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161:アメリカ/ 武士道裁判・墜落B29搭乗員殺害事件
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    戦犯裁判アメリカ管轄・横浜裁判

    #23・#270/千葉日吉村墜落B29搭乗員殺害事件・武士道裁判(千葉県日吉村事件・茂原事件)

     1945/5/26・01:00頃、京浜地区を空襲したB29・250機のうちの1機が、千葉県長生郡日吉村(現・長柄町)榎本地区の水田に墜落した。
     搭乗員11名中、5名は落下傘で脱出、4名は機内で墜落死、機外の2名は瀕死の重傷であった。
     墜落の数時間前に榎本地区長栄寺に到着したばかりの第12方面軍第52軍第147師団第426連隊第1大隊第1挺身中隊(満淵正明大尉)は、村の警防団員らと共に、搭乗員らを捕獲・俘虜とし、長栄寺に連行した。

     朝、茂原憲兵隊が落下傘降下した「元気な」俘虜5名を連行して東京憲兵隊に移送(終戦後5名は帰国したが、うち1名は航海中に死亡)、遺体と重傷者は満淵中隊に残された。
     重傷者1名は間もなく死亡したが、ダーウィン・T・エムリー少尉は治療の術もなく苦しみ続けていた。
      
     5月に隣の市原市で小学生4名が射殺されており、また5/25の空襲では3,651名が死亡していた状況(菊地重太郎見習士官の実家も消失)で、100名以上(1000名以上とも)の見物人が集まり、罵倒だけでなく、棒で叩く・煙草の火を押し付ける等の虐待も始まっていた。

     衛生兵・境野鷹義曹長の意見具申により満淵大尉は殺害を命じ、昼過ぎに境野曹長は体を起こせないエムリー少尉の上半身をロープで竹にくくりつけて支え、見物人らの前で斬首した。
     遺体は、菊地見習士官の発案で兵の刺突演習に供された後、他の5遺体とともに「墓地」に埋葬された。
     その後、満淵中隊は本土決戦に備えて九十九里に移動し、終戦を迎えた。

     戦後、米軍が遺体を回収調査して、斬首事件が発覚した。

     三重で神職に就いていた満淵大尉(32歳)は、1946/1神戸で逮捕され、横浜裁判最初の米搭乗員殺害事件として、46/4/5戦犯裁判は開廷した。

     満淵大尉は、斬首命令・治療懈怠・刺突演習命令の3訴因により起訴され、同時に起訴された菊地見習士官は、刺突演習による遺体損壊で起訴された。
     満淵大尉は、「安楽死のために武士の情けで介錯したもの」と主張したため、「武士道裁判」と呼ばれることとなり、米人弁護人は、聖公会の林五郎牧師と日本歴史学の元帝大教授・中村孝也博士を証人に、「介錯」と「武士道」についての証言をさせた。
     検察側も、反対尋問で「武士道は外国人にも適用するのか」「現代の習慣に無い」「介錯に本人の依頼は不要か」「負傷者に医薬を用いないのは、武士道に背く」など、結構真面目に追及している。
     また被告人に対しては「被告は・・・戦友たちが数多くの介錯をおこなうのを見たと述べている。しかし、それらのなかには俘虜や負傷兵の苦痛をあわれんで首を斬った事例はない」と追及している。

     満淵大尉は、斬首命令・治療懈怠・刺突演習命令、全て有罪認定され、4/20絞首刑判決・46/9/6執行。
     菊地見習士官(21歳)は、25年の重労働、後減刑となった。
     逃亡していた境野曹長(31歳)は、後出頭し、47/1/7・#270法廷、斬首受命行為で1/21終身刑、後減刑10年となった。

     菊地見習士官と境野曹長が死刑を免れたのは、満淵大尉が「自分が命令した」と主張し、意見具申など部下が罪に問われる証言をしなかった為である。
     法廷では、菊地見習士官も「自分が命令した」と大尉を庇っているが、2007年、83歳で死去した彼は、生前「大尉は犠牲者を少なくしたかったのだ。」と妻に語っていたそうである。
      また、境野曹長は釈放後、2度ほど長栄寺を訪れ、住職にも礼を述べていたそうだが、1982年死亡した際は妻が長栄寺に位牌を納めに来たという・・・義理堅い方だったのだろう。
     刺突演習受命の兵士6名は、懲役1〜2年となった。


