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307:戦犯裁判:オランダ管轄・メナド裁判:第44号法廷/空の神兵捕虜住民虐待責任・堀内事件
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    戦犯裁判オランダ管轄メナド裁判

    第44号法廷/捕虜住民虐待責任・堀内事件

     

    起訴理由概要:捕虜虐殺及び組織的テロ行為の故意誘導放任・トトラン・アネマン事件
    昭和17年1〜4月トトランに於いて30名以上の銃剣による殺害を放任。
    昭和17年3月15日以降4月1日までの間、アムラン郡ゲリラ戦に際し住民の逮捕及び組織的テロ行為・アネマン事件に対し合理的注意の怠慢、以上の事実に対し落下傘部隊長としての違法行為

     

    海軍空挺部隊長・堀内豊秋海軍大佐・熊本:48/2/20求刑死刑>48/5/12判決死刑>48/9/25銃殺:弁護井手


    一般解説:数世紀に亘り植民地支配を続けてきたオランダが、日本軍により9日間で追い出されちゃったもんだから(蘭印軍降伏47/2)、日本がコ〜サンした途端、手当たり次第に「言い掛かり戦犯事件」をデッチアゲ、日本人を逮捕・拷問・虐待、時には殺しちゃいながら、リンチ裁判をやったのが、オランダである。

     「空の神兵事件」って仮称なんだが、
    正規戦を戦争犯罪と言い掛かりを付け処刑してるんだから、ほかに名付けようがないww。

     海軍
    元空挺部隊長・堀内豊秋大佐が巣鴨に出頭した際、彼が警備隊司令時の部下12名が戦犯として拘引されている事を聞いていた為、大佐なりに被れる責任は被るつもりでメナドに向かったと思う。

     しかし、ヨ~ヤク1年後の起訴状は
    「被告はミナハサ管下のランゴアン、トトラン、カネアン、アムランの各所に於て
    1942/1〜4までの間に、落下傘部隊長として戦犯行為をなした。
     即ち
    一、 落下傘戦斗後ランゴアン司令部へ投降して来った蘭陸軍将校ファンデンブルグ、マツセリンク等に対し部下及通訳が組織的テロ行為をなし多数の兵が彼等に対し繰返し継続的に虐待暴行せるを命令又は故意に誘導した。
     「附加」右犯行が部下によって犯されることを理性的に推知し得べきにも拘らず之を容認し、又は充分な注意を与へず又何等処罰せず放任した。

    二、 トトラン村において30名の蘭印軍が被告の部下により銃剣で突殺された。被告は之を命令し又は故意に誘導した。

    三、 被告の部下は1942/3/15より4/1の間アムラン郡に於て蘭軍アリエセル軍曹指揮のゲリラ隊の攻撃に際しカネヤン村の各家屋を焼払いリテイ村、カネヤン村の住民がゲリラ隊を援助したとの嫌疑で逮捕者に対し組織的テロ行為を行い就寝中ルメンケン先生、リテイ村長の妻を含む六名の者をカネヤン附近に於て銃剣で刺殺した。」

    という言い掛かり、検察側偽証人34名を用意した責任事件扱いであった。


     1942/1〜4までって、堀内空挺隊が1/11にメナド・ランゴアン飛行場に落下傘降下してから、4/26に転出するまでの期間をユ〜んだが、その間に空挺部隊員の組織的暴虐行為や戦争犯罪の記録が無い。

     もし起訴した犯罪が事実であったなら、起訴状に具体的犯行が記載された筈だが、空挺隊は飛行場の確保が任務だから、戦闘範囲は限定されており(増援部隊到着後は、近郊を占領しているようだ)、陸上を進軍交戦して来た3個陸戦隊と合流したが、本件で陸戦隊員・空挺隊員共に起訴されていない。

     起訴状に
    「為していること、若しくは為すであろう事を知り、少なくともそれを当然推測したに違いないのに、部下の戦争犯罪の遂行を容認した」という類の起訴、これは本来起訴出来ない者に不作為責任の罪を捏造して押し付ける際の常套句である。

     
    何故、堀内大佐が起訴されたかというと、戦犯裁判長になったティウオン大尉(大佐説あり)は元蘭軍メナド守備隊長であり、日本軍に復讐する事しか考えていなかった為。
     それなら、自分を俘虜にした陸戦隊に復讐するだろうにと思うのだが、
    堀内部隊の空挺攻撃が余りに鮮やかだったこと以上に、現地民が堀内大佐と日本軍部隊に心酔してしまっていたため、オランダの再支配の為には堀内大佐を処刑する以外に無いと考えたのだろう。
    ・・・日本軍による俘虜虐待は個人や状況に拠るんだけど、全軍の明白な意思に基づいて虐待したオランダ軍と比べたら、「児戯」だったんだな。



