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317:戦犯裁判:オランダ管轄・メナド裁判:第2号法廷/メナド海軍抑留所虐待致死・山田事件
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      戦犯裁判オランダ管轄メナド裁判

     

    第2号法廷/メナド海軍抑留所虐待致死事件

     

    起訴理由概要:アイルマデリー婦女子抑留所における虐待

     

    第8警備隊・山田秀雄海軍兵曹・福岡:46/10/30求刑死刑>46/11/13判決死刑>47/3/3銃殺:弁護大崎/高崎

     

     

    一般解説:山田秀雄兵曹長は、1942/1・メナド刑務所、1942/7・テリン停虜収容所、1944/7〜1945/8・アイルマデリー婦女子抑留所の各警備長として勤務していたから、主として婦女子抑留所における虐待事件で起訴されたと思われる。


     山田兵曹長は、アゴ髭をなびかせながら、抑留者向けの食糧集めにバイクで走り回っていたソ〜であるが、アイルマディディル女性抑留所に子供2人と抑留されていたアンナ-マリア-ブルッケル-パイテン(1905-1992)の日記には、

    「 医療の欠如のため、毎日女性や子供たちが死んでいきました。
     日本軍の監視員から懲罰を常に受ける恐れがありました。
     抑留所のヤマダ所長は鞭で打ち据えることで悪名が高かったのです。

    1944/9/20
    「 ヤマダは彼女を呼びつけた。
     真っ暗な炊事場で、彼女は何回も身体を打ち据えられ、さらに顔を殴られた。
     彼女は悲鳴をあげ「アンプン」(インドネシア語で「許して」)と叫んでいたが、その合間合間にヤマダの怒鳴り声が響いた。
     彼は暗闇の中でひたすら打ち続け、止まらなくなっていた。
    とある。

     ブルッケルがいた抑留所は、山田兵曹長が勤務していた抑留所と同じである。
     所長と警備長、職名は違うが、ヤマダ所長が山田兵曹長であった可能性は高い。
     
     鞭で打ち据えるからといって、それが懲罰の限度であれば虐待とまでは言えないが、抑留者にとっては大虐待であったろうし、怨みの対象として証言も大袈裟になった事だろう。
     
     炊事場に呼び付け虐待の件は、事実は判らない。
     ただ推測すれば、食料の窃盗に対する懲罰であった可能性が高い。
     また「ひたすら打ち続け、止まらなくなっていた。」というのは、話として面白いのだろうが、実話とは限らない。
     栄養失調気味で体力が無い状態で医薬品も欠乏していたのに、無茶して暴行致死に至ればヤマダは営倉行きである。
     「日本軍は残虐だった。軍紀が無かった。」って、一方の証言だけが正しく、日本人の無実証言は信じない。
     それが、オランダによる復讐裁判なら、まだ理解も出来るが、当時の状況を無視した特亜系日本人が言ってんだもんな〜。




     警備長は取り締まり業務だから、直接抑留者と接し怨みを買い易い職種であった。
     ただ、本来虐待に関しては、収容所長に、より大きな責任があったと思う。


    戦犯裁判 1946/9/27起訴 10/30死刑求刑


    山田秀雄 海軍兵曹長・福岡 元理髪業 37歳
    1946/11/13 銃殺判決
    1947/3/3 平山憲兵軍曹と共に銃殺執行された。



     処刑前日、日本側の心づくしの差し入れに感謝すると共に、無理矢理抜いた金歯と遺書を託したソ〜である。

     刑場は付近のヤシ林で、オランダ側は知事や軍幹部らが立ち会い、日本側も弁護人・通訳・友人1名の立ち会いが許された。
     
     オランダ側に対し許された一言で、
    「永々御厄介になりました。自分はここらで死にます、然し日本軍人の教育は、七度生れ代って敵を亡すにある。それ故に第三次大戦に於ては戦場で、皆さんに御目にかかる事を約束する」旨を述べ、平山憲兵軍曹も同旨発言したので、不気味に思ったオランダ側から「以降、最後の一言は止めてね」の申し入れがあったソ〜だ。

     ヤシに縛られ、万歳三唱と黒田節を歌った後、目隠しを断り、5名の銃殺隊により処刑執行された。



     本件の場合、逮捕されモロタイ(パルマへラ島の北)に送られ虐待、1646/5メナドに還され虐待と、虐待を裁く側による虐待が、山田兵曹長の日記に残されている。


    20年9月15日までアイルマデイに居り豪州軍よりモロタイに連行さる。

    9月16日、モロタイ戦争犯罪収容所に入る。
     第3番目にて海軍の第1番、毎日砂袋をかついで作業する事(砂袋40キロ)。サンゴセウを掘る事。
    (おそらく砂袋を担ぐ作業じゃなく、担がせたまま作業させる事。サンゴ礁は非常に硬いため無意味な重労働の意。)

    (1946)3月3日、大ぎゃくたいを受く。頭を三十針縫ふ。

    4月20日、収容所が豪州軍より蘭軍に渡さる。 

    6月22日、サリオ蘭軍司令部にてガウ問を受く。左手を折らる。今日に至るもシビレル。

    7月26日、メナド警察官より調べを受け、ガウ問を受け頭、尻に傷がつく。

    10月30日、裁判を受けて死刑を言い渡さる。一方的裁判である。

    (1947)3月3日、死刑となる。メナド第2回死刑2名。
     戦争犯罪者は皆血の出るギャクタイを受ける。


     
     以上のような虐待は、山田兵曹長にだけ行われたモノじゃない。

     勿論、当時のオランダ人抑留所は物資が不足し、食料も足りない状況で、傷病死は少なくなかったのだから、オランダ側の処罰感情は理解出来る。
     しかし、一兵曹長の責任には限度がある。
     それでも、大虐待の上に銃殺で復讐を済ませておいて、今もグダグダ言ってんだったら、こっちも日本兵虐待について今から起訴して、絞首刑にすりゃい〜んだよw。



    山田兵曹長・遺書

     私は2月28日,兄上様と楽しい正月元旦を迎へ「ザウニ」を食べた夢を見ました。
     是が兄上様とお別れの日と成りました。
     兄上様,おどろいてはいけません。
     戦争後の決死隊です。
     3月3日桃の節句に、戦争犯罪者として死刑を受けるのです。
     和蘭領メナドに戦争に来て今日迄生きて居た事がむしろ不思議です。
     部下分隊員も只2名の戦死を見た丈で外に戦死を出さ無かった事は私の幸とする処です。

     戦争が終る迄色々と思出があります。
     42年6月には私の事を本山大佐がラヂオニュース新聞等にて発表され又主婦の友8月号に作戦1万哩にのせられました。
     私も働く丈けの事をして今日死刑を受ける事には何の悔いる処は有りません。
     むしろ喜んで居るのです。
     私一人にて外の関係者が皆無事に日本に帰られた事です。
     只々次の時代に日本人皆々様が私等の死を無駄にしない事を信じて居ます。
      大日本帝国万歳々々

    【2011.07.18 Monday 13:07】 author :
    | B級裁判 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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      【2018.07.20 Friday 13:07】 author : スポンサードリンク
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