     満淵大尉の死刑判決直後に面会に来た母・たみは、面会時間の30分ただ泣き続けたという。

     満淵大尉は、1945/3に生まれていた長男・昭彦に「ちいさき者へ」という長文の遺書を残した。
     「たとへ判決がどうあらうともそれは当時の敵国としての目から見てのこと、私は日本人として何ら良心にはづるところはない」
    「日本には今新しい光がさしてゐるのだ。たとへ武力は有しなくても世界の最高の文化国として、アメリカ等も見返すやうな国になることによってはじめて、父の恨ははらせるのであることをどうか覚えてゐておくれ」
     その後、満淵大尉の妻は、長男・昭彦を実家に残し離縁、祖母・たみの愛情に育まれた昭彦は祖母を想い、実家に近い京大に進学したが、在学中に阪急電鉄に轢かれ死亡している。

    長栄寺鎮魂碑 1996年住職が自費で鎮魂碑を建立。
    「大東亜戦争の昭和二十年五月廿五日米軍B29が日吉村榎本地区に墜落搭乗員十一名中死亡六名の内エムリー少尉が日本駐屯兵のなかの境野鷹義曹長により斬首されその後満淵正明中隊長が全責任を負い巣鴨にて絞首刑となりすでに五十年。ダーウィンTエムリー少尉と満淵中隊長の鎮魂と世界平和を祈念し茲に碑を建立す。
    平成八年五月二十五日 天台宗福壽山長榮寺第三十八世権大僧正 大橋慈恒」

     大橋氏は、斬首時不在だったが、この事実に心を痛め、1960年住職となって以降、非公表で位牌を祀り供養を始めた。
     2007/1死去された後、長栄寺は無人寺になっている。

     以上が、事件の概要である。


     まず、斬首されたエムリー少尉は、無差別爆撃実行犯の戦争犯罪人である。
     無差別爆撃の実行犯に対する日本側の認識については、ドーリットル空襲のエントリーで解説するが、エムリー少尉は無差別爆撃実行犯の重大戦争犯罪人であっても、初期の日本の軍律裁判では禁固刑で済んだろう。
     しかし一方、米に起訴されていれば間違いなく絞首刑となっていた犯罪者である。
     満淵中隊は、そんな戦時重罪犯を俘虜にしたのである。

     満淵大尉裁判では、俘虜を診断した軍医、近隣の病院長、当時の第52軍司令官などが、殺害された俘虜には助かる余地があったこと、上司への報告を欠いた斬首が手続き的に不備であった旨証言しているという。
     しかし、これが事実であるのなら、検察側日本人証人は全員、ソ〜ト〜性格が悪い。
     俘虜を診断した軍医って、満淵中隊の所属じゃないんだから、まず茂原憲兵隊に同行した軍医だろ。
     コイツは、エムリー少尉ら重傷者を診断して、憲兵隊の連行には及ばないと判断し、満淵中隊に重傷者を押し付けて放棄した軍医じゃないか。
     治療可能であったなら、この軍医が病院に搬送して治療していれば済んだ話である。
     衛生兵しかいない満淵中隊に瀕死の重傷者を押しつけておいて、「治療すれば助かる余地があった」・・・なんて証言したのなら、米に媚びて日本人を陥れたということ。
     その上コイツは、法廷で有利証言を依頼する満淵大尉の手紙を公表している。
     重傷者を満淵中隊に残す判断を下したのは、この軍医である。
     コイツこそ、確信を持って絞首刑に処するべき人物であると思うよ。

     また、近隣の病院長も、その空爆で死傷率換算数千名以上の戦傷者が出ているであろう状況で医師も医薬品も不足していたのに、米機俘虜を優先助ける余地はあった・・・と証言したのなら、大ウソつきだろ。

     加えて当時は、憲兵司令官から全軍に「戦犯裁判無しの処分」通達が出ていただろって。
     憲兵・軍医が放棄していった俘虜処分を、満淵大尉が上官に報告・問い合わせしようもんなら、罵倒して処分命令出してるタイプだろ。

     「報告を欠いた斬首が手続き的に不備」って、第52軍司令官・・・重田徳松中将か、コイツ責任逃れもタイガイにしろよ。

     対日戦犯裁判の特徴は、裏切り・密告・責任のなすり合いである。
     その意味では、満淵中隊戦犯2名の自己犠牲・庇い合いは日本人らしい。

     重傷俘虜の斬首は、報復感情ムキダシの見物人に対する意味もあったと思うが、中隊員の報復感情によって斬首が行われたものとは思われない。
     医者・医療設備・医薬品も無い中隊で、押しつけられた瀕死の重傷者を死ぬまで放置しておけば、誰も訴追される事は無かったのだが・・・

