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1294:イギリス管轄/シンガポール裁判/泰緬鉄道建設俘虜70名虐待致死事件・弘田少尉の遺書
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    弘田栄治大尉・昇進

    最後の手紙
    お父様、お兄様、お祖母様 加姉様 宿坊
    栄治より
    前略御免下さい。皆様に最後のお便り申上げます。
    栄治は皇国の臣民として昭和21年9月21日シンガポールの第一号法廷に於て戦争犯罪人として絞首刑を宣告されました。
    それは泰緬線ヒントクといふ処で作業指揮をしてゐた頃の事で此の地区の多数の俘虜が死亡しました。
    それは作業の為で其の責任者は私であるといふことからで,三ヶ月間に七十名程がマラリヤ,コレラ,胃腸疾患で死亡してゐる。
    其の報復を私一名に課したのである。
    私の部下は既に無事帰国してゐる。御安心を願ふ。

    栄治は当時少尉でした。
    馬来作戦を終へビルマへそれから泰緬線の建設へと転戦を重ね作業にも兵力の運用にも稍慣れて来た時分であった。
    そして誠心を以て部下と共に,千古斧鉞を入れざる原始林に闘争を続け,雨期と悪疫に侵され,それは言語に絶する死闘でした。
    命ただ奉ずるといふ一言にして誠心の戦ひでした。
    今までの栄治の戦歴をかへりみて最も戦争をしてゐるといふ感じと御国の為に働いてゐると思ったのは此の頃のことであります。
    即ち栄治としては全力全精力を出し切った時でありました。
    此処で極刑になるのであります。

    有名な画家が死ぬ一歩前に於て絵を画いた処最後の精力を出し切って筆をつけそして其の絵の出来上るまでは死を恐れ又生を神に祈った。
    しかし家人に助けられて画きおわった時は死は其の人に取って懐しいものであったといふ事を聞いた。
    私もそれ程迄には行かないとはいへ青年将校として其の全精力を出し切った処で死ぬのである。
    帰する如く考へている。
    又ソクラテスも云ってゐる如く罪ありて罰せられるより,罪なくして罰せらるる事を喜んで頂き度いと。
    唯父上,姉上,祖母様より先に逝く事を御許し願ひたい。
    しかして家名を傷つけて死んでゆくものでもない事を信じて頂き度い。

    以上の事情のもとに栄治は悠久の大義に生きて行きます。
    否栄治のみではありません。
    此のチャンギーの絞首台に祖国の万歳を絶叫しつつ散った人々は皆祖国の礎石となって残る国民を信じて立派に安心して逝くのです。

    此の戦争犯罪人とは皆祖国愛の最も高かった人々と云っても差支へないと思います。
    それで此の期に及んで言い訳がましいとは思ひますが犯罪人といふと何か私的な悪事に誤解されやすい為、敢えて御説明する次第です。

    食生活に日々追ひまくられてゐる再建の人々に今すぐチャンギーの獄に恨みを呑んで散華した神達,仏達のゐる事を認識して頂きたいとは思ひませんが,一人でも多くの方々に認識せしめられたく,これがせめてもの功徳であると考へられます。
    明日も二名銃殺されます。哀歌が庭から聞えます。後から逝くぞと見送ってゐます。

         見送るも逝くも祖国の春を待つ

     弘田大尉の絞首刑判決が1946/9/21。
     「明日も二名銃殺」は、インドネシア・カリマンタン(旧ボルネオ)住民虐待事件の憲兵中尉ら2名の9/27朝銃殺執行のことである。

        獄中作(昭和21.6.21.9)

      君の御名呼びつつ散りぬ獄の秋

      水牛の角三尺や雲の峰(泰国)

      床下にこほろぎ鳴くや昼間から

      トッケーの声も交るや虫しぐれ

      暗き灯に虫も来ぬなり獄の秋


         追 悼
      昭和21年11月22日九名逝く

       一,重なる悲憤に微笑みて
          逝きにし君の俤は
         椰子の葉蔭の夏の月
          老いたる母も見給はん

       二,むじつの罪を甘受して
          耐へにし君の魂も
         夏草深き南の
          土地より帰れ母の国


    処刑された9名

    水谷藤太郎・水戸
    小久保孫太郎大尉・千葉
    臼杵貴司・佐渡
    伊藤勝三郎・東京
    大西俯蔵・三重
    平松愛太郎准尉・岩手
    金岡貴好軍属・韓国
    小林寅夫軍属・韓国
    岩谷泰協軍属・韓国


