらが「「戦争を回避するための諸提案」を公表した。これは国家が敵対行為を行なう事を制限すると共に、その制限に反して敵対行為に訴える場合には、すべての締約国は「有効かつ適切とみられる外交的、経済的または強制的な共同措置によって、攻撃を受けた国家を支援する事を約束」しようとするものであった。(日本では、集団安全保障というと集団で戦争をする権利のように誤認されているが)国際協調により戦争を抑制しようとするこの提案は国際的影響力を持ち、1917年アメリカによる「14カ条宣言」などの国際連盟設立主張に繋がった。(9巻・集団安全保障・P343)

    国際連盟によって「全国家により戦争を抑止する」という集団安全保障という概念が新しく生まれ、国際連盟規約は、紛争の処理に平和的手段をとることを義務として表明し、この義務が遵守されているかどうかを監視し、必要な場合制裁を適用する組織を設立した。この結果、国際法は戦争について主権国家を制限しうる力を持ったように見えるが、実際はそうではなく、国際連合によっても事態はそれほど変っていない。(9巻・主権・P402)

    その理由は、第4項で述べた第1次大戦直後に確定した筈の「条約に違反する戦争」という不正な侵略戦争の定義について、直後に成立した国際連盟の緊急措置及び強制措置によって全ての戦争を抑止できるという幻想により、この侵略定義が忘れられてしまったからである。

     

     

    <参考>

    国際連盟による戦争制限措置

    国際連盟規約11条の緊急措置は、戦争の勃発する危険性が迫った場合に戦争を防止すると共に、戦争が既に勃発してしまった場合にはその拡大を阻止するため、緊急措置を発動する事が予定されていた。まず、戦争または戦争の脅威は、連盟国のいずれかに直接影響すると否とを問わず、全て連盟全体の利害関係事項であるとして、集団安全保障の基本理念を表明すると共に、その際、連盟としては、「国際ノ平和ヲ擁護スル為適当且有効ト認ムル措置ヲ執ル」べきこととし、「此ノ種ノ事変発生シタルトキハ、事務総長ハ何レカノ連盟国ノ請求ニ基キ直ニ連盟理事会ノ会議ヲ招集」しなければならないというものであった。

    ところで、連盟が発足した当初は、安全保障については、むしろ違法な戦争に対する制裁の面に重点がおかれ、どちらかといえば、第11条はあまり重視されていなかった。しかし発足後実際に数多く援用されたのは、この第11条であった。ことに、1925年10月19日のいわゆるデミ・カブウ事件(ギリアャ=ブルガリア国境のデミ・カブウで、ギリシア軍の歩哨がブルガリア側からの発砲によって射殺され、これがきっかけで両国守備隊の間で戦闘が開始された。このとき、理事会はただちに行動を起こし、敵対行為の停止と両国の国境内への撤退を要請すると共に、英仏伊の士官からなる委員会を現地に派遣しその実行を監視するなどの措置を迅速に行ない、みごとに紛争を解決した)などから、緊急措置によって戦争を防止するという、安全保障のこのような面の重要性が改めて認識されるようになった。(9巻・集団安全保障・P343)

     

    国際連盟による戦争強制措置

    国際連盟規約16条の強制措置は、すでに発生した戦争に対し、連盟が制裁を発動し、それによって戦争を抑圧することを目的としたものであった。連盟規約は第12条、第13条あるいは第15条において、連盟国間に「国交断絶ニ至ル虞アル紛争」が生じた場合は、仲裁裁判などの平和的手段によることなしに、ただちに戦争に訴えてはならないとか、裁判の判決に服した当事国に対して、他方の当事国は戦争に訴えてはならないとか、あるいは当事国を除いた他の理事国の全員一致による理事会の紛争解決のための勧告に従う当事国に対しては、戦争に訴えてはならないなど、戦争に訴えてはならない場合をさまざまに規定している。第16条では、そのような規約による「約束ヲ無視シテ戦争ニ訴ヘタル連盟国」は、当然ipuso jure「他ノ総テノ連盟国ニ対シ戦争行為ヲ為シタルモノ」とみなされ、「他ノ総テノ国ノ国民ト違約国国民トノ間ノ一切ノ金融上、通商上又ハ個人的交通ヲ防遏スヘキコト」とされた。つまり、加盟国が規約に違反して戦争に訴えた場合には、当然他の総ての国に対して戦争をしたことになり、他の総ての国はその国との金融、通商その他の関係を断たなければならないということになっていた。

    もっとも、実際には、そのような厳しい形では適用されず、連盟設立翌年の1921年第2回総会で採択された第16条適用のための指針では、次のように緩和されて適用されることになった。まず問題となるのは、違法な戦争が行なわれたかどうかをだれが決定するのかということであるが、それについては、連盟の機関ではなく、連盟国それぞれが決定するものとされた(指針第4項)。連盟では、総会でも理事会でも、評決は原則として全会一致によることになっており、加盟国それぞれの賛成を得ないかぎり、決議しえない仕組みになっていた。したがって、連盟国がそれぞれ決定するとしたのは、右のような連盟の構造からみて、止むを得なかったといえる。しかし、個々の国家の決定によることになると、全体の足並みがそろわず、そのため、制裁の効果がそがれるおそれがないとはいえなかった(実際に、1934〜36年のイタリア=エチオピア戦争で発動された連盟の制裁には、オーストリア、ハンガリー、アルバニアが第16条適用反対を表明し参加しなかった)。

    次に指針は、第16条が、当然他のすべての連盟国に対し戦争行為をなしたものとみなすとしている点に関して、規約に反する戦争がなされることによって、ただちに他のすべての連盟国との間に戦争状態が発生するという趣旨ではなく、連盟国が違約国に対して戦争行為を行ない、あるいは戦争状態を宣言する権能が与えられるにすぎないものとした(同第3項)。また、制裁発動の形態については、一切ノ措置をただちに発動するのではなく、まず軽微な措置から始めて、漸次厳格な措置に移ることができることとした(同第14項)。

    この指針の中で、なによりも注目されるのは、規約に違反したものとして連盟の制裁(強制措置)が発動されるかどうかは、連盟の機関が決定するのではなく、個々の連盟国が決定するものとされたことであった。総会や理事会が精細に関係するとしても、それは、当事国に意見を述べる機会を与えるとか、連盟国に判断の資料を提供するとか、あるいは連盟国の行動を調整するというだけの機能にとどまり、根本的には連盟国各自の決定によるという体制がとられたのである。この点は連盟の集団安全保障体制の一つの特徴ということができる。

    いま一つ注目されたのは、強制措置といっても、経済封鎖その他の非軍事的措置に重点がおかれ、軍事的措置についてはほとんど考慮が払われていなかったことである。第16条2項は、理事会には「前項ノ場合ニ於テ連盟ノ約束擁護ノ為使用スヘキ兵力ニ対スル連盟各国ノ陸海又ハ空軍ノ分担程度ヲ関係各国政府ニ提案スル義務」があるというように、一応軍事的措置に触れている。しかし、事態が発生したのち、初めて理事会が兵力の分担程度を決定するというのであって、これだけでは電撃的に進行する近代戦に対処することはとうてい不可能といわざるをえなかった。それに、理事会が兵力の分担程度を提案するとしても、理事会は勧告以上に出ることはできないのであって、加盟国としてはそれに従う義務はなく、はたして理事会の決定どおりの体制が整うかどうかも、きわめて疑問であった。(9巻・集団安全保障・P344)

     

     

    8、国際連盟による戦争制限措置が不充分だった理由

    従来の政治家や国際法学者は、一様に、主権国家の戦争を行なう権利を審理し、もしくは制限するいかなる自然法、又は最高法は存在しないという考えに立ち、それに基づいて行動してきた。これに対して、国際連盟は、(1)侵略戦争は直接の犠牲者に対してだけでなく、全人類社会に対する犯罪である。したがって、(2)侵略戦争の阻止に参加することは、全国家の権利であると同時に義務である。そして、(3)もし全国家がそのように行動すれば侵略は防止できるというものであった(7巻・国際連盟・P518)。

    不法な侵略戦争を、国際協調によって制限しようとする連盟の理念は正しかった。しかし、第1次大戦後のベルサイユ講和会議諮問委員会で論議された「条約に違反する戦争を不法な侵略戦争とする定義」を国際連盟は採用しなかったために、侵略戦争について明確な定義がなかった。

