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264:アメリカ/ 石垣島・艦載機搭乗員俘虜斬首刺突事件
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     戦犯裁判アメリカ管轄横浜裁判


    #258/石垣島・艦載機搭乗員俘虜斬首刺突事件

     石垣島で、搭乗員俘虜3名を斬首・刺突により殺害したものだが、日本兵戦犯裁判において特徴的な裏切り・密告・責任の擦り合いという点について象徴的な事件である。
     
     1945/4/15朝、沖縄県石垣島宮良飛行場を空襲した米軍の艦爆機が撃墜され、テボ中尉、ロイド一等飛行通信兵曹、タッグル一等飛行機関兵曹の3名が海警隊の俘虜となった。
     
     海警隊による事情聴取後当夜、テボ中尉とタッグル兵曹は本部近くで斬首、ロイド兵曹は刺突演習に供され殺害された。
     
     戦後、証拠隠滅の為に、遺体を焼却し海に流したというが、匿名の密告投書により事件は発覚した。
     
     
     
    戦犯裁判 1947/11/26〜3/16

     当初、日本兵同志の裏切り・密告・責任の擦り合いで法廷は混乱し、46名起訴で絞首刑41名の判決となったが、再審で減刑された。
     
    海軍警備隊司令官・井上乙彦大佐・神奈川・海兵卒・52歳:
    50/4/7絞首刑
    副司令・井上勝太郎大尉・岐阜・海兵卒・27歳
    50/4/7絞首刑
    幕田稔大尉・山形・海兵卒・30歳:50/4/7絞首刑(司令の命令により、俘虜1名処刑)
    榎本宗憲中尉 絞首刑
    田口泰正少尉 絞首刑
    成迫忠邦兵曹 絞首刑
    藤中松雄一等兵曹・福岡・農家の婿養子・29歳 絞首刑
    将校3名と兵士29名が無期〜懲役5年となった。


     本来、司令と後数名の処罰で済んだ事件であったが、当初井上乙彦大佐が混乱し、部下もこれに応じて大混乱、多数の重刑者を出してしまった。
     
     交戦法規に違反していない搭乗員俘虜を殺害するのは違法行為ではあるが、移送手段の無い孤立した島嶼で俘虜処遇が不可能な場合は、どの国の軍隊も俘虜は捕らない。
     だからと言って、戦犯裁判は戦争の継続だから、本件被告らの処罰は正当である。
     ただ責任のなすり合いってのは、ホント見苦しい。
     

     ここでも密告投書があったが、戦後、誣告を含め特亜系日本兵による密告が多発していたヨ〜だね。
     
     戦犯処罰を否定まではしないが、日本兵を陥れる目的で行われた密告などについては、銘記しといたホ〜が良いんじゃないの。



    警備隊司令・井上乙彦海軍大佐

    歎願書
     マッカアサー元帥閣下

    私は四月七日巣鴨監獄にて絞首刑を受ける元石垣島海軍警備隊指令井上乙彦であります。

    私独りが絞首刑を執行され、今回執行予定の旧部下の六名及び既に減刑された人達を減刑されん事を三回に亘り事情を具して嘆願致しましたが、今日の結果となりました事を誠に遺憾に存じ乍ら私は刑死してゆくのであります。

    由来、日本では命令者が最高責任者でありまして受令者の行為はそれが命令による場合は極めて責任が軽い事になってゐます。
    戦時中の私達の行動は総て其の様に処理されてゐたのであります。

    若し間に合はばこの六名を助命して戴きたいのであります。

    閣下よ。
    今回の私達の処刑を以て日本戦犯絞首刑の最後の執行とせられんことを伏して私は歎願致します。
    これ以上絞首刑を続行するは米国の為にも世界平和の為にも百害あって一利なきことを確信する次第であります。
    また神は不公正及び欺瞞ある公判によって刑死者を続出するは好み給はぬと信じます。
    尚之を押し進めるならば神の罰を被るは必然と信じます。

    願くは刑死しゆく私の歎願書を慈悲深く、広量なる閣下の御心に聞き届け給はん事を。

        4月6日   井上 乙彦

     井上大佐の心情は、同情されるべきだと思う。

       遺 書

    昭和25年4月5日夜於巣鴨、絞刑前。
    今朝文彦が面会に来てくれて誠に嬉うございました。
    面会前今週はあぶないと感じましたので文彦にも来月千鶴子の面会は望みない旨申しておきました。

      ゆくりなく初面会に来し次男
          永遠の別れと知らず帰りき

    文彦も一人前の立派な男になった姿を見てすっかり安心しました。
    千鶴子の面会の時はいつもこれが最後ではないかと思ってゐました。

    既に戦場で幾度か死地に陥ってゐたのが今まで生きて来たのをもうけものだと思って下さい。
    21年の大晦日に拘引されて以来父なき家をかよわい手で支へて来たのですがこの五年間の苦しみをいつまでつづけねばならぬか判りませぬが誠心の吾が家には何時かは必ず神様のお救ひがあると確信してゐます。
    私の魂はそれを祈ってゐます。