    戦犯裁判
    47/1/6 巣鴨出頭
    47/2/19 メナド移送
    48/1/29 メナド裁判起訴

    海軍空挺隊長・堀内豊秋大佐・熊本 47歳 銃殺刑48/5/12 9/25執行

     当然ながら、メナド裁判では、戦犯実行犯であった筈の部下は一人も起訴されず、法廷に召喚さえされていない。
     補足になるけど、オランダの戦犯収容所で1年って、ソートー拷問虐待されたと思うよ。



    空の神兵

     横須賀鎮守府第一特別陸戦隊・落下傘部隊28機は、1942/1/11午前6:30、フィリピン・ミンダナオ島ダバオ基地を出撃。
     1機は機関不調・1機は味方機に撃墜され、26機で
    ランゴアン飛行場に向かい、AM9:52・150m上空から隊員312名が降下した。
     蘭軍との交戦は、死傷52名を出す激戦であったが、約2時間で飛行場を制圧し、作戦は成功した。

     
    現地・ミナハサ人の間には古くから「民族が危機にある時、空から白馬の天使が舞い降りて・・・」という伝説があったそーだ。
     けど、大編隊が飛来し、白い落下傘300余が舞い降りて来たからといって、「救いの天使だ」とすぐに思い込むワケじゃない。

     
    堀内大佐とその部隊は、何処に行っても現地民に好かれた。

     チナ廈門に駐屯してて転属するとなったら、転属反対の署名運動が始まったり、それでも転属となったら、現地民100名以上のカンパで記念「去思碑」が建てられた。

    「恭頌大日本海軍陸戦隊堀内豊秋司令徳政」
    「ああ、総指揮官大権を職掌し廈門に駐箚すること二年。口碑流伝す。人民を領導し、よくその完全を致し、軍隊を使うに万略ありて寸毫も恋々たるなし。善政を施せる名声は僻遠の地に至まで広がり、人民の復帰する日に多く、各生業に安んじ、鼓腹にして皆歌う。時に乗じて建設し、日に異なり、月に新たなり。爾今爾後、日親に藉資す。赫赫たる司令、よく領民を安んじ、その徳、衆人におよび、昇平あらかじめ兆す。ここに節録を述べんか、禾山区一帯の者とともに明らかなるべし。石碑にこれを刻し、以て永久に伝えん。」

     インドネシア各地に赴任した際は、肖像画・胸像をプレゼントされたり、
    バリ島シンガラジャ司令の時には臈纈染の絵を贈られている。
    「左側は悪人の頭に大きな石が落ち、驚いてあけたその口に槍が刺さっている。右側には人々が楽しそうに語り合う平和の風景が示され、正義のために戦った五兄弟の母親と、天国にいる高僧と、自由にさえずる鳥が、豊かな色彩で描かれている。
     そして、古代戦争劇の一幕を表したこの画面の背景には、無数の落下傘が舞い降りている。」との事である。


     そして、
    ランゴアン飛行場を占領した時も、現地民を人道的に扱ったが故に、「舞い降りた救いの天使」になったのである。

     占領当夜、インドネシア兵1名を俘虜にし、翌日取り調べたら近くの農民だと判った。
     すると堀内大佐は、「落下傘部隊に協力してくれる人がいたら連れてきてくれないか」と貴重な塩を与えて解放した。
     その農民は10数名の現地民を連れてきて、以後率先協力してくれるようになったらしい。
    ・・・16%の死傷者を出して戦闘終了した直後だと、兵隊は感情的になって俘虜に乱暴しちゃう事がママある。
     しかし、
    「10数名の現地民を連れて」というのは、堀内大佐の教育が行き届いていたから酷い事はしてなかったんだなと思う。

     翌日には地方の有力者が、司令部用に「家を提供してくれた」という。
    ・・・オランダ兵は逃げ去り、戦闘が終わった安心と、日本兵の軍紀に乱れが無かったが故に、親切にしてくれたんだろ。

     インドネシア兵が順次投降してきて、100数十名となった。
    ・・・近郊に隠れていて、現地民らからも「大丈夫そ〜だ。」と聞いたから、大人しく投降して来たんだと思う。


     インドネシア兵俘虜は使役に出されていたと思うが、真面目にやってたんだろう。

     
    堀内大佐は、休暇をやって「こうして元気にしていると、家族に話してきなさい」といって、貴重な塩を土産に持たせたという。
    ・・・そしたら、全員手土産を持って帰ってきたってさ。

     テキト〜に懲罰使役後、全員解放したんだろな。



     堀内部隊のバリ島移動が決まったら、現地の老若男女が次々訪れ、泣きながら別れの挨拶となる。
     出発の日は、現地民数千人が30台のトラックを取り囲み、別れを惜しむ。
     翌日もメナド出港を見送ろうと、郡長・村長らはトラックで、
    現地民数百名は60Kmを歩いて集まり、「司令殿がいなくなって、ランゴアンの私たちは寂しくてしかたがない」という「堀内司令を讃える歌」を涙ながらに歌ったそ〜だ。