     

    国際法においては、その戦争行為が自衛戦争なのか侵略戦争なのかは、当事国が決定するものとされており、1928年不戦条約においてもこの規範が適用された。これに対して第三国や国際連盟が、明確な根拠も無しに侵略戦争であるか否かを決定し、その侵略戦争を回避するために得略国を制限しようとする行為は、当事国の国家主権に対する侵害であった。その侵略と思われた敵対行為が事実侵略戦争だった場合には、防衛国支援は正当であったとしても、もし実際には自衛戦争であった場合には、逆に侵略国を支援する事になり、侵略戦争に加担する事になってしまう。

    国際連盟においても、紛争当事国のいずれが真の侵略国であり、いずれが犠牲者であるかについての意見の不一致によって、危機状況下の連盟の行動が、しばしば渋滞するであろうという主張があった。これに対しては、紛争を仲裁裁判またはその他の平和的解決に付することを拒否した国家が侵略国であるという回答が、十分にこたえうるもののようであった(7巻・国際連盟・P521)。しかし、その場合であっても、自衛国が「平和的解決に付していては自衛目的が果たせない」と判断する状況は当然に有り得る。従って、紛争を仲裁裁判またはその他の平和的解決に付していなかったとしても、「侵略国である」と断定する事は出来ない。

     

    国際連盟による戦争制限が全会一致を原則としていたために、戦争制限が不充分になったという主張がある。しかし、「条約違反の戦争を侵略戦争とする」明確な定義が採用されなかった状況では、第三国が戦争当事国のどちらが侵略国かを決定する事は、各加盟各国の利害関係も絡んで難しく、結果として、全会一致出来ない事によって、誤った一方的な侵略戦争判断を防ぐ効果があった。

    但し、国際連盟に対して日本が提案した人種差別撤廃が否決され、当時の国際社会が自決権を認めていなかった状況では、全会一致であっても正しい判断に至る保証はなかった。

    例えば、イタリアがウェルウェルの国境事件に関し、エチオピアに巨額の賠償を要求したが、エチオピア政府はこれを国際連盟に提訴した。その結果、調停委員会が28年のイタリア=エチオピア条約の規定に従って任命された。調停委員会は1935年、ウェルウェル事件に関しては、両国いずれも非難すべき点はないとの結論を出して会議を終えた。しかしイタリアは、エチオピアに対して同年10月3日軍事行動を開始した。国際連盟はイタリアに経済制裁を加えることを決議した。その後イタリア軍は北部エチオピアを占領し、36年5月5日アジスアベバに進駐した。ハイレ・セラシエ皇帝は、ジュネーブで連盟総会に出席し、自国民のために訴えた。だが皇帝のイタリアに対する主張は支持されず、連盟総会は、逆にイタリアへの経済制裁を中止すべきだという決定を行った。エチオピアはエリトリアとイタリア領ソマリランドに合併され、イタリア領東アフリカとなり、皇帝はイギリスに亡命した(3巻・エチオピア・P95)

    この事実は、イタリアによるエチオピア侵略において、紛争初期段階では緊急措置が適用されず、武力行使開始後に強制措置の経済制裁が適用されたが、エチオピア首都攻略後、皇帝が総会で侵略を訴えても連盟は経済性制裁を中止し、エチオピアはイタリアの植民地になった.

    これは、主要な連盟加盟国はアフリカに植民地を有し、人種差別が正当化されていた国際法によって、全会一致が正しい結論に至らなかった一例である。

     

     

    9、国際連盟の弱体化とアメリカによる戦争煽動

    第1次大戦当時既に超大国であり、常任理事国予定であったアメリカが国際連盟に加盟しなかったため、国際連盟の威信は低下した。また5常任理事国のうち、1933年日本・ドイツ(26年追加盟)が、1937年イタリアが脱退し、1939年ソ連(34年追加盟)が除名されたため連盟は弱体化した。しかし、ソ連除名まで連盟による戦争抑止機能は失われていなかったとも言える。第2次世界大戦が起きてしまったのは、連盟を軽視したアメリカが戦争を煽動したからである。

    日清戦争後の中国利権分割競争に出遅れたアメリカは、日本が得ていた中国利権を奪い取るために反日政策を採り、中国側の以夷制夷策を利用して日本に対する牽制・干渉を繰り返し、中国の取り込みを図った。そして満州事変後、アメリカの反日に連盟が同調しなかったため、アメリカは連盟を無視し、独自に日本敵視体制に移行した。その結果、中国がドイツ軍事顧問団の指導を受けて第2次上海事変を惹起すると、これを「日本による中国侵略戦争」とプロパガンダして隔離演説を公表した。そして、連盟の建前であった「侵略戦争は、全人類社会に対する犯罪である。侵略戦争の阻止は、全国家の権利であると同時に義務である。」という理屈を持ち出して、第25項で述べる通り、日本に対する侵略戦争を行なっていた中国に対し英蘭と共同で中立義務に違反する軍事経済支援を行ない、日本を経済封鎖して戦争を煽動した。その結果、日本は自衛のための戦争惹起に追い込まれたのである。このような、アメリカによる独善的な正戦論の復活によって、戦争は拡大した。

    ヨーロッパ戦線においては、ドイツによる不可侵条約違反のポーランド侵攻により、枢軸国と連合国間の戦争が開始された。しかしアメリカは、不可侵条約違反の戦争惹起を侵略戦争とは認識しておらず、また日本以外の枢軸国を隔離演説の対象国にしていなかったにも関わらず、単に連合国との交戦を侵略戦争とする正戦論の復活によって、イギリスなどの連合国に対して中立義務に違反する軍事支援を行なって戦争を煽動した。

     

     

     

    <参考>

    国際連盟からの脱退・除名

    連盟からの脱退により、連盟による戦争制限措置が無効化したという誤解があるが、実際の脱退までには2年間の猶予期間が設定され、その間連盟による戦争制限措置は有効であり、脱退国の復帰も可能であった。

    ・1933年3月、日本の脱退

    1931年9月満州事変の勃発直後、中国の提訴を受け、日本が提案者として、理事会が実地調査のため国際連盟日華紛争調査委員会を設立派遣した。委員会は、イギリス、フランス、イタリア、アメリカ、ドイツ各1名の5名の委員から成り、団長リットン伯爵の名にちなみリットン調査団とも呼ばれた。委員会は翌32年2月から日本、中国、満州の各地で現地調査を行ない、10月に報告書を公表した。それは日本の行動が侵略的であるとしながらも、満州地域における赤化の脅威を指摘し、満州を中国から切り離して、自治を認めるべきだとした。33年2月、連盟総会はこの報告に基づき満州を国際管理下の自治領とし、日本軍は撤退すべしとの勧告案を賛成42、反対1(日本)、棄権1(シャム)で可決した。日本は同年3月28日国際連盟を脱退する旨通告した。(小項目2巻・国際連盟日華紛争調査委員会・P830)

    1932年1月、アメリカは、日本の満州進攻を中華民国に対する侵略として、不戦条約に違反する一切の取極を認めないとするスチムソンドクトリンを公表したので、日本では日本による満州侵略が事実と信じられている。しかし、満州は旧清国の領土であって、中華民国の領土ではない。また事変当時、中華民国・張軍閥は日本との条約を遵守しないばかりか、日本人居留民だけでなく中国人にまでテロ攻撃し、共産主義者によるテロも頻発する危険な状況であり、日本による自衛戦争であったことはリットン報告でも言及されており、不戦条約違反には当たらない。

    日本の満州進攻を批判したアメリカだが、国益を優先し日本に対する経済制裁には反対するなど、対応に一貫性が無かった。満州民族国家である満州国の建国は、1918年1月のウィルソンによる14カ条の平和原則、1941年8月の大西洋憲章における民族自決に反するものではなく、実際問題として、満州国が存続していた場合を想定すれば、ソ連など共産国に対する牽制と共に、中国やアジア諸国の共産化を防げた可能性があり、戦後共産国に対峙してきたアメリカにとって、大きな国益となっていたことは明らかである。

     

    ・1933年10月ドイツの脱退

    ドイツは、協商国側が平和条約の軍備制限をもう4年間維持しようとしている事に抗議して、連盟を脱退した。連盟がドイツだけに不利な軍縮を要求しようとすれば、連盟脱退という抗議手段があり、逆にドイツの軍備拡張を招くという教訓になった。