    私の魂は天にも浄土にも行きません。
    愛する千鶴子や和彦や文彦や千賀子といつも一緒にゐるつもりです。
    今日までは牢獄に繋がれて手も足も出ませんでしたが魂が此の身体から抜け出せば何時でもまた何処へでもすぐ行ってあなた達を助けることが出来ます。
    助けの入用な時やまた苦しい時はお呼びなさい。
    何時でも助けになりますから。
    私は齢51歳になって人生50を過ぎて、命の惜しい時ではありません。
    また生きてゐても最早米食い虫に過ぎぬと思ふ体です。
    然し愛する妻子が戦犯の汚名で死刑された者の家族であると言ふ事を考へると可哀想です。
    当分は肩身の狭い思ひをし、またある処では白眼視されると思ふとたまらない気持がします。
    くよくよしてもきりがありませんから私が息をひきとる4月7日の正午を境にして気持をきりかへて再出発の覚悟をきめなをして下さい。
    この遺書がいつお手にとどくか判りませんが若し着かなくてもあなた達の更生の覚悟は決ってゐて新生活に邁進なさる事が出来るのを確信して行きます。
    あとで墓も不用です。
    お葬ひや告別式などの儀式殊に饗宴類は私の為には無用です。
     
    絞刑の友〇名と準備室に曳かれてきてゐます。
    皆しっかりしてゐるのには敬服とも感激とも言ひ様がありません。
    唯頭が下がるばかりです。

    前から責任者である私だけにしてあとは減刑して下さいと幾度か願ったが終にこの結果になって御本人にも御遺族の方にも誠に相済みません。

    公判以来弁護に歎願にたくさんの方々にお世話になりましたが御礼の方法もなく死亡通知も出せるかどうか判らず、止むを得ぬ事だと思ひます。

           辞 世

      ‘笑って行く’と署名してある壁文字を
         遺書おく棚のわきに見出しぬ

       絞台に吾が息たゆるたまゆらを
         知らずに妻子は待ちつつあらむ

       石垣島に逝きしここだの戦友の
         遺族思ひをり最期の夜ごろを

       春雨に肌寒き今日を床のべて
         今宵限りのいのちを愛しむ

       独房に燭をともしてうやうやしく
         神父は吾に授礼し給ふ





    石垣島震洋特攻隊長・幕田稔大尉

    夜9時頃処刑言渡式があり、承認の署名を求められるかと考へていたがなかった。
    署名は兎に角こりごりである。
    全く強制暴力により署名させられ、それが自発的自白になる苦い経験は二度とくりかへしたくない。
    死によってすべて御破算になるのではない。

    言渡式が始まるのを外の廊下で椅子に腰かけて待ってゐるとき本当に落着いた気持になって考へたら死といふものはない様に思はれる。
    かねがねの不死の確信が絶対間違いでなかった事が絶対の立場に臨んで確証されたと信ずる。
    私の肉体は亡びる。
    生命も消滅するであらう。
    霊魂という様なものがあったら其れも無に帰するであらう。
    然し現在の私は永遠に存続する。
    此の世界宇宙は残ってゐる。

    昨年5月25日夜突然私の脳裏に深き確信をもって浮んで来た、
    自己即宇宙―道元の言葉をかりて云えば尽十方世界といふ様なものであらうか-の意義は現在に於ては私が死んでも世界は残るといふほのかな確信になって残ってゐるのであると考える。
    死といふ事が昨年五月以前に考えてゐた様な感覚で私に迫って来ない。
    実在の死として感じられない。
    此の感覚は私の幻覚としてほのかに私によみがへって来た様に最初は考え、言渡式が始まる頃まで消え失せるのではなからうかなど危惧に似た思ひがしたが言渡式が終っても以前として残ってゐる。
    私の頭脳にほのぼのとしてゐる。
    であるから今の私には死といふ物が殆ど平常の生活に於ける感じと異ならない。
    恐らく読む人は誇張と受取るかも知れないがそうでない。
    勿論明日の事はわからないが現在の心境は五棟の三階で何時もの様に起居してゐる時と少しも変りはない。

    こんな理であるから理性的に考えてみれば署名した事が私の死後どうならうと私の知った事ではないのであるが私は現在即永遠の私の残生に対して莫迦げた高圧的な圧力に屈したくなかったのである。
    私の良心に対し、私の内なる仏に対し厳密に忠実でありたかったわけである。
    いくら考えても軍隊組織内に於て命令でやった事が此の現実的な世界に於て死に価するとは考へられない。
    原爆で死せる幾十万の人間を生かして私の眼の前に並べてくれたら私は喜んで署名もしよう。そうでない限り受諾できないのである。

