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1401:戦犯裁判・イギリス管轄・ビルマ・ラングーン裁判:第1号法廷/モールメン・カラゴン村敵性住民討伐・市川事件
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    戦犯裁判イギリス管轄 :ビルマ・ラングーン裁判

    第1号法廷/モールメン・カラゴン村敵性住民討伐・市川事件

    起訴理由概要:1、カラゴン村に於いて、約600名の良民婦女子を惨殺した。
    2、全村を放火焼却した。
    3、同村において掠奪強姦を行った。

    起訴理由概要2:(ママ) 市川正義等下記全員は、ビルマテナセリウム、モールメン地区カラゴンにおいて、占領軍に勤務中の昭和二〇年七月八日頃、共同して前記カラゴン村の住民である男女及び子供の不法殺害に関与し、また、同時等は、昭和二〇年七月八日頃、共同して前記カラゴン村の住民を不法に殴打拷問、傷害及びその他の虐待を加え、市川清義は、ビルマ、モールメン地区カラゴンにおいて、占領軍に勤務中の昭和二〇年七月八日頃、前記カラゴン村村長の妻、及び、カラゴン村住民のその他の婦人九名を不法に誘拐し、又は、誘拐に寄与した。

     


    陸軍第33師団歩兵第215連隊第三大隊

    第3大隊長・市川清義陸軍少佐・福島・陸士卒・27歳:殺害・傷害虐待・婦女誘拐:46/3/22開廷>46/04/10判決絞首>46/7/14確認絞首:弁護英人将校:執行46/7/15・0600

    第12中隊長・緑川寿陸軍大尉・栃木・29歳:殺害・傷害虐待:46/04/10判決銃殺>46/7/14確認:執行46/7/15・0630:3名同時

    第10中隊長・田島一郎中尉・群馬:殺害・傷害虐待:46/04/10判決銃殺>46/7/14確認

    第3機関銃中隊長・柳沢泉大尉・長野:殺害・傷害虐待:46/04/10判決銃殺>46/7/14確認

    第11中隊長・武井省三中尉殺害・傷害虐待:46/04/10判決10年>46/7/14確認

    大隊本部付・坂巻三郎大尉・長野:殺害・傷害虐待:46/04/10判決10年>46/7/14確認

    大腿副官・大久保要三大尉・長野:殺害・傷害虐待:46/04/10判決10年>46/7/14確認

    臼井喜世啓軍医少尉:46/04/10判決無罪

    ビルマ憲兵隊・モールメン分隊・東登憲兵中尉:46/04/10判決無罪(別件絞首刑)