     

    ・1937年12月イタリアの脱退

    1935年10月、ムッソリーニはあらゆる説得を排して、公然たる侵略計画のもとにエチオピアに侵入した。規約に基づく経済制裁を意に介せず、ムッソリーニは翌年夏までにエチオピア全土を占領、併合したのである。この事件における敗北から連盟は立ち直れなかった。当初ファシスト政府は、連盟の迅速な行動に驚いた。イギリスの指導下に、わずか3カ国(アルバニア、オーストリア、ハンガリー)を除く全加盟国は、イタリアに対する武器および石油を除く各種原料の禁輸と、あらゆる借款供与の停止、ならびにイタリアからの全輸入の禁輸に同意した。12月までにこれらの措置は大きな効果を示しはじめ、加盟国は石油の輸出禁止をも考慮するにいたった。それは、ムッソリーニの軍隊をエチオピアから撤退させる上で、即効を発揮するかにみえた。しかしムッソリーニは、英仏政府の突然の行動によって救われた。英仏政府は侵略者に最大限の満足を与えるような解決を、イタリアとエチオピアに提案したのである。すでに実施に入った制裁はさらに数ヶ月間続いたが、それらをもってしては、イタリアの勝利を妨げることはできなかった。1936年5月、イタリアはエチオピアを併合し、7月、総会は経済制裁を停止した(7巻・国際連盟・P523)。その後、1936年10月、イタリアはローマ=ベルリン枢軸を結成し、翌年12月連盟を脱退した。

     

    ・1939年12月14日理事会決議によりソ連除名

    1939年12月、、ソ連が不可侵条約を破棄してフィンランドを侵略したため、フィンランドは連盟に援助を要請した。総会はこれに基づいてフィンランドへの援助を決定し、理事会は、連盟からソ連を除名した。(7巻・国際連盟・P523)

    連盟は、各国に支援を求め、諸外国から11000名の義勇兵がフィンランド軍に加わり、英仏は軍需物資を提供した。同じく軍需物資を提供したスウェーデン、ノルウェーは、英仏が共同で派遣することになった遠征部隊の自由通過を拒絶した。約100万のソ連軍に善戦する20万に満たないフィンランド軍は、やがて弾薬が不足し、兵員の過労から崩壊寸前になり、フィンランド政府は1940年3月6日降伏を決定した。

    ソ連は、1940年3月12日、フィンランド正統政府と、モスクワで講和条約を結んだ。これによりフィンランドはビボルグ、ベチェンがを含むカレリア地峡および若干の島嶼とフィッシャー半島の半分とをソ連に割譲し、ハンゲ海軍基地を貸与することを認めた。その結果40万以上のフィンランド人が立ち退かなければならなくなった。(12巻・第2次世界大戦・P229)

     

    ソ連に侵略されたフィンランドは、その後、防衛のために枢軸側に加盟したが、侵略国ソ連と共謀したアメリカはフィンランドを侵略国扱いして、戦後の講和会議参加を認めなかった。

     

     

    10、中国分割競争に出遅れたアメリカ。

    1928年不戦条約は、アメリカ・ケロッグ国務長官による、他国に対する自衛目的の戦争惹起容認と、侵略戦争は非とするが侵略戦争か自衛戦争かの決定権は当事国にあるという留保によって成立した。この留保には戦争放棄の条約趣旨を無効化するものという批判があったが、当時の国際法慣習に準拠しており、その結果、主要国を含む63カ国が批准する重要な条約となった。

     

    現代中国は、条約は利用するものとしか考えず、国際法を遵守尊重しない。この認識は、中国が国際社会に登場した以降、アメリカの過剰な中国擁護政策によって形成されたものである。

    阿片戦争以降、中国自身の国際法慣習軽視政策に付け込まれ、中国はイギリスをはじめ列強からの分割支配・侵略を受け続けた。1895年の日清戦争後、日本が中国の開港場で各種の製造業に従事しうる権利を得たが、アメリカを含む列国は最恵国条款によって同等の特権を得た。これから以後列国は、上海、天津、漢口などに紡績、造船、タバコ、マッチ製造などの工業を興し、この近代工業の影響で中国内の民族工業も興ったが、外国企業の経営力に及ぶものでは無かった。

    1898年ハワイを侵略し、スペイン植民地侵略によってフィリピン・グアム・キューバ・プエルトリコを得たアメリカが、中国の市場性を知って中国に進出しようとした時には、華南はフランス、山東はドイツ、揚子江一帯はイギリス、長城以北はロシアの勢力範囲となっていて、それぞれ独占的な権益の確保に努めていたので、アメリカが入る余地は既に無かった。そこで1899年、米国務長官ジョン・ヘイは、これら列国の独占体制を打破して中国進出の道を見出そうと、中国の門戸開放、機会均等に関する覚書を各国に送って、列国の勢力範囲内における関税、港湾料、鉄道運賃などの平等を求め、各国とも原則的にこれを承認した。しかし現実はアメリカの希望とかけ離れていて、各国とも勢力範囲内における独占的権益を捨てるつもりは無かった。(13巻・中国史・P144)

    日本以外の列国が得た中国利権は、侵略乃至武力を背景とした威圧により獲得したものであるが、後発のアメリカによる利権分割要求に対し列国が譲歩する理由は無かった。

     

    1894年日清戦争は、朝鮮半島防衛のための明確な自衛戦争であったが、列強の干渉もあり戦勝で得た日本の中国利権は小さかった。その後日本が得た主要な中国利権は、日露戦争によって満州からロシアを排除した結果、ロシアの中国権益を譲渡されたものと、日英同盟により参戦を要請された第1次大戦によって、青島からドイツを排除した結果、ドイツの中国権益を譲渡されたものであって、列国のように中国侵略によって得た利権では無かった。

    中国権益を得られなかったアメリカは、日本を侮り日本の中国利権を狙って中国を擁護し、日本に対する妨害排除を画策するようになる。

     

     

    11、1900年義和団事件と英米の対日観

    1896年露清密約は、ロシアによる満州の特殊権益と、対日軍事同盟を定めるもので、三国干渉後の清国側の対日警戒感とロシアによる李鴻章への賄賂によって締結された。その後清国の対日賠償借款供与の担保として、1898年ロシアは旅順・大連の租借権と南満州支線の鉄道敷設権を、イギリスも長江流域の鉄道敷設権と威海衛の租借権を得た。またこれに刺激されたドイツは、宣教師殺害を口実に膠洲湾を占領、1898年3月膠洲湾租借権を得たが、アメリカがこれらに干渉する事はなかった。

    このように自ら列国による蚕食を招いた清国の惨状によって、ドイツ権益下の山東で生まれた義和団は扶清滅洋を唱え、列国に対する排外武力闘争を起こした。

    義和団が北京を包囲し、列国公使団や居留民、中国人キリスト教徒が孤立籠城する中で、柴五郎中佐率いる日本兵が籠城を成功させた。ロンドン・タイムスの社説は「籠城中の外国人の中で、日本人ほど男らしく奮闘し、その任務を全うした国民はいない。日本兵の輝かしい武勇と戦術が、北京籠城を持ちこたえさせたのだ」と記し、柴中佐にはイギリス・イタリア・フランス・スペイン・オーストリア=ハンガリー、ベルギー・ロシアから勲章等が授与されている。アメリカからの叙勲の有無は不明である。

    世界中の民族を知るイギリスは、日本人・日本兵を高く評価し、1902年に日英同盟を成立させた。一方、民族性よりも「中国4000年の歴史」とその市場性を評価するアメリカは、後に英雄の日本兵をアメリカ兵にアメリカウォッシュした映画を制作したように、日本人の評価には至らなかった。

     

     

    12、第2次露清密約と日露戦争

    義和団事件後の1900年第2次露清密約において、清国はさらに満州全土の権益をロシアに与えてしまっていた。この結果、ロシアの朝鮮南下を招いたのだが、1899年から列国に「中国の門戸開放、機会均等」を要請していたアメリカは、ロシアの満州占領に対して、日英と共に抗議したがロシア軍の撤退は履行されず、日本は自衛のための日露戦争が避けられなかった。