    大体この世界に於て人間の行為に対し罰し得る者は居ない筈である。
    罰し得るのは自分自身だけである。
    自分自身の内なる仏があるのみである。
    敢て他人を罰するのは人間の増長慢なり。
    神仏を知らざる神仏に逆きたる者である。

    人間各自が各々自分自身を自分で罰し得る世界は理想であり現実に実現不可能なのかも知れないが少なくとも現在の二十世紀の人間の余りに人間の仏性を無視し、ないがしろにしてゐる事が此処に於てはっきりと了解出来る。

    正直の所私は今回の判決に対して死に価するとは思はない。
    私の心をみきわめしとき、人間は必ず一度経験しなければならない死を無視して永遠に自分にだけは死がないといふ様な考えを持って居った。
    それはそれでよいのであらうが一度現実の死を深く勇敢に凝視して人間の死は実際に於てはないものだとの自覚に到達するのが仏教の教えの一点であり、人生を自覚し永世を得る所以であると考える。
    結果は同じであり、平凡であるが自覚の内容、根底に於て異なるものがあるのだと確信する。
    私も如何なる経過をとり斯の様な自覚に達するのか哲学的の組織ある説明は出来ないが西田哲学に言はれる絶対無の体験を得た時此の自覚が生ずるのであらうと思ふ。

    永遠なる現在であり、それを透して望み得られるものは眼前に照々乎たる現実の世界である。
    そして其処では永遠=涅槃=地ごく=死=仏そして究極は総て無なのである。
    あらゆる物を疑ひ否定し尽した時、忽然として体験される「自己は世界なり」とは絶体無の体験を通過して生ずる自覚であり、生命ある此の具体的事実である。

    ニヒリズムは此の否定を観念で唯頭の中で否定を行ひ具体的事実から離れてゐる所に危険性があると考えてゐる。
    だから仏教で言はれる無とニヒリズム(と)には、生命を内蔵した具体的事実と初めから生命のない抽象された観念的遊戯との差異があり、仏教の否定をニヒリズムと考えるのは根本的に違ふのだと自己流に考えてゐる。
    身体ごと体当りして体験してゆくのと頭の中の思考だけの事とは、全く違ったものであると考える。
    古人曰く「人生は生死一大事因縁をあきらめる道場なり」と。
    古人の此の気魄が私に無限の勇気を与へてくれ何となくうれしい。

    一昨年九月頃から文字通り唯「仏の実在か不実在か」をあきらめんとして五里霧中の暗黒を彷徨しつづけた。
    文字通り寝食を忘れた精神が全く莫迦げた私の三十年の人生にとり一点の光明であったと信ずる。
    よくあの時の精力と根気がつづいたものだと吾ながら感心する。

    そして昨年五月二十五日が私の人生の永遠に再生した日であった。
    何の理屈もいらない『吾即宇宙』。
    勿論如何にしてそんな結果になったのか、そんな事は夢にも考えてゐなかった私にわからう筈もない。
    唯釈尊も此のちっぽけな私も根本に於ては一つであったのだ。
    否釈尊がその侭私であったと感ずる所から来る自己の不遜に対する畏怖、気が狂ってしまったのではないかとの自己に対する疑―此の幻覚を払ひ落さんとして頭をふり、部屋を見廻して異状の有無を確めたりした事だった―次で此の世の中で苦労し悩む人々に対してどうしてこんな理屈も何もない簡単な事がわからないのかとの憐憫とも憤懣ともつかない涙がぽろりぽろりと落ちた。

    次に頭に浮んだのは「私は正に処刑されんとしてゐるが、なあんだ此の大宇宙を殺さんとしてゐるのも同じ事ではないか、知らざる者の阿呆さよ」と腹の底から湧き出んとする哄笑を止めんとするのに一苦労した事であった。
    此の噴笑の衝動は其の後座禅してゐるときしばしば起り隣の佐藤氏を驚かしてはいけないと止めるのに骨折ったのが昨日の事の様に私の頭にこびりついて離れない。
    「今頃此の俺を殺さんとするのは丁度空気を棒でたたく様なものだ。吊り下げたと思ったらあに計らんや虚空の一角に呵々大笑するを聞かざるや」

    思はず脱線して大風呂敷を広げてゐるような恰好になってしまった。
    昨日から書き始めた漫談であるが遺書を書かなければならぬので一先ず筆を置く。
    外は霧雨がけむってゐる。

      網越しに今日見し母の額なる
         深き皺々(しはじは)眼はなれず

      老母のかけし前歯が悲しけれ
         最後(つい)の別れと今に思へば

      吾が最後の夜とも知らず陸奥(みちのく)に
         帰りつつあらむ老母思ふ

      夜半にめざめ思い浮べる母の歌
         ついのかたみと書き留めにけり
    【2011.06.24 Friday 22:02】 author :
    | B級裁判 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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      【2017.07.07 Friday 22:02】 author : スポンサードリンク
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