    藤原良造憲兵准尉・岩手:傷害虐待・殴打拷問46/04/10判決5年>確認

    小林彰憲兵曹長・山口:傷害虐待・殴打拷問46/5/1判決5年

    永田俊之憲兵軍曹・熊本:他部隊付が判明し召還無しで46/5/1判決無罪

    野本欣二憲兵軍曹・埼玉:傷害虐待・殴打拷問46/5/1判決7年>47/4/10確認17年

    森本誠一憲兵伍長:(調理担当の当番兵)46/5/1判決無罪

    :モールメン・エバイン村敵性住民討伐事件
    第215連隊第2大隊将校2名不起訴
    「カラゴン村事件事実の要約」
    ビルマ軍司令官から日本軍務局長、連合国陸軍司令部、東南アジア司令部宛てに送付された1946年5月28日付文書「戦争犯罪法廷」から
     1946年6月、ビルマにおける日本軍の立場は不安定なものであった。
     一方、数ヶ月間イギリス軍パラシュート部隊は、モールメンとダリの森の中間地帯において、日本軍の背後に潜むゲリラとともに離れて駐屯していた。
     日本陸軍第33師団司令部は、その地域への探索部隊を急ぎ派遣することを決定した。
     第215連隊第3大隊は、被告1(市川)の指揮下、最初の探索を行った。
    しかし、極めて少ない情報しか得られず、連隊長が被告1に対して、カラゴン村への作戦を実行し、カラゴン村民の支援を受けていたとおぼしきその地域のパラシュート兵とゲリラを掃討するよう、書面による命令を与えた。
    協議の上、連隊長は被告1に対し、たとえ村民を殺害することになろうとも、探索を完璧に遂行するよう命じた。
     7月2日、3日の両日に、被告9(ヒガシ)は、憲兵隊補佐官をカラゴン村探索のため待機させるよう、第33師団司令部少佐ヒラザワ(平沢)から命令を受けており、被告11(コバヤシ)、13(ノモト)とともにチョンノクワ(第215連隊第3大隊駐屯地)へ赴いた。
     チョンノクワにおいて、彼らは被告10(フジワラ)、14(モリモト)と合流した。
     部下に必要な指示を与えた後、被告9はモールメン(憲兵隊本部)へ戻った。
     第215連隊第3大隊は被告1の命令下、連絡将校の被告2(坂巻)、副官の被告3(大久保)、中隊長の被告4(柳沢)、5(緑川)、7(田島)、8(武井)、軍医将校の被告6(臼井)、憲兵隊の被告10、11、13 および4人の隊員とともに集合した。
     被告12(ナガタ)は憲兵隊員ながら他の大隊付であり、カラゴン事件に本人を結びつける証拠はなかった。
     当大隊はカラゴンへ向けて進軍し、7月7日到着、村を占領した。
    被告8の指揮下、第 11 中隊はカラゴン村から東へ1キロ離れた地点を占め、防御の任に当たっていた。
    被告7、5、4の指揮下、第10 中隊、11 中隊、機関銃中隊は、それぞれカラゴン村内へ侵入した。
     7月7日16時ごろ、村の住民は集合させられた。
     男はモスクに監禁、女と子供は隣接する建物に押し込められた。
     その折、数人の村民が憲兵隊員によるさまざまな形式の取調べに屈服した。
    この取調べは夜を徹して行われ、村民は殴打され、残忍な虐待を受けた。
    約8人の村民が憲兵隊司令部へ連行され、そこで被告10、11、13 により取調べを受け、拷問、殴打された。
    被告2 は、これら取調べのいくつかに立ち会っていたとの証拠があった。
    この拷問を伴う取調べで、連行された村民8人のうち数名は、他の村民がゲリラを支援していることを認めたのである。
     翌朝、会議の席で、被告1は、村を破壊し住民は男も女も子供も、大量虐殺するよう命令を下した。
     同日午後、住民は4人から10人がひとまとめに縛られ、近くの井戸へ連れて行かれた。
    そこで一人ずつ縛られ、目隠しをされ銃剣で突かれたうえ、生死に構わず井戸に投げ込まれた。
    日本軍は井戸の中の人の身体を竹の棒で突き続け、かくして600人以上のカラゴン村民を始末したのであった。
    その行為の目撃者のうち2人は銃剣で突かれた犠牲者であったが、井戸から脱出したのである。
    彼らは、憲兵隊による取調べと、次に起こる虐殺について詳細に証言した。
    7月9日、日本軍はダリの森を捜索するためにカラゴン村を出発した。
    彼らは11日に村に戻り、掠奪のうえ村を焼き払った。
    スパイとして日本軍のために働くようにと助命しておいた村の女性10 人を伴って、7月12日、最終的に村を離れたのである。
    女性10人のうち逃亡した2人を除いて、彼女らを再び見ることはなかった。
     英軍が作成した上記「事件事実の要約」や裁判記録を読む限り、一応公正な裁判が行われたようである。
     当時、未だ日本人弁護士は到着しておらず、英印軍弁護士であったが、これがマジメに弁護してるんだよね。
     撤退中の日本軍や市民、そしてビルマの要人たちに対して、モールメンでも英軍工作部隊やゲリラの襲撃が頻発して、日本軍が追い詰められていた状況で、ゲリラなどを裁判出来る余裕は無かった事や、住民たちの戦時反逆の重罪行為に対する復仇を主張してるし、原爆やビルマ爆撃の婦女子殺害と何処が違うんじゃ〜? とか、ちゃんと頑張ってくれてたよ〜だ。
     本事件で起訴されてる第11中隊の他、3キロほど離れた所に第9中隊もいたんだが、大隊なのに合計で140名ほどしかおらず、マラリヤなどでヨレヨレの隊員が6月に討伐作戦に駆り出され捜索空振りで、7月再度カラゴン村に入った第10・第12・第3機関銃中隊総員で90名というんだから、極限状態の作戦だったんだよ。
     