    1904年日露戦争勃発後に露清密約の存在が慶親王により公表され、その後この密約は破棄され、清国の中立が宣言された。しかし清国が一方的に密約破棄を宣言しても、日露開戦時は自動的に清国も日本と交戦状態にあり、また密約破棄した清国が、ロシアに与えていた鉄道・港湾権益を剥奪出来たわけではないので、実質的な中立は成立していなかった。ロシアは清国の許諾を得て、満州内に強固な要塞・陣地・軍港を構築し、兵員や物資を供給して日本を攻撃した事は、清国が直接戦闘に参加していなかったとしても日本に大きな損害を与えていた事になる。

    日本やアメリカには、「日本とロシアは、清国領土で他国同士が交戦し清国領土を奪い合った。」という論調がある。しかし、国家存亡の大戦争の結果日本はロシアに辛勝したが、日本が得た戦後賠償は、日本軍挺身隊が最深部まで進出した地点までの南満州のロシア権益を譲渡されたもので、露清密約で定められたレベルのロシア権益は含まれておらず、日本軍の満州占領域は清国に返還されている。11万余の犠牲者と多額の戦費を掛けたにも関わらず、アメリカの仲介で金銭賠償が得られぬまま日露は講和したが、この戦費の償還は、1986年まで掛かる莫大なものであった。

    日露戦争後にアメリカは、中国利権を狙って画策するが、日英露はこれを拒否する。アメリカは「中国の門戸開放、機会均等」を主張しながら、ロシアによる満州侵略に対し具体的行動はせずに、戦勝後の日本に対し利権放棄を要求するのだが、被害が大き過ぎた日本は、すぐにはこれに応じる事が出来なかったということである。

     

     

    13、日露戦争後の日本の大陸政策

    元老伊藤や林薫外相ら穏健派は、日露戦争後の早期撤兵と外国商品への差別的取り扱いを廃止を主張し、それによって、満州に経済的関心を持つアメリカ、イギリスとの摩擦を少なくし、また清国側ともできるだけ協調関係を維持しながら、大陸政策を進める必要を唱えていた。1906年5月、元老と政府首脳の協議会で、満州経営について検討され、軍政の早期撤廃と各国との通商に満州を門戸開放する政策が確定した。

    このような穏健路線で大陸政策が進められることになったものの、北京条約によりロシアから移譲された満州権益の清国側の承認を得たが、この権益に対する清国側の抵抗と妨害により紛糾した。その後、1908年9月の日本政府決定は「清国官民ノ悪寒ヲ挑発スルガ如キ措置ヲ避ケ、専ラ名ヲ去リ実ヲ取ルノ方法ニ依リ我勢力ヲ同国内ニ扶植」するといった多分に柔軟なものであり、また譲歩あるいは経営の「利益ヲ清国側ニ分与スル」という措置に出たり、あるいは満鉄併行線(法庫門鉄道)の施設についても、満鉄への損害補償を認める条件で反対しないという、協調主義に立つものであった。(15巻・日本外交史・P274)

     

     

    14、日英同盟と日露協商

    1906年10月、サンフランシスコ教育委員会による日本人学童差別に始まる日本人移民排斥に対し、1907年11月日本は移民自主規制を明らかにした「日米紳士協約」、1908年11月大平洋の現状維持と中国での機会均等主義の尊重をうたった高平・ルート協定で譲歩を続けたが、アメリカは第2次日英同盟で強化された軍事提携を弛緩させるために、1911年7月アメリカを日英同盟の対象国から除外する第3次同盟協約に改訂させた。

    日露戦争後、当然日露関係は悪化したが、フランスの仲介により1907年7月第1次日露協商条約が成立し、日露間は協調関係へと移行した。アメリカは、日露の満州権益奪取を画策し満州緒鉄道国際化案を提議したが、日露は1910年7月、第2次日露協約を調印し、第1次で相互承認した権益の強化と共に、アメリカの策略に対抗するため、鉄道運営面での協力を定め、特殊権益の擁護防衛の為共同行動をとることとなった。

    アメリカによる中国利権目的の干渉に対する懸念によって、日露協商が成立してアメリカに対抗出来た日本だが、1917年ロシア革命により協商体制は消滅し、1921年アメリカの画策により日英同盟は破棄されることになる。

     

     

    15、1911年、辛亥革命後の列国による中国侵略

    かねてロシアはモンゴルに勢力をもつダライ・ラマを懐柔して南下をはかり、イギリスはこれに対抗してチベットに勢力を扶植しつつあったが、1911年辛亥革命の混乱に乗じて外モンゴル、チベットが独立をはかると、ロシア、イギリス両国はこれを援助した。中国はこれに抗議して、その主権を保持する事は出来たけれども、外モンゴル、チベットの自治を許さなければならず、両地は事実上、それぞれロシア、イギリスの保護国に等しいものとなった。

    ロシア、イギリスよりも露骨であったのは日本の侵略である。日本は日露戦争に勝って、ロシアが満州にもっていた権益を受け継いでから満州の植民地化に努め、さらに中国全般にわたって勢力の扶植をはかった。1914年に第1次大戦が起こると、日本はこれを中国進出の絶好の機会とみてただちにイギリス、フランスにくみしてドイツに宣戦を布告しその東アジアにある根拠地である青島を攻略し、1915年に入ると袁世凱にいわゆる21カ条の要求を提出した。この要求のなかには「必要な地方の警察は、日中合弁とし、または日本人を傭聘すること」、「福建省における鉄道、鉱山、港湾の設備に関し、日本資本家の優先権を認めること」などがあり、これらの要求が全部いれられれば中国は完全な日本の植民地になってしまうものであった。さすがに日本も要求を留保せざるをえなかったが、それでもドイツが山東にもっていた権益の継承、旅順・大連租借、満鉄経営権の99年延長、その他満州、モンゴルにおける多くの特権を獲得した。次いで段祺瑞が北方の政権を握ると、1916年10月から2年間に3億円(2.4億円)をこす巨額の借款を段祺瑞に供与して、その勢力強化を助け、段祺瑞を完全に日本の傀儡として中国の政治と経済とに関与した。日本はまた軍事的支配をもはかり、ロシア革命が起こってシベリヤが混乱すると、中国と共同して北方からの脅威を除く事を名目に、日中陸海軍共同防衛軍事協定を結んで、一部の中国軍を日本の支配下に収めた。

    1915年21カ条問題が解決すると、アメリカが中国に送り込んだ政府顧問・グッドノウは帝政賛美論を公表して中国世論を煽り、翌1916年袁世凱は中華帝国皇帝に即位した。しかし、1915年末の雲南独立、翌1月から貴州・3月広西が独立、北京の各国外交団も袁世凱の動乱責任を追及したため、袁世凱は帝政を取り消した。それでも動乱は収まらず、広東・浙江・陜西・四川・湖南が相次いで独立するうち、6月、袁世凱は死没した。その後も、北京政府支配の軍閥闘争、広州の孫文ら革命派軍閥抗争など混乱が続いた。(13巻・中国史・P148)

     

    上記は、ブリタニカにおける日本人中国史学者の市古宙三氏の執筆であるが、日本人執筆項目の特徴は、国際法に基づく中立的な記述というより、アメリカ・中国などによる日本帝国主義批判の立場で書かれている場合が多い。

     

    イギリスによるチベット干渉は、単にロシアのチベット干渉に対抗する限度のものであり、保護国化はしていなかった。これは、1948年の中共によるチベット侵略が可能だった事からも明らかである。

    一方、1911年モンゴル独立宣言後の1913年に、モンゴル軍が内モンゴル解放目的に進攻し、中国軍を排除して内モンゴル解放が叶うかに見えたが、ロシアによる介入で独立は叶わなかった。1915年ロシアによる干渉・キャフタ協定により、内モンゴルと外モンゴルの自治が承認され、外モンゴルはロシアのちソ連の従属国となった。その後のモンゴル民族に対する弾圧・粛正と比較した時、英露よりも「日本の露骨な侵略」とまでは言えない筈だが、日本の行動に悉く干渉し続けたアメリカは、英露に対しては何の干渉もしなかった。