     補足して、刺突演習についてである。
     確かに遺体損壊であり、米の報復感情は理解出来る。

     ただ、中隊は本土決戦の前線部隊であり、米軍が上陸してくれば、弾薬も十分ではないのなら、いずれ銃剣突撃するしかない。
     そのための刺突演習を批判するのであれば、無条件降伏を要求して天皇の逮捕・殺害を企図した・・・日本の降伏交渉を拒否していた米にも、相応の責任がある。


    満淵大尉の遺書 全文 「チイサキ者ヘ」

     昭彦よ、私がお前の生まれたのを知ったのは昨年の4月、北千島から内地転属となり、旭川の連隊に入ってしばらくしてからであった。
     北海道に着く前、乗船が敵の潜水艦に撃沈されて九死に一生は得たが、持ちもの全部を失ったので早速、家に要請の便りを出した返事に、私の父から「3月、男の子誕生で母子とも健全。有馬の産院だったので、その夜、神戸には大空襲があったが、何の事もなかった」との事をきいて「よかった」と思うと共に、なんだか泣きたいような衝動にかられた事を覚えている。
     私の母の希望でつけたという昭彦の名もよくできていると感心した。

     はじめてお前をみたのは終戦後、千葉県から復員して、9月19日の夕方、疎開先の飾磨郡(現姫路市)八木村木場という海辺の里を訪ねた時だった。
     伊勢という町家の店の間に戦災にあった乾の祖母と同居していたが、あいにく2、3日前の暴風雨で断線のため明かりなしの薄暗い部屋で、みな蚊帳の中でふせっていた。
     節子があわてて抱いて出て「かわいい顔をしているでしょう」と言って差し出して、家の人がつけてくれたローソクの灯の下で、まずお前のうすい毛のはえた大きな頭が目につき、それから割に目鼻だちの整った色白の顔が目にうつった。
     頬の肉はなく、口より下は見えないくらい小さかったが、私の顔をじっと見ているのを見ると感慨無量だった。
     それまでもお前の母はずいぶん苦労していたのだ。
     窮迫した食糧事情で乳も足りなかったし、頻繁な空襲ごとの待避も並大抵ではなかっただろうと思う。
     私が軍隊から持って帰ったキャラメルを乾パンの入ったうすい布のふくろにつつんでふくませると、お前はいかにもおいしそうにちゅうちゅう吸った。
    私はそれで初めて父親の愛情を味わったものだった。

     それから私は休養かたがた数日を木場ですごした。
     乾の祖母がいたのでお前が泣きかけると、よく交代してもらったが、私もあの川辺や海岸を歌いながら、よく抱いて歩いた。
     母が手さげ袋におむつを入れ、祖母と私と代わる代わる抱きながら隣村のあるお堂へお参りに行った事もある。
    (尤もこれは道がこわれていたため、そのお堂を目前にみながら海辺の景色の良い所で遊んで帰ってしまった)
     そしていよいよ引き揚げるという前日、弁当持ちで母がおぶって近くの姫路に出かけた。
    お城はのこっていたが、まちはほとんど焼土だった。
     天守に上って昼食をとり、ゆっくりしていたが、帰りには雨に降られて背負った上から私の持っていた将校マントをかぶせて歩いたので、異様な風態に人を怪しがらせたようだ。
     もしお前が将来このお城にのぼることがあったら、生まれて半年ぐらいたったころ、亡き父に抱かれて、この天守の五階の窓から四方を見たことがあったのだと、どうか思いだしておくれ。