     こういう情報は、俘虜収容所にいたオランダ兵にも伝わっていた事だろ〜から、非常識なオランダ人には許せなかったんだろう

     ただ、オランダ人全員が狂ってたワケじゃなく、海軍大佐として儀仗兵が付いたとかもあるようだが、後年の遺骨返還とか、メナド市テイリン墓地には「霊魂 REIKON」としか刻まれていない墓碑があるとかは、インドネシア人のお陰だと思う。


     堀内大佐には、「以責人之心責己、以怒己之心怒人」と彫った話とか、「罰を厳しくするよりは、罪を犯させない配慮がなにより」とバリ島でブラジャー用布を配布したとか、いい話がたくさんあるヨ〜だ。



    遺書 
     九月二十三日突然執行の通知を受け、二十五日午前八時に執行される事となった。
     在世中は真に幸福な生活だった。
     執行の日迄刑務所内でも多くのインドネシア人の尊敬を受け、何物かを残した。


     一誠よ、その他の子供達よ、父は国家の犠牲となって散るのだ。
     桜花よりも清く少しの不安もない。
     兄妹力を併せ、母上に孝養を尽くしてくれ。
     人を頼ってはならない。
     あくまで清く正しい生活をなせ。

     死に臨んで少しの不安もないのは、小生の過去の清らかな生活がさせるものと信ずる。

     不幸な妻よ。
     子供よ。
     父はなくとも決して自暴自棄することなかれ。

     部下の散った「メナド」で、白菊の花の如く美しい態度で散るのだ(落下傘の名を清めて)
     年寄った母上様、どうか先立つ因縁をお許し下さい。


     兄上様、くれぐれも後に残った家族の行く末をお願い申し上げます。
     千鵜殿永い間お世話になった。
     可寿殿、一生の内助、感謝しつつ逝く。

     親戚の皆様御機嫌よう。
     人は自分を信じ努力を続ければ偉くなれる。
     自分の死は見守る人もいないが、立派なものであると信じていただきたい。 
     もう二人の日本人将校が残って居ますが、之も遠からず執行されるでしょう。
     世に思い残すことは少しもありません。
                      堀内豊秋
       堀内家御一同様

    二伸 之は通知を受けた日、オランダ将校に頼んで書いた。
     オランダ将校も自分の態度にすっかり感心した様子だった。
     故に特に之を送ってくれるのだ。

     その一事を以ても、自分が日本人将校として恥ずかしくなかったことを想像していただきたい。
     神そ知る罪なき罪に果つるとも生き残るらむ大和魂
     白菊(注・落下傘)の香を残し死出の旅つはものの後我は追ふなり

     

    福建省厦門を海軍第5艦隊の作戦部隊が占領したのは南京事件から約5カ月後の13年5月のことだった。14年11月から島(とう)嶼(しょ)部、禾山地区の海軍陸戦隊司令(部隊長)を務めた大佐(当時は少佐)、堀内豊秋は住民と交流を深め、荒廃した地域を復興させた。公正な裁判を実施し、治安を回復させ住民の信望を集めた。

     15年5月、堀内交代の報が伝わると、住民は転任延期を求める嘆願書を現地最高司令官の少将、牧田覚三郎に提出した。

     広島県呉市江田島にある海上自衛隊第1術科学校(旧海軍兵学校)内にある教育参考館には、嘆願書の複製がある。元館長、三村広志(97)が見つけた。

     黄季通ほか103人の連名、押印の中華民国29(昭和15)年5月1日付嘆願書にはこう書かれていた。

     「蒋(介石)政権が無理に抗日を唱えて民衆を扇動したことから禍が始まった。彼らは強制的に壮年男子を徴兵し、献金を強要するなど区民は痛ましい不幸に遭遇した。事変(日中戦争)が起こって住民は離散し、豊かな土地は廃虚と化し、田畑は荒れて家々は傾き、見る影もなくなった」

     「堀内部隊が本島に駐留して以来、利を起こして弊害を取り除き、信賞必罰を徹底して教育を普及し、農業を振興して橋や道路を造り、廃れていた衛生設備を直し、短期間に荒廃の区を良くさかえる域に戻した。海外に出ていた多くの華僑も(中略)善政のもとに復興しつつあることを知って、島に帰って(中略)昨年1年間に復帰定住した人の数は10年来の記録となった」

     「堀内部隊長らを長期にわたって駐留させて頂ければ、島民を幸福に導き、種々の業務がさらに復興すると考える(中略)。全島の住民が安住して生活を楽しみ、東亜和平の人民となろう。謹んで衷心から転勤延期を切望するものである」

     堀内が15年10月に去るに当たり、住民108人は寄付を募り「去思碑」という記念碑を建立し、堀内の徳をたたえた。しかし、戦後、中国共産党によって碑は破壊され、残存していない。三村は「占領した地域を復興させ、治安を回復させ、中国の住民から感謝された堀内大佐の遺勲を忘れず、語り継いでほしい」と話している。

    【2011.07.14 Thursday 00:48】 author :
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