    上記解説の「日本の露骨な侵略」について、「日露戦争に勝って、ロシアが満州にもっていた権益を受け継いでから」までは単なる事実だが、続いて「満州の植民地化に努めさらに中国全般にわたって勢力の扶植をはかった。」と中国主張をそのまま書いている。しかし、日本がロシアから割譲された南満州の鉄道と附属地以外の満州を植民地化していた事実はない。それは、張軍閥の満州支配や1929年の中ソ紛争が起きている事からも、日本が権益化していなかった事は明らかである。また、南満州の鉄道と附属地の権益警備のために駐屯していた日本軍は、周辺地域の治安維持も行っていたため、混乱する中国本土から年間100万人程度の漢民族が流入してきたといわれ、特に日本領域の附属地には中国政府役人まで移住してきたように、日本の植民地というより、漢民族の植民地になっていた。また日本が、安全保障上華北にも勢力の扶植を図ったのは事実だが、それは侵略とまでは言えないものであり、また中国全般にわたって勢力の扶植を図るのは不可能であった。

    1914年の第1次大戦では、単に勝ち馬に乗って英仏に与して青島を侵略したかのようにいわれているが、日英同盟によって辛うじて日露戦争に勝利した日本が、第1次大戦においてイギリスの要請を受けて、アメリカ西海岸やインド洋、地中海にまで護衛哨戒艦隊を派遣し、イギリスの青島要塞攻略戦に共同参戦するのは、同盟国として当然の義務であった。

    また、1915年の21カ条要求についても、「中国を日本の植民地にするような要求があった」、と袁世凱によるプロパガンダをそのまま記述している。しかし、露清密約や他の列国と中国間の条約・協定と比較して、日本の要求は突出したものではなかったし、その要求は留保している以上、外交交渉の一部であって日本批判には当たらない。

    ドイツの山東権益継承というが、当初の約束通り直接中国からの賠償を得る事なしに権益を中国に返還している。旅順・大連租借は、日露戦争の結果得た正当な権益。満鉄経営権の99年延長は、ロシア権益残余期間を割譲されただけのため延長を要した結果である。、その他満州、内モンゴルにおける多くの特権を獲得したというが、中国がロシアに与えていた権益を回収したかったなら、日本と共にロシアと戦い直接回収すべきだったもので、日本に戦わせて、ロシアの植民地化していた全満州・内モンゴルを奪還出来た中国として、日本のロシア権益継承を非難するのは不当である。

     

    袁世凱後の段祺瑞政権の勢力強化を助けた事を「完全に日本の傀儡として中国の政治と経済とに関与した。」と非難するが、革命の混乱が続く中国で、袁世凱の後継・段祺瑞政権を支援する事は中国の安定に貢献する事であって、アメリカがやった袁世凱を皇帝にし中国を大混乱させて権益を得ようとするよりは、全く正当であった。日本による借款を中国傀儡化と批判するのに、同時期の米・英・仏による借款について、傀儡化非難しないのは不当である。段祺瑞の中国北京政府を支援した日本を非難するのは、段祺瑞政権を倒したかった中国共産党と、袁世凱の要望通りブライアンノートで日本を非難し、皇帝にして利権を得ようとした袁世凱に死なれ、後継の段祺瑞を取り入れられなかったアメリカによる反日工作である。

    日中陸海軍共同防衛軍事協定についても、北方からの脅威は、ドイツだけでなくソ連軍の侵入、コミンテルンの浸透があり、日本、それ以上に反共中国国民党政府にとっての脅威であり、日中のみならず世界の反共国家の国益であった。日中軍事協定非難は、中国共産党と、共産党に危機感の無かったアメリカが「中国軍を日本の支配下に収めた。」と非難していただけである。

    中国政権の安定を列国に要求していたアメリカによる袁世凱皇帝工作は、中国各地の軍閥の独立を招く大動乱となった。また、チベット、モンゴルも独立宣言し、中国北京政府の権威は全く失われてしまった。アメリカは中国に政府顧問を送り込み、袁世凱の意向を受けて反日政策を採り、中国を大混乱させて、どのような利権を得たのだろうか。

     

     

     

    16、1915年、ブライアン国務長官による不承認主義

    日本による山東省・青島攻略直後に公表された1915年対華21カ条要求・日華条約について、当初 1915/3/13の第一次ブライアン・ノートでは、アメリカはイギリス・フランス・ロシアと同様に、「東アジアにおいて日本の特殊権益が認められる」という態度を示していた。しかし、イギリス外相が日本に対して「日本の権益不承認だったドイツに中国が接近し、ドイツが日中衝突を画策している。」旨警告した事を知ると、日華条約成立後の1915/5/11の第2次ブライアン・ノートでは「アメリカ政府は日中両国政府間にすでに結ばれ、もしくは結ばれることあるべきいかなる合意、もしくは約束について、中国におけるアメリカおよびアメリカ市民の条約上の権利、中華民国の政治的もしくは領土的保全、門戸開放主義として一般に知られた中国に関する国際的政策を害するものは、これを承認することが出来ない。」と、日本の権益に対して不承認の立場に変った(ブライアン国務長官から珍田大使宛文書)。

    しかし不承認公表当時、アメリカは未だ第1次大戦に参戦(1917年)しておらず、日露戦争の当事国でもなかったので、日露戦争・第1次大戦の戦後処理に関わる日華条約について干渉する権原は無かった。

    このアメリカの不承認転向は、国際法上合法的に得た日本の中国権益について、中国を侵略して権益を得ていたドイツが不承認を表明すると、三国干渉の再来を狙った中国がドイツに接近し、ドイツも中国の反日を煽り、日中戦争に誘導しさらなる利権を得ようとしている事をアメリカが知ったためである。

    これ以降も、アメリカの承認を得た中国は国際法を尊重・遵守せず、西原借款の返済を拒否し、国家がテロ組織を抱えて、公然と日本居留民にテロ行為を仕掛けていたが、アメリカ・ドイツはこれを支援し日本と敵対し続けた。

    イギリスの警告は、第2次上海事変において中国による日本侵略戦争をドイツが軍事支援したことで現実となった。この時、アメリカは中国の日本侵略を、日本による中国侵略にすり替えて、隔離宣言を公表して日本を戦争に引きずり込んだ。

     

    清国は1900年第2次露清密約でロシアと対日軍事同盟を締結しながら1905年「満洲ニ關スル条約」で、1905年ポーツマス条約によってロシアから日本に譲渡された満州利権を承認したほか付随する利権も認めた。しかし、国家存亡を懸けた大戦争を行なって日本が得た満州利権は、ロシアが得ていた満州利権の一部に過ぎず、労せずして満州全土が返還された清国にとっては有利なものであった。また露清密約によって満州全土でロシア軍の自由行動を認めていた結果、日本軍に大きな損害を与えたのであるから、アメリカ・ドイツによる日本の中国権益不承認は不当であった。

    アメリカとドイツは、国際正義の名の下に、中国利権獲得を目的にして1915年日華条約の効力を承認しなかったのであるが、この結果中華民国は、アメリカ・ドイツを利用して、日華条約の内容を歪曲誇張して内外にプロパガンダしただけでなく、日華条約成立直後に「日本人に土地を貸した者は死刑」と定めて、日華条約の履行を妨害した。

    「日本の膨張意図を露骨にみせた日華条約は、中国側の反日感情を強く刺激するもの」とされている。しかし、「以夷制夷」によって利用したつもりのロシアに逆につけ込まれて半植民地化した満州全土を、日本を利用して奪還出来た中華民国による日本批判は、アメリカ・ドイツを利用したプロパガンダに過ぎなかった。

     

     

    17、アメリカの反日と日本の譲歩

    日米関係は、1913年5月のカリフォルニアにおける日本移民差別の土地法案の成立とそれに対する日本世論の反発、そして21ヵ条要求に対するアメリカ側の対日不信感の増大と中国利権への執着により、ウィルソン政権下においても友好を欠いていた。そこで、第1次大戦で日米が共同交戦国となったのを機会に、友好阻害の原因について協定をはかろうとする機運が両国で高まった。

    アメリカ側にも、満州での日本の勢力範囲について明確に承認すべしとの意見があったが、ウィルソンの反対のため、1917年11月、日本の譲歩により満蒙の権益が「経済的」権益に限るのか「政治的」権益を認めるのかについては曖昧さを残した石井・ランシング協定が成立した。しかし、1919年8月、ランシング国務長官は、日本の政治的特殊権益を否定した。

     