     木場をたつ日は、いやな雨風になった。傘のわきから雨がふき込んで濡れて冷えるし、電車はなかなか乗れそうにもなしで、やめて出直すかという話が出たくらいだ。
     でも祖母のついてきてくれたおかげで、ともかく無事、神戸の箕岡通りの宅についた。ぐっしょり濡れて、かぜをひきはせぬかと、だいぶ心配したが、それもよかった。
     今までも病気ひとつしていないところをみると、お前の体質は丈夫だ。
     これで体力さえ練ったら、きっと立派に成人すると思う。
     二、三日滞在して10月はじめ、私は勤め先だった三重県の多度に向かった。
     相変わらすの輸送難で電車に乗る時、つぶされはせぬかと母がずいぶん気をもんだものだ。
     むずがりかけると例のキャラメルをふくませて機嫌をとった。
     多度に着いた時はすでに暗くなっていた。
     それから多度神社のすぐ下の古風な家で親子三人水入らずの楽しい生活が始まった。
     私は昼は社務所に、母もよく薪とりや菜園の手入れなどで外へ出たので、お前は一日の大半ひとりでいる事が多かった。
     幸いまだ這い出さなかったので広間や表の細長い部屋で小さな布団の上に寝かされていたのだ。
     神戸の家ならば誰かにもりしてもらえるだろうにと可哀そうに思ったが、どうしようもなかった。
     私が昼食や退庁後に帰ってみると、よく布団から転がり出て涙だらけの顔をして泣いていたものだ。
     そとで家のわきを通る時はさかんに泣き声が聞こえているが、門を入って玄関のたたきにかかると足音を聞きつけて、ぴたりと止まる。
    障子をあけて部屋に入ると、きょろきょろ見回して姿をさがす様子は、とてもいじらしくて白衣のままよく抱きあげたものだった。

     たまの休暇で昼も家に居る時は全く楽しかった。
     こんな時は母も外へ出ず、お前は珍しく一日中、下に置かれず、もりしてもらえた。
     いろいろの関係で遠くへでかける事はほとんどなかったが、一度だけ電車に乗って養老公園に行った。
     11月のはじめで紅葉にまだ早かったが駅から滝までの道中、大部分、私が抱いて歩いた。
     そのころお前はまだ肉もつかず、私の手がちっともだるくならない位かるかった。
    「肥えていてもよく病気する児がある」とか「こんな時には楽でよい」とか母と話しあって笑ったものだ。
     お前と一緒にいられたのはわずかに四ケ月、今から思えばその短い期間が私の人生の花だったのだ。
     一月の下旬、私が戦争犯罪の容疑者としてこちらに来る事になった時、せめて親子そろって記念の写真をと思って出かけたのだが、写真師の都合でそれも叶わなかったのは残念だ。

     その後の家からの便りでお前が神戸の祖父のもとに引きあげて、めきめき太ってきたと間いた。
     よくその姿をまぶたに描きながら、ことに刑が決まってからは他の人と話もできない孤独のつれずれなるままに、いつもお前と遊んでいるつもりになっては「ねんねんころりよ」の子守歌や童謡などを歌ってすごした。

     お前と最後に会ったのは6月の3日、ここの面会所でおいてであった。
     目の細かい金網を隔てていたが、お前は母に抱かれていて、網の向こう側の棚の上に足を投げ出して、横向きに座っていた。
     私を見ると、なんという事なしににっこり笑ったが、頬に肉がついたのが目立ち、その白い顔が白い服によく映って、とても愛らしく見えた。
     私が生後百ケ日に撮ったとかいう写真を思い出して、よく似ているとも思った。
     決められた時間は30分だったが、お前はわりに機嫌よく遊んでいた。
     時々むつがっては何か心尽しのお菓子をもらって、口のまわりを黒くしながら、よく私の方を向いた。
     つたい歩きはするとの事だったが、いよいよ別れの時、棚の上に立ち上がって母に支えられながら、ただにこにこと笑っていた姿は死ぬまで私の脳裏にやきついている。
     こう言ったとてお前にはとても思い出す事もできないであろう。
     まだ何も知らないで幸福だと思うと私は独房に帰ってから涙が出て出てしようがな
    かった。