    遺 書
     
     父弘田啓宛
     前略愈々確定が参りました。
    静に母のもとへ参ります。
    遺言は既にとどいてゐる事と思ふから今更何も書くことがない。
     敗戦,地震,栄治の死と内外多事多端の日々お察し申上げます。
    しかし栄治は生きて泰坊,昌坊を導きませう。
    正しく強く立派に。
    それを信じて頂き度い。

      万 歳
     これが栄治の最後の言葉です。
    声は消えるから紙に書いて送ります。
     ではさようなら。
    栄治の五体は健全です。
    心は爽快です。
    只今より静かに母のもとに参ります。
       昭和二十二年正月二十一日
     追て遺髪其の他一切を今井連隊長に托す。


    俺が死んだら

    俺が死んだら一枚の毛布にくるまって誰かにかつがれて,予め掘られた一米四角の深さ二米ぐらいの穴の中に入れられる。
    静かな読経の声を合図に上から土をかけられ埋められて終ふ。
    新しい墓が此処に完成する。
    上の方で色々な感情を持った人達が何か他の話に切変へて,がやがや話合って三々五々と其処を去って行く。
    それから俺が一人になる。
    全くの一人者になる。

     二日目には皮膚の色が紫色に変色するだらろう。
    三日,四日と経つと又黄色に変色して,そろそろ腐敗し始めるだらう。
    其中に蛆が俺の体を我が代の春と食ひあらすだらう。
    一ヶ月も経てば今迄の俺の肉は完全になくなって上に乗っている土が少々凹んで骨の間に詰るだらう。
    そうなればもう俺だか解らなくなって単に人間の白骨といふ丈になる。
    そして相当永い期間此の侭でいるだらう。

    これで俺は完全に此の世と縁が切れてしまったのだらうか、否何か此の世に残っている様な気がする。
    もう死んで終った俺の母が時々夢に出るような事がある。
    死んでしまった人の遺した書物を読んで此の人が未だ生きてゐる人だらうかと錯覚を起す事がある。
    だから俺でも何か地球の片隅につながってゐると考える。
    又それを確信する。
    唯人間の記憶力が足りないから日々うとくなる丈だと思ふ。
    若し残るとすれば何が残るのだらう。
    それは魂だと霊だと皆んな云ってゐる。
    魂や霊ならばどんな魂や霊になればいいのだらうか,未だ俺は誰にも聞いて見ない。
    聞けば笑はれるに決まってゐるから仕方がないから一人で考へてみた。
    憂鬱な顔をした人の所へ俺の霊が行けば爽快な気分になる。
    喧嘩をしている人達の間に俺の霊が行けば仲直りする。
    悪事を計らんとする者の側に行けば懺悔すると云ふ様な霊になり度いと思ってゐる。
    そして総ての人達に毎夜々々楽しい夢を見せたいと考へてゐる。


    辞世
    「まごころの道に貫く益荒男は 微笑み上る絞首台上」
    「国思う心は永遠に生きぬかん わが身はここに散りはつるとも」


     神酒沢孝四郎司政官の手記には、ビルマ・ラングーン刑務所に収監されていた鉄道第9連隊で弘田大尉の直属上官だった大隊長・菅野少佐の証言記載がある。

     チャンギー刑務所で処刑された弘田大尉について、ラングーン刑務所にいた筈の少佐が・・とは思うが、「まだ温かい遺骸を抱えた時の悲しみはとても筆舌に尽くせなかったという。そして厳重監視の下で火葬した際、仲間と示し合わせて、遺骨の一つを木の棒で草むらに弾き飛ばした。そしてあとでそれを拾っていくつかに分け、それは各人が隠し持って帰国し、遺族にお渡しした。」のだそうだ。
     遺体処置は日本兵俘虜の使役・・は有り得る事で、少佐が申し出て許可された事も有り得るかな。
     菅野少佐は、鉄道建設時の貴重な写真をカバンに縫い隠して復員された方である。


    【2013.01.25 Friday 03:57】 author :
    | B級裁判 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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      【2017.08.23 Wednesday 03:57】 author : スポンサードリンク
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