    中国の主権を侵害するという名目で、1913年、四国借款団から脱退していたアメリカは、中国利権目的と日本の特殊権益干渉のために1918年中国新借款を提唱し、1920年日米英仏の中国新四国借款団が発足した。

    日本は満蒙を借款団の行動対象地域から除外するよう強く要請して、米英と対立し、日本を除く三国借款団組織の動きさえみられていた。1919年5月から翌年5月にかけて折衝が続けられたが、結局日本側は満蒙除外の留保を撤回して合意することとなり、大陸政策の後退を明らかにした。

    アメリカの極東政策に対抗して日本と協商関係を結んでいた帝政ロシアは消滅し、パリ講和会議におけるアメリカの画策により、中国ナショナリズムが反英から反日への転換、日英同盟の形骸化によって、日本の大陸政策は修正を余儀なくされ、1921年5月「満蒙に対する政策」では、満蒙における既得権益については実行面で慎重な態度が必要な事、四国借款団との関係である程度制限を受けるのもやむをえない事、満蒙の経済開発面で独占排他の方向を排して列国との協調を重視し、さらに同地方の中国人民の安寧、福祉への考慮の必要な事を定めた。(15巻・日本外交史・P277)

     

    国際情勢の変化により、日本の大陸政策が後退したとされているが、13項で述べている通り、日露戦争直後から、日本は協調政策を採っており、これを再確認しただけである。しかし、このような譲歩を続けても、日本の中国権益奪取に執着するアメリカには、全く効果が無かった。

     

     

    18、日本の反共シベリヤ出兵とアメリカの妨害

    1917年、ロシア革命により共産国・ソ連が誕生し、革命派の赤軍と反革命派の白軍との間でロシア内戦が開始された。赤軍が勢力を拡大する中で、ロシア極東のウラジオにおいて亡命者と俘虜で組織された旧ロシア軍のチェコスロバキア軍団と赤軍との武力衝突にが起き、アメリカが「チェコ軍捕囚の救出」を大義名分に、1918年8月日本に対し共同出兵を提案した。アメリカの反日に配慮して出兵を控えていた日本も出兵方針を固め、その後、仏、伊、支、ポーランド、セルビア、ルーマニアも少数兵力を派遣して、共同武力干渉が展開された。

    日米の進攻で「チェコ軍の危機」はほどなく解消するが、シベリヤ鉄道の保護名目で干渉軍の駐留は続き、また西シベリヤのオムスクで成立した反共のコルチャク政権への英仏による支援が試みられた。この間、日本は一貫して武力干渉のリーダーシップをとり、あるいは対米合意を越えた73000名という軍隊を派遣、また日本独自でコサックのセミョーノフや帝政派のホルバートといった人物を中心とする政権擁立工作を進め、チェコ軍救出だけを出兵目的にしたアメリカは、日本との対立の溝を深めていった。(15巻・日本外交史・P277)

     

    当時アメリカは、ロシア革命をアメリカ独立と同視し赤軍に同情的であったが、イギリスなどは共産主義を危険視し、特に日本は満州の安全保障上、革命勢力の拡大を認める事は出来なかった。

    日本の識者の多くは、日本の領土拡張主義を警戒するアメリカの側に立って、日本のシベリヤ出兵を非難する論調が多い。しかし、侵略的占領によって領土を拡張してきた列国と違い、日本は国際法を遵守しており、侵略警戒はアメリカによるプロパガンダに過ぎない。アメリカによるシベリヤ出兵は、欧州に対する発言力維持のためにイギリスの出兵要請に応じただけで、日本軍の兵力やウラジオより先に進軍しないという日米協定も、シベリヤ武力干渉の成功より日本を牽制する目的で定められたものである。日本軍の兵力は、出兵干渉軍全体の戦力を高め、日本軍が沿海州や満州を鉄道沿線を進攻し、バイカル湖西部のイルクーツクにまで占領地を拡大したのは、西シベリヤを戦区としていた仏軍・チェコ軍などに対する支援であり、その兵力や作戦規模が小さかったために干渉が成功せず、シベリヤ出兵が大きな損害を招いたのは、アメリカの反日が主因である。

    また無政府状態のシベリヤの治安を維持しようとしていたのは、干渉軍と反革命派の白軍である。ロシア市民の反日感情を主張する説があるが、尼港事件の状況をみれば判る通り、赤軍やパルチザンはロシア市民の有産階級や反革命派に対し虐殺掠奪しており、日本や干渉軍を敵視していたのは革命派の市民であって、市民の反日感情は後付けの主張である。

    陸戦法規違反のパルチザンや、これを支援し戦闘に参加する住民は不法戦闘員であり、交戦資格が無い。パルチザンを一般市民と同列に扱い、日本軍を批判する記録があるが、義和団事件における日本軍の紀律を考えると、犯罪率は低かったと考えられる。また日本軍の任務がソ連・共産勢力に対する干渉であったのであれば市民庇護も含まれるが、チェコ軍救出目的だけのアメリカ軍にとって、市民庇護は任務外であった。

    事実、1920年から2次にわたってシベリヤに取り残されたポーランド孤児800名を救出したのは、干渉国の中で日本軍だけであった。

    反革命派の白軍政権を支援した事について、領土的野心から傀儡政権を擁立しようとしたという批判がある。しかしこれは、ソ連とこれに同調するアメリカの主張であって、共産主義というのは、人権や平等、平和を訴えて支持を得るが、権力を握れば自国民の虐殺や他国への侵略を始める。

    干渉により、シベリヤに反革命派政権が擁立できれば、共産国ソ連の勢力は不安定になり、将来の虐殺や侵略を防げる事になる。もしアメリカが共産主義の危険性に気付いていれば、シベリヤの共産化が防がれ、恐怖支配のソ連政権や世界共産革命のコミンテルン活動も制限を受けることになり、中国などアジアの共産化も防げた可能性がある。

     

     

    19、日本のシベリヤ単独出兵。

    1918年11月ドイツ革命により第1次大戦は停戦し、1919年秋シベリヤ共同干渉から英仏が離脱した。次いで翌1920年1月アメリカがシベリヤ撤兵を一方的に通告し、こうしてこれ以降日本の単独駐兵で反共干渉が続けられる事になった。その結果、欧米から日本の領土的野心を疑われたという事になっているが、米英からは「日本は圧力を掛ければ引く国」と思われており、その軽視が非難の原因であって、事実日本がシベリヤ出兵で広域を占領していても、領土的野心はなく領土要求は行なわれなかった。

    その後、国際的孤立と巨額の軍事費負担から日本内部から撤兵論も強くなったが、1920年3月の尼港事件によって日本世論は激昂して出兵継続となり、1925年の日ソ国交成立まで北樺太を保障占領した。しかし、1920年1月コルチャク政権の崩壊で赤軍がバイカル湖地点まで進出してくると、日本軍は直接戦闘を避け、ザバイカル・アムール領収から撤退し、占領地域を縮小してウラジオストクと沿海州南部を重点に占領を続け、名誉ある撤兵を企図した。

    ザバイカルからの日本軍撤退後、成立していたソ連傀儡の極東共和国との間で講和が成立しないまま、1922年10月『無名の帥」と言われたシベリヤ出兵は、多大の人命と巨額の戦費を費やしただけで終了した。(15巻・日本外交史・P277)

     

     

    20、パリ講和会議と大国日本

    1919年1月パリ講和会議は、敗戦国ドイツ、革命と内戦のロシアを除いて開かれたが、日本は英・米・仏・伊と共に10人委員会のメンバーとなり、大国としての国際的地位を確立した。同会議で日本代表が積極的に発言した事項は、赤道以北にあるドイツ領南洋群島の領有権、山東省のドイツ権益の継承、人種平等問題であった。

    第1の問題については、これをC式委任統治地域として、国際連盟から、統治権を委任されるという形で要求を通した。しかし第2の問題については、すでに英・仏・伊の了解を得ていたにも関わらず、中国の抵抗と、アメリカ代表の反対にあい、会議の最終段階で紛糾し、結局、膠州湾の租借権を日本から直接中国に還付するという条件で、日本は当初の目標を貫いた。しかしこのような山東問題の処理は、5・4運動のように、中国の反日感情の高揚をもたらすことになった。第3の人種平等条項を連盟規約中に挿入する問題については、イギリス自治領側の移民問題と、アメリカ・ウィルソンの強い反対で、成果は上げられなかった。(15巻・日本外交史・P276)