     昭彦よ、やがてお前は父がどうして死んだか教えられる時がこよう。
     父は米軍の軍事法廷で死刑の宣告を受けたのだ。
     昨年の5月26日の明け方、まだ日米の戟いのたけなわだったころ、東京を空襲したアメリカのB29の一機がちょうど私の隊の駐屯した村に落ちてきた。
     事件はその搭乗員の一人の処置に関するもので、私は隊長としてその責任を問われたのだ。
     それは落下傘が開かず、翼の傍らに落ちた男で大腿骨折その他ショック症状をおこしており、かけつけた軍医もみてこれはだめと言い、処置のしようもないと言って帰り、憲兵隊長も「これは連れて行っても途中で死ぬから隊で適当に処理してくれ」と言って、ほっていったものだから、私が部下の境野曹長の意見をいれて彼に介錯させたのだ。
     それはあの場合その人自身にとってもよかった事だと私は思っている。
     がそれはまた当時の戦う国民の士気を高揚する結果をも生んだ。
     なお、そのあとで新兵の一部が幹部の指導を受けて試し突きした事実もあるが、すべては国家の危急に際してお召しにあずかった軍人として、その職分を最も忠実に果たしたまでの事だから、私は部下の行動の責任をすべて一身に負って法廷でも決してひるまなかった。
     たとえ判決はどうあろうとも、それは当時の敵国としての目から見ての事、私は日本人として何ら良心に恥ずるところはない。
     それは戦死と同じだ。あるいは戦死よりも悲惨な死であるかもしれないけれど、彼らから憎まれる事が深かっただけ、それだけ戦う日本のためにお役に立ったのだと言えない事もない。
     何にしても敗れたものは弱い。
     日本の悲劇はまた直ちに私の家庭の悲劇ともなったのだ。
     昭彦よ、こんな事で早く父を失った悲運をいたずらに嘆いてはいけない。
     また単純に勝ちにおごる敵をうらむような狭い考えでもいけない。
     日本には今、新しい光がさしているのだ。
     たとえ武力は有しなくても世界の最高文化国としてアメリカ等をも見返すような国になる事によって、はじめて父の恨みははらせるのである事をどうか覚えていておくれ。

     昭彦よ、私は父としてお前になんにもしてやる事ができなかった。
     ほんとうにすまないと思う。
     あとに残った一人の母はお前をそだてるためにきっと人一倍の苦労をされる事だろう。
     決して無理を言って心配をかけるのではないよ。
     そして、いつでも人にほめられるような子供、立派な日本人になってお母さんを喜ばしてあげるのだ。
     どんな苦しい事があっても決してそれにまけてはいけない。
     死力を尽くせば必ず先は開けます。
     なんといっても身体がもとだ。
     まず身体をうんときたえなさい。
     それからどんな仕事でもいいから一生懸命にやるのだ。
     勉強する時は勉強、用事を言いつけられたらその用事、社会に出たら、まずその職業、全力を打ち込めばきっと成功します。
     父のないお前はおじいさんやおばあさん、叔父さんや叔母さん、そのほか多くの人々からきっといろ
     いろお世話にあずかることと思います。どうかその方々のご恩を決してわすれないように。

     この2、3冊のノートは父がここへ入ってから思いうかぶままに少しずつ書きとめていった雑文だ。
     北原白秋は後年、「もし自分が邪宗門を発刊した当時死んでいたら私に対する世評は今と随分変わっているだろう」と言ったが、私ももし長生きしてお前の生長を見守っておれたら、その時の思想はこんどはまた違ったものになったかもしれない。
     益田巻満という人は臨終に際してその著書をみな焼き捨てたというので、今、学界から非常におしまれているが、私には巻満のその時の気持ちが深い共鳴をよびおこすようだ。
     ここに書いたことは全くわれながらあきたりない。
     それにもかかわらず破りたくてやぶれないのは決して世間の人に見てもらうためではない。
     昭彦、お前とのうすい縁がこれで少しでも補われればと思うゆえにこそだ。

     昭彦よ、父はいよいよあすの朝、牲壇にのぼることになった。
     今の私の心境はちょうど古田松陰が安政の大獄に斬られる時と同じではないかと思っている。
     死の直前、私は(さいわい許されそうだから)次の二つのうたを高唱して死のうと思う。
     天皇陛下万歳三唱も最後につけ加えて。
     海ゆかば水漬く屍山行かば草むす屍大君の辺にこそ死なめ省みはせし(国民歌)
     身はたとえ武蔵の野辺に朽ちぬとも留めおかまし大和魂(朗歌)

     筆を置く今、目をつむる時まぶたにうつるのは節子に抱かれたお前の可愛い笑顔、そして場面が一転して立派な青年になったお前と相変わらず節子の母子相対して楽しく何か語り合っている美しい幻だ。
     昭彦よ、どうぞ元気で立派に大きくなってくれ。
    さようなら。
    昭和二十一年九月五日
            満淵正明

    (原文は漢字カタカナの旧仮名遣い。)


     昭彦さんの人生を含め、胸が詰まるよ。
    【2011.06.10 Friday 15:48】 author :
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