     「婦女子を含む大量殺人」なんだから戦犯起訴は仕方が無いが、本土空襲に参加して戦時反逆無関係の婦女子を殺してた英軍が、モールメンの復仇は否定出来ん筈なんだけどね。
     開廷前の供述書で市川少佐に責任転嫁して不起訴になった連隊長は、部下たちの死刑判決後に良心の呵責に耐えかねて「全責任は自分にあり」と嘆願書を出したのはまだしもだが、生存した第11中隊長・武井省三中尉の証言だと、師団長田中信男中将は逮捕前の部下たちに「お前らのやったことは、一切お前らで責任を取れ。上の者に絶対迷惑を掛けてはならんぞ」、「市川が師団命令だなどと余計なことを喋るから」などと言ったという。
     勿論こいつは許せんが、それ以上に戦後1973年に戦友会誌に寄稿した第9中隊・小隊長長島善雄少尉って、トンデモナイヤツだよ。
     兵が教えてくれた。“小隊長、井戸を見てごらん”と。
     そこには前日虐殺された五百数十名の死体が、上からおおわれたアンペラのつぎめから、死体の腹部の浮上していたのが散見された、どの井戸も死体で一杯だった。
     正に目をおおうばかりの惨状である。・・・
     尋問し、拷問し、あげくの果てに、無実の女、子供を“この子だけはお助けを”と叫ぶ母を、母にすがるあどけない泣き叫ぶ子供を、次々に殴り殺して井戸になげ込んだと言う。
     はじめは男子壮年のためし切りから、無情にも女性の陰部に青竹を挿入し悶絶させたとか、子供を逆さにふり回して井戸の内壁にぶっつけてザクロの如くにわったとか、全く言語道断、悪鬼羅刹の所業、兵はその後の口の端々に、戦争の業火をいまさらながらおぞましく、戦りつをもって綴らなければないことを悲しいことだと思います。・・・
     大隊長は大隊本部のおびただしい鹵獲の荷駄に前後して、色の黒い若いその部落の少女数名を行軍の列に交えていた。全員虐殺の筈なのに。
     なんとしたことだろう。兵のささやき交わすことばのひわいさ。・・・
    その少女の姿も数日後には行軍のなかに見出すことは出来なかった。噺はいろいろであった。
     この証言を疑問に思わなかった貴方は、特定日本人の可能性が高いw。
     「どの井戸も死体で一杯」は事実だったんだろうが、「五百数十名の死体」はちょっと気になる。村側は637名と主張し、市川少佐は300名主張だが、中帰連風の主張方を思うと、殺害実数は500名より少なかった可能性がある。
     「無実の女、子供を“この子だけはお助けを”と叫ぶ母を、母にすがるあどけない泣き叫ぶ子供を、次々に殴り殺して井戸になげ込んだと言う」現場にいたかのように語るわけだが、殺害命令は「銃剣刺突」である。
     また、大隊到着前に200余名の村民が逃亡していたというが、彼らがゲリラだった可能性は高く、英軍パラシュート部隊も付近にいるであろう逆襲され得る状況で、時間を掛けて殴り殺していられるかよw。
     「男子壮年のためし切りから、無情にも女性の陰部に青竹を挿入し悶絶させたとか、子供を逆さにふり回して井戸の内壁にぶっつけてザクロの如くにわった
     この証言当時、「中国の旅」ブームで「良心的日本兵証言」は受けたんだが、英軍部隊・ゲリラ部隊索敵中の小兵力のマラリヤ患者部隊が、「市民を見たら元気ハツラツ」ってw。
    全く言語道断、悪鬼羅刹の所業、兵はその後の口の端々に、戦争の業火をいまさらながらおぞましく、戦りつをもって綴らなければないことを悲しいことだと思います。
     こう語る特定日本兵や特亜系日本兵がやってた残虐行為って、実はチナ兵と全く変わらなかったというのが、興味深い。 
    大隊本部のおびただしい鹵獲の荷駄
     敗走中の日本軍民やビルマの要人を守るための作戦行動であれば、食料や物資の徴発も任務に含まれたろうから鹵獲の荷駄もあったかもしれないが、こいつ本部要員が10余名程度しかいなかったの知ってただろw、「夥しい」ってなんだよ。
    兵のささやき交わすことばのひわいさ。・・・
    その少女の姿も数日後には行軍のなかに見出すことは出来なかった。
     市川少佐は女性を拘引するよう連隊命令があり、村長の妻を含む10名(うち3名逃亡)を連隊に送致した旨証言している。
     また、別大隊の永塩良輔少尉の伝聞証言ながら、連隊付きの歩兵砲中隊が指名され、連隊本部のワーガレー部落にいたカラゴン女性数名を刺突処分したという。残りはド〜なった?