     

    ドイツ租借地であった青島の要塞攻略戦はイギリスと共同で行なわれたもので、日本がドイツ権益を奪ったという単純なものではなかった。しかし、中国に領土権益を持たなかったアメリカは、国際法並びに英仏伊が認めていた山東省のドイツ権益・膠州湾と隣接する租借地の日本継承に反対した。青島攻略戦時、アメリカ・中国は中立国として参戦していなかったため、青島占領は、日本軍により行なわれたものであり、軍事行動は中独間条約の租借地譲渡禁止規定に優先し、その処分は講和条約において決定されるべき事項である。従って、青島占領、停戦に関与していないアメリカや中国に、干渉や直接回収を要求する権原はない。

    また、中国は、アメリカと同じ1917年に連合国側で参戦しているが、青島攻略戦時は中立国であった。そのため、日英による交戦区外の軍事行動を、中立侵犯として非難する主張がある。しかし、アメリカは、ドイツによる侵略戦争に対する中立保持は否定していた。また、それ以上に問題なのは、兵員・物資輸送などドイツに協力していた中国の中立違反である。そもそも中国がドイツに租借地を与えて要塞化を許していなければ不要だった戦争であり、租借地直接回収を望むなら、中国自ら参戦すべきであった。

    日本に戦争させて日露戦争でロシア権益・第1次大戦でドイツ権益を奪還した中国は、アメリカによる国際法無視の1915年ブライアン不承認以降、アメリカを利用すれば日本権益も奪還出来ると気付いた。その結果、第1次大戦で連合国側に加わっただけで戦争には参加しなかった中国は、1919年のパリ講和会議で戦勝国としての利権を得ただけでは満足しなかった。アメリカが日本の権益を奪うため煽動したので「中国代表は山東省における旧ドイツ権益の直接回収を主張し、一切の不平等条約の撤廃を望んだ。租借地や租界の返還、外国駐屯軍の撤退、領事裁判権の取消、関税権の自主などがその要望であった。しかし、講和会議は中国側の提案を退けた。」(15巻・中国史・P149) そして、アメリカは中国を使嗾して、ヴェルサイユ条約の調印を拒絶させ、中国の反日を煽動した。

    この時、北京大学の教授であり中国共産党の創立メンバーであった李大,麓,里茲Δ暴劼戮拭「我々の夢は破れた。パリ講和会議の決定は、弱小民族の自由と権利を強盗国家の犠牲に供し平和会議としての実質を失った。我々は従来、夷を以て夷を制すを信条としたが、この言葉は中国民族の卑屈さを表している。日本が青島に侵入した時、ベルギーのように抵抗しなかった我々には、今日ほかから援助を求める資格がない。自主性を喪失した恥辱は、土地山河を奪われた恥辱よりも一層耐えがたい。」・・・この主張は、中華民族の特質がよく現れている。偉大な中華民族として周辺弱小民族の自由と権利を犠牲にする事は構わないが、中華の自由と権利が奪われた時には「平和会議の実質を失った」と、国際会議を批判する。夷を以て夷を制す信条を「中国民族の卑屈さを表している。」と気付いたまではいいが、アメリカを利用して日本の権益を奪還を謀り、他の列国の権益まで一挙に回収出来ると思い込み、望みが全て叶わなければ無血で得た第1次大戦の戦勝利権を忘れ講和会議を非難するのである。

    「日本が青島に侵入した時、ベルギーのように抵抗しなかった我々」というのは、大戦中にドイツが領内通過を求めた時、中立国ベルギーが拒否した事をいうのである。しかし、青島攻略戦は日本とイギリスの共同作戦であり、ドイツに権益を与え要塞構築を許し、戦時には間接的に軍事協力していた中国には、ベルギーのように中立侵犯を主張する資格がない。また、日本の青島侵入後に中国は連合国として参戦し、青島攻略を含む戦勝に参加したと扱われ、ドイツから無血で戦後賠償を得ているので、中立国ベルギーとは立場が異なる。中国がドイツの山東省権益の直接回収を望むのなら、日英と共に青島攻略戦に参戦しておけば良かったものを、ドイツを間接支援していたのはドイツを利用しようとしていたためであり。中国の要求は過大であった。

    そして「ほかから援助を求める資格がない。」と言いながら、これ以降もドイツとアメリカの援助を受けて日本を攻撃し続けたのだから、反省にはならない。

     

    1919年の5・4運動は、反日・反帝国主義運動と言われているが、以夷制夷で日本を含む列強を利用し続ける中国自体が帝国主義であり、ナショナリズムの大衆化のきっかけになったといっても、1943年に河南の中国軍30万人を日本軍と協力して壊滅させたのは中国農民だったように、日本軍より中国軍を敵視していた中国民衆に真のナショナリズムは存在せず、5・4運動はヴェルサイユ講和会議に対する不満を煽った中国共産主義者らによる反政府運動でしかなかった。

     

     

    21、1922年、ワシントン体制

    1921年12月の4カ国条約は、日米英仏が太平洋方面にもつ属地や領土・権益の相互尊重、および、平和的処理について定めるという名目だが、事実は国際連盟の常任理事国として国際的地位を高めつつある日本の国力を削ぐために、アメリカが日英同盟の破棄を目的に成立させたものである。

    ドイツを警戒していたイギリスとしては、第1次大戦における日本の協力に対する評価は高かったが、超大国アメリカの圧力には抗しきれなかった。

     

    1922年2月の海軍軍縮条約も、米英仏伊日の国際条約に名を借りた、押せば引く日本に対するアメリカの嫌がらせである。建艦競争抑制のためというが、第1次大戦でイギリスの要請を受けた日本は、大平洋、インド洋、地中海など、広範囲の哨戒・護衛を依頼され、艦艇を派遣している。直接的利益が無くても派遣要請に応じてくれる日本海軍は、イギリスにとって有り難い存在であったので、イギリスに日本海軍の軍縮を求めなければならない理由は無かった。

    これに関して、日本の学者は「第1次大戦においてイギリスは、極東で日本が膨張政策を採るとの懸念を持ち、日本海軍に対する参戦要請を取消し日本海軍の行動を海上貿易ルートの保護に限定するよう申し入れ、参戦の場合にも戦闘区域を限定されたいと申し入れてきた。」と解説している。(15巻・日本外交史・P275) しかし、海軍の膨張政策というが、艦船には港湾など陸上の補給施設が不可欠であり、陸軍の膨張が平行して行なわれなければ、実効性は無い。従って、極東における日本の海軍力に対するイギリスの懸念は、生じないか若しくは小さなもので、日本を警戒する理由は無かった。大戦当初から、フランス・ロシアは日英同盟を拡大し仏・露を加えた4国同盟を望み、ヨーロッパ戦線への軍事力支援を何度も要請されていた日本には膨張意思はなく、参戦のメリットは少ないのにイギリスの要請を受け容れて地中海にまで艦隊を派遣したが、戦線への支援は東部戦線のロシア軍に小銃弾薬を供給し援助するだけに止めている。

    軍縮条約が成立したのちも、条約加盟国間で戦争が始まれば、国家予算を圧迫するなどとはいっておられず、建艦するしかない以上、平時における保有制限はアメリカの嫌がらせでしかない。事実、1932年の上海事変後に軍縮条約破棄を示唆したのはアメリカであった。

    第1次大戦においてアメリカ西海岸を哨戒した日本海軍を、本来アメリカが敵視する必要が無く、軍縮は日本の海軍力を低下させたというアメリカ国内向け宣伝に過ぎなかったのだが、日本はアメリカに譲歩して想定外の軍縮に応じた。

    アメリカにとって日本人というのは、戦争には強いが、白人には逆らえない極東の弱小民族、国際会議に一人前扱いして呼び出せば常に応じて、日本に不利な要求にも応じる得体の知れない有色人種でしかなかった。

     

    1922年2月の9カ国条約は、当初、アメリカ、ベルギー、イギリス、中国、フランス、イタリア、日本、オランダ、ポルトガルで発効したものだが、後に、ノルウェー、ボリビア、スウェーデン、デンマーク、メキシコが加入した。ドイツは署名はしたが、ドイツ国会は批准しなかった。(ウィリアム・E・ボラー上院議員宛・スチムソン書簡・1932/3/23)

    第2次ブライアン・ノート以降、アメリカと協調して反日政策を採っていたドイツは、9カ国条約が日本の中国権益を剥奪する目的と知り署名したが、批准はしなかった。またソ連も、自国の中国権益に干渉される事を嫌って批准しなかった。

    この条約は、1899年の列国に対するアメリカによる中国進出要求を国際条約化したもので、名目上は、中国の領土的保全、各国の中国における商工業活動の機会均等主義、中国に安定政権を確立させるための機会の保障、中国の混乱した情勢を利用して特権の獲得を図らない事、といった原則を確認した条約であったが、実質はアメリカによる中国市場権益確保と、第2次ブライアンノート以来の日本権益剥奪を目的とした条約であった。その結果、加盟国の国際法上の権利を承認するという建前の本質は、日本の権益を規制するもので、アメリカは日本に対して国際法遵守を要求しても、日中間条約の有効性を認めず、中国による条約・国際法違反には、アメリカが不利にならない限り干渉しなかった。9カ国条約成立以降、アメリカに煽動された中国による反日テロが頻発し、特に満州では日本の権益が攻撃対象になった。

    欧州諸国は第1次大戦にアメリカの支援で戦勝しているため、中国利権保有国を含め1899年以来のアメリカの要求を認めた。しかし、アメリカの権益確保のために日本を牽制するこの条約は、中国の国際法・条約無視を事実上承認するもので、満州事変・日中戦争の原因となった。

    、1922年2月山東権益還付の山東懸案解決に関する条約、1923年満蒙の特殊権益を認める石井・ランシング協定の廃棄など、日本はアメリカに譲歩し続けたが、日本を完全排除したいアメリカに対しては何の効果も無かった。ワシントン会議の日本全権は、加藤友三郎と幣原喜重郎であった。米国協調を名目に事実上日本の権益を易々と放棄した幣原が、結局戦争を招いたのである。憲法9条も幣原の忖度説があるが、アメリカに媚びて対米戦争を放棄しても、国連加盟国と同等の権利を放棄していては、結局日本を戦争に追いやる事になる。

    平和のためなら、日本の国益が損なわれても構わないという彼の思想は、中国にアメリカを利用して日本を制する「以美国制日本」を気付かせ、日本人に対する中国のテロ攻撃により死者が出ても抗議もしない彼の対応が、中国をより過激な反日に転向させる契機となった。

     

    また9カ国条約の会議において、モンゴル・満洲・チベット・ウイグル・トルキスタンの民族自決権を否定し、中国による侵略を認めていることになるが、これはアメリカが中国を懐柔するためであって、ソ連によるモンゴル保護国化やイギリスによるチベット干渉を放置しながら、日本の権益縮小のみが既成事実となっていった。そして第2次大戦後、これらの従属領域では、中国による虐殺によって戦争より多くの人命が失われた。

     

     

    <参考>

    9カ国条約http://www.chukai.ne.jp/~masago/kyuukako.html

     

    中国に関する九カ国条約

     

    第1条、支那国以外の締約国は左の通り約定す

    (1)、支那の主権、独立並びにその領土的及び行政的保全を尊重すること

    (2)、支那が自ら有力かつ安固なる政府を確立維持する為、最も完全にしてかつ最も障碍なき機会をこれに供与すること

    (3)、支那の領土を通じて一切の国民の商業及び工業に対する機会均等主義を有効に樹立維持する為、各々尽力すること

    (4)、友好国の臣民又は人民の権利を滅殺すべき特別の権利又は特権を求むる為、支那における情勢を利用することを、及び右友好国の安寧に害ある行動を是認することを差し控ふること

     

    第2条、締約国は、第一条に記載する原則に違背し又はこれを害すべき如何なる条約、協定、取極又は了解をも、相互の間に又は各々別に若しくは協同して一国又は数国との間に締結せざるべきことを約定す

     

    第3条、一切の国民の商業及び工業に対し、支那に於ける門戸開放又は機会均等の主義を一層有効に適用するの目的を以て、支那国以外の締約国は、左を要求せざるべく又各自国民の左を要求することを支持せざるべきことを約定す

    (a)、支那の何れかの特定地域に於て商業上又は経済上の発展に関し、自己の利益の為、一般的優越権利を設定するに至ることあるべき取極

    (b)、支那に於て適法なる商業若しくは工業を営むの権利又は公共企業をその種類の如何を問はず支那国政府若しくは地方官憲と共同経営するの権利を他国の国民より奪うが如き独占権又は優先権或いはその範囲、期間又は地理的限界の関係上機会均等主義の実際的適用を無効に帰せしむるものと認めらるるが如き独占権又は優先権

    本条の前記想定は、特定の商業上、工業上、若しくは金融業上の企業の経営又は発明及び研究の奨励に必要なるべき財産又は権利の取得を禁ずるものと解釈すべからざるものとす

    支那国は、本条約の当事国たると否とを問はず、一切の外国の政府及び国民よりの経済上の権利及び特権に関する出願を処理するに付き、本条の前記規定に記載する主義に遵由すべきことを約す

     

    第4条、締約国は、各自国民相互間の協定にして支那領土の特定地方に於て勢力範囲を創設せむとし又は相互間の独占的機会を享有することを定めむとするものを支持せざることを約定す

     

    第5条、支那国は、支那に於ける全鉄道を通じ如何なる種類の不公平なる差別をも行ひ又は許容せざるべきことを約定す

    殊に、旅客の国籍、その出発国若しくは到達国、貨物の原産地若しくは所有者、その積み出し国若しくは仕向国、又は前記の旅客若しくは貨物が、支那鉄道により輸送される前若しくは後に於て、これを運搬する船舶その他の輸送機関の国籍若しくは所有者の如何により料金又は便宜に付き直接間接に何等の差別を設けざるべし

    支那国以外の締約国は、前記鉄道中自国又は自国民が特許条件、特殊協定その他に基づき管理を為し得る地位に在るものに関し、前項と同趣旨の義務を負担すべし

     

    第6条、支那国以外の締約国は、支那国の参加せざる戦争に於て支那国の中立国としての権利を完全に尊重することを約定し、支那国は中立国たる場合に中立の義務を遵守することを声明す

     

    第7条、締約国は、その何れかの一国が本条約の規定の適用問題を包含しかつ右適用問題の討議を為すを望ましいと認むる事態発生したるときは、何時にても関係締約国間に十分にしてかつ隔意なき交渉を為すべきことを約定す

     

    第8条、本条約に署名せざる諸国にして、署名国の承認したる政府を有しかつ支那国と条約関係を有するものは、本条約に加入すべきことを招聘せらるべし

    右目的の為、合衆国政府は、非署名国に必要なる通牒を為しかつその受領したる回答を締約国に通告すべし

    別国の加盟は合衆国政府がその通告を受領したる時より効力を生ずべし

     

    第9条、本条約は、締約国により各自の憲法上の手続きに従い批准せらるべくかつ批准書全部の寄託の日より実施せらるべし。右の寄託は、成るべく速やかにワシントンに於てこれを行ふべし

    合衆国政府は、批准書寄託の調書の認証謄本を他の締約国に送付すべし

    本条約は、フランス語及びイギリス語の本文を以て正本とし、合衆国政府の記録に寄託保存せらるべく、その認証謄本は同政府より他の各締約国にこれを送付すべし

    右証拠として前記各全権委員は本条約に署名す

    1922年2月6日ワシントン市に於てこれを作成す

     

    [四カ国条約] 日・米・英・仏で結ばれ、米国の意図によって日英同盟が廃棄された。米国大統領ハーディングは「日英同盟終了は最大の満悦」と述べた。日英同盟に代わるはずの四カ国条約なのだが、イギリスから、「我々はウィスキーを捨てて水を受け取った」という声があがるほど日英にとって無意味なものであった。

    日本全権は、海軍大臣・加藤友三郎、駐米大使・幣原喜重郎らであった。

     

     東京裁判に関連する日本人には理解されない事実1/3・2/33/3

    【2017.08.21 Monday 02:54】 author :
    | 反日バイアスに嵌まった日本人には理解出来ない真実の歴史 | comments(0) | - | - | - |
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      【2018.11.12 Monday 02:54】 author : スポンサードリンク
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