     「殺害したなら同じ」と思うかもしれないが、兵のささやき交わすことばのひわいさ後に、少女は行軍から消えたってユ〜んだから、作為マンマンだろ。
    第11中隊長・武井省三中尉・1972年の証言は説得力がある。
     第3大隊がモールメン東南チョンノクワに集結したのは6月中旬、・・・集結後まもなく、“カラゴン附近に、英軍パラシュート部隊降下の徴あり、また、そのため英人アビー少佐の指揮するゲリラ部隊が同部落を根拠地として活動中である。
     第3大隊は、これを捜索し、敵ゲリラ、およびその根拠地を覆滅すべし”との命令を受けた。
     激戦と敗走に疲れ切った将兵、しかも、一ケ中隊の兵員わずか十数名(定員250余名)という部隊は、雨季最盛期の湿地と森林の中を、腰まで水に浸かりながら、数日間にわたって行動したが、なんらの成果もなく、空しく帰営した。
     全くの徒労であった。・・・
     7月上旬再度、“カラゴン”部落、ダリーの森林一帯の討伐を命令し、お目付け役としてか、師団参謀平沢少佐、東大尉の指揮する憲兵隊まで派遣してきた。
     降下部隊根拠地の覆滅、そして支那大陸の戦法にならって、部落および協力住民の総抹殺を命じたのである。
     第1回の討伐の困苦と徒労の上に、マラリア患者続出の各中隊は、無謀な討伐出動に強く反対したが、命令とあらばいたし方もなかった。
     “カラゴン”部落を全滅させ、さらに森林一帯を数日行動したが、今回もまた、戦果はなく、失望と怒りと消耗だけが残った。・・・
      戦犯について幾多の批判が出されている。
     しかし日本軍が住民にせよ、投降者にせよ、大なる被害と苦しみを与えたことは厳然とした事実である。
     誰かが責任を取り、罰を受けることは当然である。
     ところで誰が裁かれ、罰せられるべきか。
      連合国はわれわれを裁いた。
     師団長、連隊長の命令よりも、実際に部落掃蕩の行動をした市川少佐以下の責任を追及するという態度を取ったのである。
     戦勝国は正義によって、われわれを罰した。
     己れ自身の犯した数々の罪を自らは裁くことなく、敗者のみを裁いた。
     われわれは罰せられたことは当然と思っているし、また、これによって被害者の心が安まるとも思っていない。
     しかし軍隊という、国家という組織の犯した悪は、どこを罰すればよいのか。心の中での反問は尽きない。
    銃殺執行時の目撃証言:https://www.youtube.com/watch?v=2GffevUQ91s
    市川清義陸軍少佐
      最後の手紙
    拝啓向暑の候敗戦に伴ふ有史未曾有の難局に御両親様、皆々様如何御起居遊ばされ候哉。
     想像するも悲しき事に御座候。
     不肖戦犯者としてラングーンの獄に投ぜられしより早や半年を過ぎ連日枕辺に雨ダレの音を聞く雨期の候と相成候。
     其間ラングーン初頭の裁判に絞首刑の宣告を受け中隊長(部下)三名と今は其の執行を待ちをる次第に御座候。
     其の他大隊内の将校二名も十年の刑に独房に起居致居候。
    朝に咲き夕に散るは世の慣ひ今南国の獄に死すとも自己の過去を貫く誠の心は、信念に生きた足跡は、自らの心を静かならしめ、亡ぶる肉体のさだめは敗戦の犠牲として、唯運命として、武人の諦めの裡に有り、父上、母上、兄上、弟よ悲しみ給はらざる可く候。
     多数の部下達の戦死せし戦場に当然散るべき身なりと諦め被下度候。
    元より我々の行動たる死生を超越し自らを捨て戦争目的達成の為に邁進したる事に有之、何等恥づる所無之候。
     死刑の宣告を受け候へ共既に覚悟の事に候へば驚きも更に無之候。
     皆様御信じ被下度候。
    扨而小生も小隊長、中隊長、大隊長とその任に有り戦場の広野に横行まかり居り、親子の情愛も交さず疎き事八年に至り候へ共国家の為一身を捨てたる事、孝の最大なるものと自認致し居り候。
     亦連日不肖の武運長久を祈り給へる父母の恩に対しては深謝措く能はざる次第に御座候。
     兄上、姉上、貞治殿くぢけず撓ゆまず新日本建設の為め御努力あらん事を。
     亦一家皆々様益々多幸ならん事を祈り上げ候。
     先づは此の世の別れに一筆心境御報せまで如斯に御座候。 敬具
      二 伸
    部隊は終戦と同時にシャム、ナコンパトンに集結、四月帰還出帆せしものと推察致居候。
     留守部隊は高崎、兵の郷里は長野、群馬、新潟に御座候。
     扨而ラングーンの獄には日本人約一千名起居し居り我々の如き既決者は一人一人鍵のある部屋に留置せられゴルカ兵歩哨の監視の下に便所、洗面時のみ扉を開け亦時として運動の為め5分程舎外に出づる程度に御座候。
     其の外は一日中何の為す事も無之「今日も亦寝たり起きたり獄の中」と云った次第に御座候。
     食事は良好なるも今更肥ゆる必要も無之候。
     部隊関係の者一棟の中に起居致居候へば顔を時々合はすのが何よりの楽しみに御座候。
     御健康を祈る。敬具
    緑川寿陸軍大尉
    遺 書
     故郷の皆々様
    大正7年産声上げてより今の今迄陰に陽に寿を身護り養育被下し御高恩を考ふる秋、万感胸に込み上げて御礼申上ぐる言葉もありません。
     財政的に困難であった昭和8,9年寿の為に教育の限りを尽して被下れた事なぞ想起し亦我侭一杯に末子として養育し被下れた草々など考ふる秋,子の子たる道を尽し得たかとそれのみ心残りいたしてなりません。
    昭和15年10月感激に胸打ち震はせて故国とお別れしてから満7年,此の間支那、ビルマ、印度とあらゆる困難を克服して戦ひ抜いて来たのに遂に吾に利あらずしてポツダム条約受諾の止むなきに至った現在、最早や生きる望みを失ひました。
     何の顔あって父母にまみえんや
    唯生きる屍が、新生日本発足の為に逸る部下達を制して詔書必謹への教育に傾注し来たのみ。
    今や或る方向に動きつつある兵達を見届けし秋、既に一介の野武士の責は完うし得たと確信いたします。
    昭和21年4月10日ビルマ最初の戦争犯罪者として公判を受け銃殺の宣告を受けた寿、処刑の日迄静かに獄中で送って行きます。
     唯国の意志を奉じ戦うべくして戦って来たのでありますが、勝てば官軍敗ければ賊軍のたとへの如く、力に立つ正義の為に裁かれて師団長以下吾々中隊長迄殆ど全部死刑を宣告されたのであって、何等不思議な事もなく自然の道を寿の運命は辿って居ります。
    お父様がよくおっしゃられた武運長く御奉公するのが最上の忠節ぢゃ、然し散るべき秋は潔く散りなされ、死生一如たるを知れ、その鉄則に添うてやり得た事を寿は満足に思って居ります。
     幾度となく死生の巷を通過した寿、今十字架を背に負ふて何の驚きもなく満ち足りた心にあってアングロ達に日本武人のスピリットを示して居ります。
     寿の属していた弓兵団は九州鹿児島の菊兵団と共に日本最精強部隊として名声を得て居り亦誇って居りました。
     為にアングロ達は孫子の代迄恨み通すと言ってゐる如く戦場に於て常に彼達を少からず悩まして居りました。
     こんな前世の縁よりして吾々の運命と化したのであらうと思はれます。
    常にアングロ達を入れて居った監獄に再び吾々日本人が入るとは、が然し又時勢が世を支配してくれるでせう。
     その折は必ず彼等の惨虐なる遊戯は明るみに出されて行くものと考へられます。
    為すべきことを為し果した寿、唯処刑の呼出しを待つのみです。
     部下を持ってこの方二百余名を戦場に散華せしめた寿、此の度の銃殺こそ身相応かもしれません。
     又寿と一緒に来た二十数名の友は唯二名を生存せしめたのみにて既に戦場で華々しく散って了って居ります。
     又インパール作戦には連隊長も大隊長も皆戦死したのです。
     それを以ても皆様には寿の銃殺が諦め得られることと信じます。
    範となるべき堂々たる態度の下に裁判を受けた事も風の便りに何時かは入る事と存じます。亦寿の部下も新生日本の建設者として立ち働く秋が来るものと存じます。
    今や何の思ひ残す事もなく精神的感触のあった同胞達が必ず次期時代を支配して呉れるものと信じ安けく此処に瞑して行きます。
    尚新生日本建設への御敢闘を草葉の蔭でお祈り申上げますと共に長い間の御厚情拙文にて御礼申述べました。
     では何時迄も何時迄も御機嫌よう。
    【2013.04.29 Monday 03:48】 author :
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